沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ四 夢枕 獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)李白《りはく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)我らの国|高昌国《こうしょうこく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)もぞり[#「もぞり」に傍点]、 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/04_000.jpg)入る] 〈カバー〉  李白《りはく》宛の手紙とは別に、もう一通。玄宗《げんそう》皇帝側近の宦官《かんがん》・高力士《こうりきし》が、死の直前に安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》へ書き遺した手紙には、さらなる驚愕の事実が記されていた。その呪いは時を越えて結晶し、順宗《じゅんそう》皇帝は病床に伏し、瀕死の状態に陥っていた。  空海は柳宗元《りゅうそうげん》に、呪法の正体を暴くように依頼される。これをもっていよいよ本格的に唐王朝の大事に関わることとなった空海は、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》や白楽天《はくらくてん》をはじめとした関係者と、大勢の楽人や料理人《まかない》を率い、驪山《りざん》の華清宮《かせいきゅう》へと向かった。そこは、玄宗皇帝と楊貴妃《ようきひ》が、かつて愛欲の日々を繰りひろげた場所であった。果たして空海の目的は——?  十七年の執筆期間を要した大河伝奇小説、遂に堂々の完結! 夢枕 獏(ゆめまくら・ばく) 1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部日本文学科卒業。77年、「カエルの死」で作家デビュー。『キマイラ』『闇狩り師』『サイコダイバー』『餓狼伝』『陰陽師』など、多くの人気シリーズを持つ。89年、『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞受賞。98年、『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞を受賞。 密教法具提供/みのり工房 [#挿絵(img/04_001.jpg)入る] 【巻ノ四】 沙門空海唐の国にて鬼と宴す 夢枕 獏 徳間書店  沙門空海唐《しゃもんくうかいとう》の国《くに》にて鬼《おに》と宴《うたげ》す 巻ノ四    巻ノ四  目 次  第三十三章 敦煌の手妻師  第三十四章 茘枝《ライチ》  第三十五章 温泉宮  第三十六章 宴の客  第三十七章 慟哭の旅  第三十八章 宴の始末  結《むすび》の巻   長安曼陀羅  転章    風止まず   あとがき   参考文献 [#改ページ]  ●『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』主な登場人物   ——————徳宗〜順宗皇帝の時代—————— 空海《くうかい》    密を求め入唐した、若き修行僧。 |橘 逸勢《たちばなのはやなり》  遣唐使として長安にやってきた儒学生。空海の親友。 丹翁《たんおう》    道士。空海の周囲に出没し、助言を与える。 劉雲樵《りゅううんしょう》   長安の役人。屋敷が猫の妖物にとりつかれ、妻を寝取られてしまう。 徐文強《じょぶんきょう》   所有する綿畑から謎の囁き声が聞こえるという事件が起きる。 張彦高《ちょうげんこう》   長安の役人。徐文強の顔見知り。 大猴《たいこう》    天竺生まれの巨漢。 玉蓮《ぎょくれん》    胡玉楼の妓生。 麗香《れいか》    雅風楼の妓生。 マハメット 波斯《ペルシア》人の商人。トリスナイ、トゥルスングリ、グリテケンの三姉妹を娘に持つ。 恵果《けいか》    青龍寺和尚。 鳳鳴《ほうめい》    青龍寺の僧侶。西蔵《チベット》出身。 安薩宝《あんさつぽう》   |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教(ゾロアスター教)の寺の主。 白楽天《はくらくてん》   後の大詩人。玄宗皇帝と楊貴妃の関係を題材に、詩作を練っている。 王叔文《おうしゅくぶん》   順宗皇帝の身辺に仕える宰相。 柳宗元《りゅうそうげん》   王叔文の側近。中唐を代表する文人。 韓愈《かんゆ》    柳宗元の同僚。同じく中唐を代表する文人。 子英《しえい》    柳宗元の部下。 赤《せき》     柳宗元の部下。 周明徳《しゅうめいとく》   方士。ドゥルジの手下。 ドゥルジ  カラパン(波斯《ペルシア》における呪師)。   ——————玄宗皇帝の時代—————— 安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》 玄宗の時代に入唐し、生涯を唐で過ごす。中国名は晁衡。 李白《りはく》    唐を代表する詩人。玄宗の寵を得るが後に失脚する。 玄宗《げんそう》    皇帝。側室の楊貴妃を溺愛する。 楊貴妃《ようきひ》   玄宗の側室。玄宗の寵愛を一身に受けるが、安禄山の乱をきっかけに、非業の死を遂げる。 安禄山《あんろくざん》   将官。貴妃に可愛がられ養子となるが、後に反乱を起こし、玄宗らを長安から追う。 高力士《こうりきし》   玄宗に仕える宦官。 黄鶴《こうかく》    胡の道士。楊貴妃の処刑にあたり、ある提案をする。 丹龍《たんりゅう》    黄鶴の弟子。 白龍《はくりゅう》    黄鶴の弟子。 不空《ふくう》    密教僧。 [#挿絵(img/04_006.png)入る] [#挿絵(img/04_007.png)入る] [#ここから5字下げ] カバー装画/立原戌基 表紙写真/板彫胎蔵曼荼羅(高野山金剛峰寺) 装丁/岩郷重力+WONDER WORKZ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    第三十三章 敦煌の手妻師        (一)    不空三蔵の話  私は、天竺《てんじく》の北の土地に、婆羅門《バラモン》を父とし、康居人《こうきょじん》を母として生まれました。  まだ幼いうちに、私は母に連れられて、この大唐国にやってきたのです。  幾つもの砂漠の国を越え、水を渡り、この国に入ったのは、十歳のおりのことでございました。  私と母は、敦煌《とんこう》で三月《みつき》ほど滞在したのですが、最初に黄鶴《こうかく》に会ったのは、その敦煌でのことでございました。  御存知の通り、敦煌は、この大唐国と胡《こ》の国との境にあり、胡人《こじん》の姿は、この長安《ちょうあん》以上に多くございます。  市に行けば、胡の国の絨毯《じゅうたん》や壺《つぼ》、衣《きぬ》、様々のものがそこで売られておりました。  私自身は、天竺の人間でありましたので、胡人の商《あきな》いするものよりは、唐人や、唐の国の風物の方が珍しく、眼を奪われていたのですが、その細かい話は、ここではいたしません。  市では、物だけでなく、多くの芸人たちが、大道で芸を売り、銭を集めておりました。  火を飲む者。  剣を飲む者。  幻術を使う者。  踊る者。  猿に芸をさせて、それで銭を集める者。  五弦の月琴《げっきん》を弾いて、唄う者。  胡人も唐人もおり、人の集まる敦煌の市は、そのような芸人たちの銭の稼ぎ場所でもあったのでございます。  そういう芸人たちの中に、ふたりの胡人がおりました。  ひとりは、まだ三十歳になってはいないと見える男、もうひとりは、二十歳を幾つか越したかと見える娘でございました。  私は、ひとりで市の見物に出かけて、そのふたりを見たのでございます。  ひときわたくさんの人だかりがしているところがあり、何かと思って、人だかりの足の間をくぐって前に出たら、そのふたりがいたのでございました。  ふたりは、一本の槐《えんじゅ》の樹を背にして、皆の前に立っておりました。  ふたりが、胡人であることは、すぐにわかりました。  眸《め》の色。  肌の色。  鼻の高さ。  それらはいずれも胡人の特徴を持っていたからでございます。着ている物も、胡人のもので、足にはふたりとも長靴を履《は》いておりました。  何故、私がそれらのことを覚えているのかというと、そのふたりが見せていた芸が、たいへんなものであったからでございます。  まず、男の方が口上をのべ、それに合わせて、娘が槐の樹を背にして立ちます。  すると、男は、その懐から、何本かの短剣を取り出しました。  全部で三本。  男は、微笑を浮かべながら、鮮やかな手つきで、その短剣を投げました。  見ている客たちの間から、一瞬、悲鳴があがりました。  その短剣は、男の手を離れ、女の左頬のすぐ横に突き立ったのです。  次に投げた短剣は、女の右頬のすぐ横に突き立ちました。いずれも、刃が頬に触れそうなほどすぐ近くです。  もし、わずかでも手元が狂ったら、短剣は娘の頭部に突き刺さってしまうことになります。  このようなことをやる時、多くの芸人たちは、その顔に笑みを浮かべるのですが、その笑みはかたちばかりのもので、ほとんどの場合、堅く強《こわ》ばっているものです。  しかし、その男と女が、ふたりしてその顔に浮かべている笑みというのは、なんとも言えない、今自分たちがやっていることが、楽しくてたまらないという笑みであったのでございます。  二本の短剣で、顔の両側を挟まれたまま、娘は、右手を動かして、懐から、ひとつの梨を取り出しました。  誰もが、胸に思い描いたのは、娘が、それを自分の頭の上に乗せるところであったでしょう。  娘の頭の上に乗せた梨を、投げた短剣で貫く——これはなかなかの見せ場でございます。  しかし、娘は、それを頭の上には乗せませんでした。  なんと、娘は、その梨をその口に咥《くわ》えたのでございました。  梨を咥えた娘が、正面を向き、その前に短剣を持った男が立ちました。  そして、男は、その短剣の刃を握って構えたのでございます。つまり、その男は、娘が咥えている梨に向かって、短剣を投げようというわけなのでしょう。  なんということでございましょう。  左右ならよいとしても、もしも上か下かに短剣が逸《そ》れたら、娘の顔か喉《のど》にその短剣が刺さってしまいます。  男の腕は、今しがた見たばかりですから、ねらいをはずしたとしてもごくわずかであり、娘の頭を大きく逸れるということはないでしょう。  そして、おそろしいのは、もしもみごとに短剣が梨に当ったとしても、短剣は梨を貫いて、娘の口の奥に突き刺さってしまうことになります。  男が、短剣を投げた時、見物人たちの間から大きな悲鳴があがったのを、今でも私はよく覚えております。  風を切る音が聴こえるほど疾《はや》く手を振り降ろして短剣を投げたのですが、その短剣は手の動きほど疾くは飛びませんでした。  真っ直《すぐ》というよりは、山なりに弧を描くように宙を飛んで、斜め上から、さっくりとその短剣は娘の咥えた梨に刺さっていたのでございました。  見物していた者たちはもうたいへんな騒ぎでございました。声をあげる者、手を叩く者、銭を投げる者。  私も、見ていておおいに驚いたことでございました。  しかも、その梨を娘が口からはずして手にとって皆に見せたのですが、短剣の切先《きっさき》は梨の外に浅く突き出ているばかりであり、口の中を傷つけるほどではありませんでした。  娘は、その梨から短剣を抜き、男に投げ返しました。  男は、宙でその短剣の刃を握って受けとめ、またその手をあげて構えました。  今度は何をやるのかと、見物人たちがふたりに視線を向けますと、娘が次にやったのは、さらに驚くべきことであったのでございます。  娘は、次に、梨を自らの額に押しあてたのでした。  なんということでしょう。  これでは、もしも、さっきと同様に、うまい力で、梨に短剣が当ったとしても、娘が傷つくことは避けられません。  切先は、わずかにしろ、梨の向こう側に突き抜けるのであり、そうなった時、梨の向こう側にあるのは、口の中の空洞ではないのです。さきほど突き出ていた分だけ、切先は娘の額に突き刺さり、場合によっては傷だけではすまず、娘が死んでしまうことにもなりかねません。  見物人たちの騒ぎが、あまりのことにすうっとおさまっていったのでございます。  それを待っていたかのように、男が短剣を投げました。  さきほどのように、わざと手の振りだけを疾くするというようなことは、もう、男はしませんでした。  投げる時に、小さく尖《とが》らせた男の唇から、  しゅっ、  という呼気の音が小さく響いただけでございました。  またもや、みごとに短剣は梨に刺さりました。  しかし、梨に短剣が当るであろうことは、この男の並ならぬ器量については見物人たちももうわかっておりますから、心配してはおりません。  見物人たちが心配したのは——あるいは心のどこかで期待したのは、梨の向こう側に、短剣の切先が突き抜けるかどうかということでございました。  数瞬、娘は動きませんでした。  呼吸を止め、表情も動きません。  しかし、ほどなく、その娘の唇がにっこりと微笑したのでございます。  娘が、短剣の刺さった梨を額から離し、見物人たちに見せた時、一同の間にどよめきがはしりました。  短剣の切先は、みごとに梨の中で止まっていたのでした。  さっきよりも多くの歓声があがり、さっきよりも多くの銭が投げられたことは言うまでもありません。  しかし、私は、ひとつのことに気づいておりました。  皆は気づかなかったようですが、私にはわかったのです。  宙を飛んで来る短剣を梨で受ける時に、娘が小さく動いていることを。たとえば、山なりに落ちてくる短剣を、口に噛《か》み咥えた梨で受ける瞬間に、小さく娘が顔をあおのかせていることを。  そうすれば、山なりに落ちてきた短剣を、真っ直に受けたように、より見えることでしょう。  額にあてた梨で短剣を受ける時、娘は、その瞬間に梨を額にあてたまま、頭を上体ごとわずかに後方に振って、短剣が梨に刺さる衝撃を和《やわ》らげていたのでございます。  もっとも、それは、ささいなことでございました。  男の並ならぬ器量がなければ、とてもできることでないのは言うまでもないことであったからでございます。  それからも、何度かこの胡人の芸人たちを見たのでございますが、ある時から急にその姿を見なくなりました。  私は、この者たちが、いずれかの土地へ移ってしまったのであろうと勝手に思い込んでおりました。どれだけ人気があろうと、あまり長くひとつの土地で同じ芸を見せていては、飽きられてしまうからです。  それが、実はそうではなく、このふたりがまだ敦煌にいたことを、後になって私は知るのですが、その頃、私にはもっと気になることがあったのでございます。  前々より、唐の若い天子《てんし》でいらっしゃる玄宗《げんそう》皇帝が、この敦煌の地までやってくることになっていたからでございます。        (二)  その年は、開元二年——玄宗さまが、二十九歳という若さで開元一年にこの大唐帝国の皇帝となられてから、ちょうど一年目でございました。  玄宗皇帝が皇帝となられたおりに、絵師に命じて千仏洞《せんぶつどう》のある窟《くつ》に描かせていた絵ができあがったのでございます。  それをごらんになるために、玄宗皇帝が、この敦煌までおいでになることになっていたのでした。  その絵は、たいへんに素晴しい出来であるとの評判で、私も、子供心に以前から見たいと思っていたのですが、玄宗皇帝が見るまでは、我々の眼には触れさせてはもらえなかったのでございます。  玄宗皇帝がおいでになれば、その絵を見ることができるようになるのです。  その通り、後になってその絵を私は見たのですが、噂にたがわず、その絵は素晴しいものでございました。 『法華経《ほけきょう》』、『観無量寿経《かんむりょうじゅきょう》』などから題材をとったものであり、『法華経』化城喩品《けじょうゆほん》のものは、それはそれは鮮やかな碧《あお》い絵の具を壁一面に使ったみごとなものでございました。  宝物を求めて砂漠の中を長い旅をしてきた隊商の者たちが、その疲労の極に達した時、案内者が、方便をもって、その隊商に希望と力を与える話が、絵になっておりました。  あの砂漠のすぐあちらに夢のごとき美しい都がございます——それで、隊商は再び前へ進む気力を得るのです。  彼方《かなた》に連なる山々、咲き乱れる花。美しい樹、城壁に囲まれた都。  それはそのまま、この大唐帝国を、我がものにしたいという玄宗様のお心の裡《うち》のことだったのでしょう。 『観無量寿経』の絵の中心に座しておられるのは、阿弥陀如来《あみだにょらい》でございます。  浄土の宮殿は、たとえようもないほどに典雅であり、周囲には、観音菩薩《かんのんぼさつ》、勢至《せいし》菩薩、飛天《ひてん》、舞楽天《ぶがくてん》、迦陵頻迦《かりょうびんが》、諸々の神々を配しての浄土園でございます。  また、人の丈よりも大きく描かれている大勢至菩薩の姿もございました。 �智恵の光をもってあまねく一切を照らし、三塗《さんず》を離れしむるに無上の力を得たまえり。この故にこの菩薩を号して大勢至と名づく�  と経典《きょうてん》にございます。  この菩薩は、頭には長い帯を垂下《すいか》させた宝冠を戴き、僧祇支《そうぎし》を着け、長裾《ちょうきょ》をまとい、両腕には膝までかかる天衣を掛けていらっしゃいます。胸には瓔珞《ようらく》をつけ、そのお貌《かお》は、なんと端整でふくよかであったことでしょう。  千仏洞にあまたある仏画の中でも、これらの絵は屈指の物でございましょう。  浄土の阿弥陀如来——玄宗様が、それを御自身の姿と照らし合わせて考えていたであろうことは、今思っても疑えません。  さて、次に私が、あの男と娘を見たのは、まだ玄宗皇帝が敦煌にいらっしゃる時でございました。  街のはずれにある市まで、醍醐《だいご》(ヨーグルト)を買いに出たその帰りでした。  例の一本の大きな槐《えんじゅ》の樹の下で、牛に曳《ひ》かせた荷車の上にたくさんの瓜《うり》を積んだ男たちが、陽差しを避けて、涼んでおりました。  男たちは、四人。  瓜を割って、男たちは熱心にそれを食べているところでした。  時期的に瓜にはまだ早い頃でしたが、その瓜はどれも立派で甘い匂いが私のところまで届いてくるのです。  その瓜を食べている男たちの前で、何やら男たちに話しかけている男がおりました。その顔に、見覚えがあります。  あの、娘に向かって短剣を投げていた男でございました。しかし、男はひとりきりであり、近くにあの娘の姿はありませんでした。  私は、少し気になって、足を止めてしまいました。  というのも、短剣の男の顔がやつれて、痩せていたからでございます。 「お願いいたします。どうか、その瓜をひとつでも分けてはいただけませんか」  短剣の男は、何度も頭を下げて、瓜を食べている男たちに哀願しているのでございました。 「金が無ければだめだな」  男たちが言いました。 「金ならば……」  短剣の男は、懐から、幾《いく》ばくかの銭を出して、男たちに見せました。 「足りないね」 「こんな額じゃ、売れないよ」 「これは、皇帝に献上する瓜だからな」 「あきらめるんだな」  男たちの返事は、いずれも素《そ》っ気《け》ないものでした。 「妻が、病《やまい》を得て、ずっと寝込んでいるのです。その間に、蓄えも底をついてしまい、妻は、この二日間まともに腹に何も入れてないのです」  妻というのは、あの時、梨を口に咥えていた女の人のことであろうと私はその時思いました。 「今朝になって、瓜ならば食べられそうだというので、こうして、市まで瓜を捜しに来たのですが、まだ時期が早く、どこにも瓜を売っている店はなかったのです。あきらめかけていたところへ、あなたたちのお姿を見つけたのです」 「病というのは気の毒だが、おれたちがあんたのカミさんを病気にしたわけじゃない」 「そこを、なんとかひとつ——」 「駄目だ。これは皇帝がお好きだというので、わざわざこの日に間にあわせるために作ったのだ。手間がかかっているし、あらかじめ数も数えてある」 「あなたたちがお食べになっている分は?」  問われて、男たちは一瞬、鼻白んだ表情を作り、 「これは、はじめから、食べてもいいとお許しをいただいている分さ。もう余分はないということだな」  そう言って、種を吐き出しました。  短剣の男は、しばらく、凝《じ》っと黙っておりましたが、やがて、 「では、ただいま、皆様が吐き捨てられましたこの種なら、いただいていってよろしゅうございますか」  そう言いました。 「おう。種なら好きなだけ持ってゆくんだな——」 「いえ、たくさんはいらないのです。ひと粒《つぶ》ふた粒もあれば……」  短剣の男は、地面に落ちていた種を、ひと粒、ふた粒指先でつまんで拾うと、近くにあった棒きれを一本手に取って、その棒きれの先で地面をこじり、小さな穴をそこにあけたのです。  短剣の男は、その穴に、拾った種を上から落とし込むと、その上から土をかけました。  男たちは、短剣の男が何をしようとしているのかと、興味深げに眺めております。  その視線につられて、ひとり、ふたりと立ち止まって、それを眺める者たちが増えてゆきました。  短剣の男は、腰に下げていた皮袋を取り出すと、口を開いて、それを斜めに傾けました。  すると、その皮袋の中から、ちょろちょろと水がこぼれ出てきて、種の上にかけたばかりの土の上に降り注ぎました。 「さあ、芽を出せ、芽を出せ……」  短剣の男は、小さな声でそうつぶやきました。  と——  濡れて黒くなっている土の中から、小さな、初《うい》ういしい緑色をしたものが顔を出したのでございます。 「ほうれ、出たぞ、芽が出たぞ」  確かにそれは、芽でございました。  それが見物人たちにもわかったのでしょう。 「おう」 「出たぞ」 「芽だ」  そういう声が、見物人たちの間からあがりました。  瓜を喰べながら、短剣の男のやることを眺めていた男たちも、 「本当じゃ」 「芽が出た」  声をあげております。 「のびるぞ、のびるぞ……」  男が、上から声をかけますと、その芽が見ている間にもどんどんとのびてまいります。 「そうれ、のびよのびよ」  男の声と共に、芽はどんどんのび、蔓《つる》は地を這い、葉も繁ってまいりました。 「ほうれ、花が咲いた」  男の言葉の通りに、葉の間に花が咲きはじめました。 「なんと」 「むうう」  見物人たちの間から、溜め息とも呻《うめ》き声ともつかない讚嘆の声が洩《も》れております。  そして、花が散り—— 「さあ、なるぞなるぞ実がなるぞ」  男が声をかけますと、さきほどまで花が咲いていた場所に、実がふくらみはじめました。 「大きくなれ、大きくなれ」  男の声と共に、実がさらにふくらみ大きくなって—— 「そうれ、瓜がなったわい」  なんと、葉の間に、重そうな瓜が幾つもなっていたのでございます。 「おう」 「みごとな瓜じゃ」  見物人も声をあげております。 「さて——」  男は、腰から短剣を抜き取り、ひとつの瓜を切り落としました。 「わたしの分は、ひとまずこれで充分——」  そう言って、男は見物人たちを見回し、 「よろしかったら、これをおひとつずついかがかな」  そう言ったのです。 「いかがとは、売るということか?」 「いえ、お金はけっこうです。さしあげましょう」  たちまち、見物人たちが、男の許《もと》に殺到いたしました。 「慌てずともよろしゅうござりまするぞ。数は充分にござりまする」  男は、持っていた短剣で、蔓から瓜を切り取って、次々に集まってくる見物人たちに渡してゆきました。  とうとう、最後の瓜を渡すと、男は、足元の瓜を拾いあげ、 「まことに、ありがとうござりました」  慇懃《いんぎん》に、瓜を運ぶ途中の男たちに頭を下げた。  男たちは、あっけにとられており、短剣の男に向かって、上手に挨拶を返すことのできた者は誰もおりませんでした。  短剣の男は、さらにもう一度頭を下げ、 「では」  背を向けて、その場を去ってゆきました。  私は、瓜ももらわずに、その光景を最初から眺めていたのですが、騒ぎが起こったのは、そのすぐあとでございました。 「瓜がない」  男たちのうちのひとりが、大きな声で叫んだのでございます。 「なに!?」 「何だと!?」  木陰《こかげ》で休んでいた男たちが、次々に顔をあげました。 「見ろ、瓜が失《な》くなっているぞ」  最初に声をあげた男が、荷車を指差しておりました。  見れば、さっきまで荷台にいっぱいに積まれていたはずの瓜が、ひとつ残らずそこから消えていたのでございました。 「どうしたのだ」 「いったい、どうして瓜が消えてしまったのだ」 「皇帝に献上する瓜だぞ」  騒いでいる男たちのうちのひとりが、ふいに、何かに気づいたように叫びました。 「あの男だ」 「あの男?」 「さっきの、瓜をくれと言った男だ。あの男が、何かのめくらましか幻術を使って、おれたちの瓜を、見物人たちにくれてやってしまったのだ」  その男の言う通りでございました。  実は、私は、途中から、あの短剣の男が何をしていたのか、全てはっきりとこの眼で見ていたのでございます。  おかしい、と思ったのは、男が、 「ほうれ、花が咲いた」  と言った時に、本当に花が咲いたように見えたことでした。  おかしい、こんなことがあるわけはないと私はその時思いました。  そして、ひとつ、気づいたことがありました。  それは、芽が出たように見えた時も、蔓がのびてゆくように見えた時も、必ず、短剣の男がそれを先に口にしていることでございました。  芽が出た——と言えば、芽が出たように見え、のびた——と言えば蔓がのびたように見え、咲いた——と言えば花が咲いたように見える。  これは、あの短剣の男が、言葉によって見物人たちに何かの呪《しゅ》をかけているのであろうと思ったのです。  そして、一度眼を閉じ、何度か呼吸を繰り返し、心気を澄ませてからもう一度見やると瓜の蔓などしげってはおらず、ただ、男の足元の濡れた土の上に、どこかそこらからつまんできたらしい緑色の草がひとつ落ちているばかりでございました。  男が瓜を見物人たちに与えはじめた時は、ただ、男は、荷車の上にある瓜に手を伸ばし、そこからひとつずつ瓜を手に取って、それを渡しているだけであったのです。  これが、他の見物人たちには、蔓から瓜を切り取って渡しているように見えていたのでしょう。  人の心の隙に入り込み、このようなことのできる人間のいることを、その時、私ははじめて知ったのでございました。        (三)  さて——  私が次にその短剣の男を見たのは、それから四日後のことでございました。  私は、母とつれだって、新しい絵を観《み》るために、千仏洞まで出かけて行ったのです。  玄宗様も、すでに絵をごらんになられ、我々もその新しい絵を観ることができるようになっていたのでございます。  早朝に出て、昼には千仏洞に着いていたでしょうか。  千仏洞の前には、ひと筋の川が流れております。  その川の手前から、千仏洞の景観が見えております。岩の崖《がけ》のそこいら中に、穴がうがたれ、穴と穴とをつなぐ道が作られ、梯子《はしご》がかけられ、望めばどの石窟《せっくつ》にもゆけるようになっているのですが、なにしろ数が多すぎて、どの窟がどうというのは、その頃の私にはわかるはずもありません。  ただただ、その素晴らしい眺めに驚きながら川を渡り、歩いてゆきますと、千仏洞の正面の広場にひとだかりがしておりました。  参拝の人間や、この千仏洞に住んでいる僧たちの姿もありましたが、ひときわ眼を惹《ひ》いたのは、いかめしい甲冑《かっちゅう》に身を包んだ兵士たちと、きらびやかな衣《きぬ》で身を装った人間たちでした。  まだ見たことのない都の宮廷《きゅうてい》を歩く人々ならば、かくもあらんという姿でございます。  しかし、見えるのは人垣ばかりであり、その人垣の内側で何が行なわれているのかは、外側からはわかりませんでした。  私は、子供であることを利用して、母をそこに残して、人垣の間に潜《もぐ》り込んでゆきました。  邪険に蹴られたり、あからさまな非難の声を浴びせられたりしたのですが、好奇心には勝てません。  ついに、輪の一番内側にたどりつきました。  そこで、私はひとつの光景を眼にしておりました。  兵士たちに囲まれて、ひとりの青年と、それから女の人が立っていたのです。そのふたりの顔に見覚えがありました。  あの、短剣を投げていた男と、その妻でございました。  そのふたりの前で、玄宗皇帝が、金箔《きんぱく》を張った豪奢《ごうしゃ》な椅子に座っておりました。  皇帝の背後や左右には、何人もの貴人たちが立って、玄宗様と一緒に、その男と女を見つめておりました。  兵士の中でも、特に立派な鎧《よろい》と武器を身につけた人物が、 「では、やはりおまえが皇帝に献上される瓜を盗んだのだな」  このように短剣の男に問いました。 「妻が、病を得て、瓜を食べたがっておりました」  短剣の男が言いました。 「わたしがいただいたのはひとつであり、他の瓜はみな——」  男がそこまで言いかけた時、 「盗んだのだな」  念を押すように、立派な甲冑を身につけた男が言いました。 「しかし、わたしは——」 「盗んだのか、どうなのだ!?」 「いただきました」 「おかげで、玄宗様は、瓜を食することができなかった。これは上《かみ》をなみする大罪《たいざい》ぞ」 「——」 「話によれば、不思議な幻術を使ったそうだな」 「——」 「瓜の種を地に蒔《ま》き、たちどころに無数の瓜をみのらせたそうだが、それがここでできるか」 「できませぬ」 「なに?」 「あれには、種《たね》が必要でございます。瓜の種がなければできるものではございません」 「種といっても、いずれは外法《げほう》の術であろう。種がなくともできるのではないか」 「いいえ。たとえ、外法の術であろうが、幻術であろうが、種なくしてはできませぬ」 「——」  今度は、兵士が沈黙することになりました。  そこへ、貴人のうちのひとりが、横手から声をかけてまいりました。 「そこな胡人《こじん》よ」  貴人は、短剣の男を胡人と呼びました。 「聴けば、おまえは、幻術だけではなく、短剣を投げるのを得意としているそうな」 「——」 「そこの女の頭に梨を乗せ、それを投げた短剣で刺してみせるというではないか」 「はい」 「それをここで観せてくれぬか」  貴人は言いました。 「——」 「さすれば、場合によってはぬしが罪、赦《ゆる》しやってもよいと、皇帝は言っておられる——」 「——」  短剣の男は、答えません。  ただ、皇帝を見つめています。 「このままでは、ぬしの首をはねねばならん。しかし、今度《こたび》は、千仏洞の絵ができあがっためでたいできごとのため、玄宗様はこの地までやってこられたのだ。無益な血を流したくないと、玄宗様もおっしゃっておいでだ。妻の病という事情もあろう。かといって、大罪を犯したおまえを、このまま無事に帰すわけにゆかぬ——」 「——」 「どうじゃ、短剣を投げてみせよ」  兵士は言った。  短剣の男は、貴人の言っていることは本当かと、問うように玄宗様を見ておりました。  やがて——  うむ、と声に出さずに、玄宗様は、男に向かってうなずいてみせたのでございました。  そうして、あの事件がおきたのでございます。        (四)  私が、始めに見た時と同じように、男は、用意された梨に、次々に投げた短剣を刺してゆきました。  最初は、手に持った梨に。  次は、頭に乗せた梨に。  次は、口に咥えた梨に。  次は、額に付けた梨に。  どれも、あの時と同じでした。  違ったのは、その次でございました。  四つの梨に短剣を刺し終えた時、集まった人々の間に沸《わ》きあがったのは、初め、溜め息にも似た、低いどよもしの声でした。  期待したような事故が起こらなくてがっかりした思いと、そして、逆にそれでよかったというほっとした思いがない混ぜになったものであり、本当の歓声が沸きあがったのはその次でした。  その歓声が静まった時——  玄宗皇帝が、横にいた貴人に何か言っているのがわたしの眼に映りました。  やがて、話が終ったらしく、玄宗様は、もとのように椅子に深く座りなおしました。  それを待っていたように、玄宗様と話をしていた貴人が前に一歩進み出て、 「なかなかの技であったが、それは、おまえたちが常に見せている芸であろうと、皇帝はおおせになっている——」  このように言ったのでございます。 「常の芸をここで見せたからと言って、罪を赦すわけにいかない。しかし、皇帝は、次のようにおおせになった」  何と言ったのか、そこに集まった者たちは、貴人が次に言うことを聴きのがすまいと、耳をそばだてました。 「今一度、短剣を投げて、梨に当ててみせよと——。しかし、その方法については、これまでとは違うやり方をせよとのおおせであった」  その、これまでとは違うやり方について、貴人は説明を始めました。  まず、近くにあった一本の柳の大樹を指差し、 「あれなる柳の幹の前に女は立ち、背と、頭の後ろとを、その幹にぴったりとあてねばならぬ。これは、動かぬように女の頭と柳の幹とを、布でしっかりと結ばねばならぬ。しかる後に、女の額に梨をあて、やはり布にて、しっかりとその梨が額から動かぬように縛りつける……」  貴人は言いました。 「この方法にて、先ほどと同様に、梨を短剣にて貫いてみせよ」  貴人は、言いながら、胡人の男を見ております。 「よいか、試《や》ることができるのはただ一度だけぞ。梨に短剣が当れば、そなたの罪を赦そうではないか。もしも、梨に当らねば、この場で両名とも死罪じゃ」  貴人は言い終えて、玄宗様を見やりました。  それを受けて、玄宗様は、満足したようにうなずかれたのでございました。  今、貴人が口にしたのは、玄宗様の案であることは疑いありません。  つまり、玄宗様は、私と同様に、胡人の見せた短剣を投げて梨に刺す技の微妙な綾《あや》を見てとっていたのでございます。  女の頭の後ろを樹の幹にあてさせ、動かぬようにしたのは、女に、その微妙な動きをさせぬためでした。  胡人の芸が、男の技と、宙を飛んでくる短剣に対して女がやっているわずかな動きという、ふたつのものから成り立っていることは、すでにお話しした通りです。そのうちのひとつを封じてしまって、はたしてうまくゆくのでしょうか。  もちろん、短剣を梨に当てるだけのことなら、胡人の男にとっては、造作もないことでしょう。  しかし、問題は、短剣を命中させることができるかどうかということではなく、投げる時の力の入れ方です。 「どうじゃ」  問われても、答はただひとつです。  やるという返事しかできません。  男がうなずくと、見物人たちがまたもやどよめいたのは言うまでもありません。  しかし、そのどよめきの中に、どことない不安とも怖いもの見たさの期待のようなものが混じっていたのは、玄宗皇帝が提案した方法の意味するものが、多少なりともわかったものがいたということでしょうか。  さて——  女が、まず柳の幹に縛りつけられ、頭部が固定されました。  次には、額に梨があてられ、それにも布が巻きつけられて、額から落ちぬようにゆわえられました。  準備が整い、いよいよ、胡人の男が女の前に立ちました。  これまでにない緊張が、胡《こ》の国の幻術師の全身に満ちているのがわかりました。  その貌からは血の気が退《ひ》き、表情が凍りついておりました。  男は、何度も乾いた唇を舐《な》め、短剣を構えてはまた下ろし、肩で呼吸を整えております。  この短剣を刺す芸においては、女の方のはたす役割が、かなり大きかったことが、男の様子から見てとれます。むしろ、男よりは女の方が落ち着いているように、私には見えました。 「だいじょうぶ。必ずうまくいくわ」  女が男をはげまそうと、声をかけるのですが、それでも男は、まだ迷っておりました。  その男の迷いや不安が、女にも憑《のりうつ》ったのでしょうか。そのうちに、女の表情にも、明らかな動揺が見てとれるようになりました。  見ているこちらにも、不安と緊張が移ってしまったように、私の手のひらにもじっとりと汗がにじんでおりました。  やがて——  男は、覚悟を決めたように、大きく息を吐き出し、深く息を吸い込みながら短剣を握って息を止め、構えました。  男の眼は吊りあがり、額には汗が浮き、鬼のような形相になっておりました。 「哈《は》っ!」  鋭い気合と共に、男の手から短剣が放たれました。  私は、その時、思わず声を飲み込んでおりました。  男が短剣を投げる時の手の速度が、これまでより、わずかに速かったからでございました。  見物していた者たち全員が、次の瞬間、大きな声をあげておりました。  短剣が、梨に刺さった途端、女の首ががっくりと前に倒れ、梨と額との間からつうっと赤いものが滑り出てきて、それが女の鼻穴から地に滴《したた》りました。  慌てて兵士たちが駆け寄り、梨を女の額に巻きとめていた布をほどいたのですが、梨は落ちてはきませんでした。  男の投げた短剣が、梨を貫き、女の額に刺さっていたのでございます。  女は、眼を開いたまま、死んでいたのでした。  男は、女に駆け寄りもせず、呆然《ぼうぜん》としてその場に立ち尽くしておりました。  やがて、男は、ふらふらと女に歩み寄り、膝をついて、女の屍体《したい》を抱きあげました。 「ああ、なんと……」  男は、低い声でつぶやきました。 「ああ、なんという、なんということを……」  男は、啜《すす》り泣き、獣のような声で慟哭《どうこく》いたしました。  女を抱いたまま、顔をあげ、玄宗さまを見やり、 「たかだか、瓜のことで、ここまで……」  聴く者が、思わず寒気を覚えるような、おそろしい声でございました。 「我らの国|高昌国《こうしょうこく》は、その昔唐に滅ぼされた……」  男はつぶやきました。  ぐつぐつと泥を煮るような声でございました。 「そして、今はまた我が妻まで……」  男は、玄宗さまからさらに顔をあげ、天を見あげました。  哀しみに満ちた顔で、男は、小さく笑ったようでございました。  男は、小さく、哀しげな笑みを浮かべて泣いておりました。  女の身体を、柳の幹に縛りつけていた縄が、男の横に落ちておりました。  女の身体を、地面に仰向けに横たえ、男はそこに落ちていた縄を拾いあげ、また、玄宗様を見やりました。 「ただいまお眼にかけましたるは、梨刺の技。過ちて我が妻を殺したるは、それがしの不覚——」  泣きながら、男は口上をのべております。 「さすれば、これより、天に昇りて天帝より我が妻の生命《いのち》、またこの世にもらい受けてまいりましょう」  言いながら、男は、その縄に塒《とぐろ》をまかせ、地についた自分の両膝の前に置きました。  小さく男が呪を唱えると、縄の一方の端が、塒の中から蛇のように頭を持ちあげました。  さらに呪を唱えると、するすると縄は天に昇ってゆきます。 「おお」  見物人たちは、何ごとが起こったのかと、驚きの声をあげました。  縄は、さらに天へ向かって昇ってゆきます。  とうに、伸びた分はもとの縄の長さを追い越しているのですが、地面に残った縄は、まだいくらも減っているようには見えません。  ついに、昇ってゆく縄の先端は、天に昇って見えなくなってしまいました。 「では、これより出かけてまいりまする」  男は、立ちあがり、涙をぬぐいもせずに、縄に手をかけました。  両手で縄を握り、脚をからめ、男は縄を昇りはじめました。  男の身体は、すぐに手が届かぬ高さとなり、やがて家の屋根の高さとなり、ついには、千仏洞の崖の高さよりもさらに高い場所までたどりつきました。  しかし、まだ縄は上まで伸びており、男も昇るのをやめようとはいたしません。  男の姿は、豆粒ほどの大きさになり、やがて、上空を流れる雲の中へ、縄の先端も男の姿も消えて見えなくなってしまいました。  兵士や貴人たちが、何やら異様なことが起こっていることにようやく気づきはじめました。  いつの間にか、見物人たちも、そしてこの私も、胡人の幻術士の幻術にかかっていたのです。  ふいに、激しく慟哭する声が、天から聴こえてまいりました。 「ああ、我独りであれば、いつでも逃げおおせたものを。我が妻を質にとられてはそれもかなわず……」  たしかに、あの胡人の声でございました。 「恨むぞ、玄宗!」  血の凍るような、恐ろしい響きを持った声が、天より響いてまいりました。 「我が生命ある限り、おまえに祟《たた》ってくれるわ」  その声に、兵士たちが剣を抜き、玄宗様を守るようにその周囲を囲みました。  胡人が、実は天に昇ったのではなく、どこかに隠れて、玄宗様をねらっているのではないかと、兵士たちは考えたようでございました。  しかし、まぎれもなく、まだ縄は天に向かって棒のごとくに立っており、声は上から注いでまいります。 「玄宗、これより、毎夜《まいよ》、夜毎《よごと》、我のことを思い出し、震えて眠るがよい。我が恨み、努《ゆめ》忘るなよ……」  その声が響いた時、 「やっ」  兵士のひとりが、縄に切りつけましたが、縄はたわんだだけで切れません。  しかし、兵士が剣をふるったのが合図であったかのように、するすると縄が天から落ちてまいりました。  全ての縄が、地面に落ちきってみれば、それは、天に届くほどのものではなく、もとの長さのままの縄でございます。  雲以外、何もない青い天から、低い慟哭の声が響いてきて、やがて、その声もやんでみれば、地には胡人の妻の屍骸《しがい》が、仰向けに倒れたまま、開いた眼で青い天を見あげているばかりであったのでございます。        (五)  三度目に、短剣の男に出会った時、私は、すぐには、それがあの男だとはわかりませんでした。  というのも、二度目に会った時——つまり千仏洞での痛ましい出来事があった時から、三十年近くの歳月が過ぎていたからでございます。正確に申しあげれば、ちょうど二十九年でございます。  何故、そこまではっきり覚えているのかというと、それは天宝二年の春、あの宴《うたげ》の時であったからです。  それにいたしましても、あれは、なんと素晴しい宴であったことでございましょう。  玄宗様のお傍《そば》には、いつも、あの貴妃様がいらっしゃいました。  高力士《こうりきし》様もいらっしゃいましたし、李白《りはく》様もおりました。  忘れもいたしません。  あの時、即興で李白様が詩をお作りになり、玄宗皇帝がそれにすぐに曲をつけて李亀年《りきねん》が歌い、楊貴妃様が舞われたのでございます。  その宴には安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》殿もいらっしゃったはずでございます。  高力士様、あなたが、李白様の靴のことで、李白様と仲たがいされたのも、あの宴のおりのことでございました。  ちょうど、私が天竺へ向かって旅立つ前のことでございました。  普段であれば、あのような晴れがましい宴席に顔を出すのは御辞退申しあげているのですが、天竺へ出かければ何年も長安へもどることはかないません。場合によっては旅の途上にて果てることもあり得ます。  宴に顔を出せば、これまでお世話になった知己《ちき》の皆様の多くにお会いできるであろうと考え、足を運ぶことにしたのでした。  それにいたしましても、あれは、まことに夢のような宴でございました。  華美を極め、人の世の贅《ぜい》を尽くし、もともと私のような人間には縁の遠い世界のことではありましたが、思わず心の裡《うち》が浮き立つようになったのを今も覚えております。  あれもまた、人が人の裡に持っている力の発露と思えば、密《みつ》の教えとも無縁ではございません。  それはそれとして、今ここでお話しすることではありません。  今、お話しせねばならないのは、件《くだん》の短剣投げをやっていた胡人のことでございます。  私は、宴席で、知ったお顔の方々に御挨拶を交していたのですが、そこに、ひとり、奇妙な人物がいることに気がついたのです。  どこかで会ったような気がするのに、どこで会ったのか思い出せない。——そういう顔があったのです。  初めて見る顔であるはずなのに、どこかで見たような。  尤《もっと》も、そういうことは、ままあることでございます。  どこかで顔だけは見ているものの、それが誰であるのかわからない方。あるいは、別人ではあるが、そのお顔や表情が似ている方。  そういう方に会うというのは、それほど珍しいことではありません。  しかし、その人物は、そういう日常の感覚とはもっと別のものを、この私にもたらしてくるのです。  明らかに、その人物は、過去において、この私の心に強烈な印象を刻みつけていった方に違いないのです。それはわかるのですが、ではその人物が誰なのかということになると、それは、深い記憶の堆積《たいせき》の中に埋もれてしまっていて、すぐには思い出せない……  しかし、その強い印象だけは残っている……  私は、人の顔については、他の人よりはずっともの覚えのよい人間であると思っております。  一度会って話をした人物のことを忘れることは、めったにありません。たとえ、それが千人、一万人であろうとも、覚えて忘れることはありません。  それは、私が、その人物の顔だけを見るからではないからです。  私は、その顔の相《そう》、人物そのものの相を観《み》るからでございます。人の貌、眼鼻立ちというのは、その相を観るための窓にしかすぎないといってもいいのです。  はっきり申しあげてしまえば、人の顔のかたち、眼の色、歯の並び、そういうものは一時のものです。常々変化をしてゆく。  しかし、その相はなかなか変化をいたしません。  その私が、過去に会っていると思っているのに思い出せない——これはよほど、遠い過去のことであるに違いありません。  その人物は、道士の姿をしておりました。  近くに、若い道士ふたりを従えて、宴席にいるのですが、眼の動きや、気の配りが尋常のものではありませんでした。  ちょっと目には、どうということのない、どこにでもいそうな老道士にしか見えませんでしたが、私にはその老人がただの道士には見えませんでした。 「あのお方はどなたですか?」  私は、たまたま近くにおられた晁衡《ちょうこう》殿にうかがいました。 「道士の黄鶴《こうかく》殿ですよ」  晁衡殿が教えてくれました。  なるほど——  と、私はうなずきました。  あれが、黄鶴殿か。  顔を見るのは初めてでしたが、黄鶴殿のことは、前々より噂は耳にしておりました。  貴妃様が寿王《じゅおう》様の元にいらっしゃった頃より、貴妃様にお仕えしていた道士という風に、私は聴いておりました。  貴妃様が、玄宗皇帝のお傍にいらっしゃるようになってからも、ずっと貴妃様にお仕えしている人物であると。  道士としての力はともかく、貴妃様に仕えているため、このような宴席にも顔を出すが、大きな野心もない。貴妃様の近くにいれば、いろいろと| 政 《まつりごと》に口を出す機会もなくはないであろうに、ただ大人しく貴妃様に仕えている……  しかし、私は、黄鶴の姿を遠くからうかがっているうちに、決してこの人物がそれだけの人物であろうはずがないと思うようになりました。  表面は、穏やかに微笑しているその顔の一枚皮をめくった下には、身の毛の逆立つような怖いものが潜んでいるように見えたのです。  注意深い、獣。  笑みを浮かべながら、獲物に近づいてゆく獣。  談笑しながら、酒を飲みながら、どこにも油断がない。常に相手の表情や弱みをさぐっている。  まるで、兎《うさぎ》の群の中に放たれた狼のようでございます。  しかも、この老狼は、兎の皮を被っているため、周囲の兎たちは、それが狼であることに気づかない。  私は、そういう印象を強く持ったのでした。  しかし、それでも、私はこの黄鶴とどこで会ったのかを、まだ思い出すことができませんでした。  そのうちに、黄鶴と、どうかしたはずみに視線が合うようになりました。  私が、時おり黄鶴に視線を送っていることに、黄鶴が気づいたのでございます。  黄鶴が、近くの者に耳を寄せて、何ごとかを囁《ささや》きました。  次には、囁かれた者が、逆に黄鶴の耳に口を寄せて囁き返しました。  やがて、黄鶴がうなずき、私に視線を送ってまいりました。  にこやかな視線でございました。  私には、その時、黄鶴が近くの人物とどのような会話を交したのか見当がつきました。 �あそこにいる僧はどなたか�  このように、黄鶴は近くの者に訊ねたのでしょう。 �青龍寺《せいりゅうじ》の不空《ふくう》和尚ですよ�  訊ねられた人物は、当然、そのように答えたことでしょう。  黄鶴が、席を立って、私の方に歩み寄ってきたのは、ちょうど、貴妃様の舞いが終った時でございました。 「青龍寺の不空様ですね」  黄鶴は、丁寧な礼をして、私にそう訊ねてまいりました。 「はい」  私がうなずくと、 「貴妃様にお仕えしております道士の黄鶴でございます」  黄鶴が言いました。 「さきほど、晁衡様からうかがいました」  私は、答えていました。  奇妙なことに、こうして近くで相対すると、遠目にも感じていたあの剣呑《けんのん》な気配が、みごとに黄鶴の肉体から消え去っておりました。  しばらく前まで私が感じていたものが、全て自分の錯覚であると思えるほどでございました。 「初めてお会いするのでございましたか」  黄鶴が訊ねてまいりました。 「はい」  私はうなずきました。 「以前、どこかでお会いしたかと思っておりましたが——」  黄鶴が言います。 「何故でしょう」 「さきほど、あなたがそういう眼で私をごらんになっていたからですよ」 「失礼いたしました。昔会った私の知人に似ておりましたので、ついこちらからお顔をうかがっておりましたが、もちろん別人でございました。お会いするのは初めてです」  私は、半分は本当のことを、半分は真実ではないことを言いました。 「近々、天竺の方へいらっしゃると聴いております」 「はい。五日後には出立しようと考えております」  そう答えた時、私の脳裏に、突然|蘇《よみがえ》ってきた記憶がありました。  西。  敦煌で、私が見た、あの短剣投げの男——  おそらく、黄鶴をより近くで見たことと、黄鶴自身が口にした天竺という言葉が呼び水となって、私のその記憶を蘇らせたのでしょう。  手から放れて、宙を疾《はし》る短剣。  見物人の悲鳴。  女の額に刺さった短剣。  そして、青い空に、ゆっくりと伸びてゆく縄。  その縄を登ってゆく男。  二十九年前の、あの時の光景が、まざまざと私の脳裏に蘇ってきたのでした。 �我が生命ある限り、おまえに祟ってくれるわ� �玄宗、これより、毎夜、夜毎、我のことを思い出し、震えて眠るがよい。我が恨み、努《ゆめ》忘るなよ……�  天から落ちてきて、地にわだかまった縄。  何もかもを、私は思い出しておりました。  この男。  黄鶴。  この人物こそが、あの時の、短剣投げをしていた胡人であったのです。  自ら投げた短剣で、自分の妻の額を貫いて殺してしまい、呪いの言葉を吐いて消え去った男——その人物が、今、私の眼の前に立ち、にこやかに微笑しているのでございました。  しかも、その人物は、貴妃様にお仕えする道士として、常に、玄宗様のお傍にいるのです。  いったい、どうして、あの短剣の男が、今、こうしてこの場にいるのでしょうか。  その時、私は、思わず背筋の毛を逆立てそうになりました。  黄鶴が、にこにこと笑いながら、優しい眼つきで、しかし、私の心の中に浮かぶどのような小さな感情のさざ波も見のがすまいという眼で、私を見つめていたからでございます。        (六)  私は、ほどなく、長安を発《た》って天竺に向かったのですが、旅の間中、ずっとひとつの不安を胸に抱き続けておりました。  それは、黄鶴のことでございました。  何故、あの胡人の男——黄鶴が玄宗様のお側近くに仕えているのか。その理由《わけ》を考え続けていたのです。  あの時、天から響いてきた言葉の通りであるなら、黄鶴は玄宗様に危害を加えようと考えているに違いありません。  いったい、何をしようとしているのでございましょうか。  もしも、玄宗様のお生命《いのち》を亡きものにしようと考えているのなら、これまで、その機会は何度となくあったはずでございます。直接生命を奪うことも、毒を盛ることも、しかも、それを誰がやったのかを知られずにおくこともできたはずでございます。  貴妃様と一緒に、黄鶴が玄宗様の傍《そば》に侍《はべ》るようになってから、すでに足かけで四年の歳月が過ぎております。この間に、玄宗様のお生命を奪う機会が、黄鶴に一度もなかったとは思えません。  それをしていないということは、あるいは、すでに黄鶴にはその気がなくなっているということでございましょうか。それとも、似ていると思ったのは、私の錯覚で、実は黄鶴とあの短剣の男とはまったくの別人ということでございましょうか。  私が、玄宗様に黄鶴のことを告げず、自分の胸にしまったまま長安を後にしたのも、そういう気持があったからでございました。  黄鶴には、すでにその気がない。  あるいは別人である。  それは、充分に考えられることでした。  黄鶴とて、人間です。玄宗様への恨みが残っているにしろ、あるいはその恨みのために玄宗様に近づいたにしろ、黄鶴が今手にしている栄達も、不自由のない暮らしも、全ては玄宗様あってのものでございます。  その玄宗様のお生命を縮めてしまっては、自分が今手にしているものを全て失ってしまうこととなります。  そのようなことをするでしょうか。  何事にしても、二十九年という歳月は長すぎます。恨みが、時の重なるにつれて薄れてきたということは考えられます。  それに、もしも、このことを玄宗様に進言したとして、その証《あかし》がございません。黄鶴が、そのようなこと身に覚えがないと言えばそれまでのことでございます。  この私とて、しばらくは黄鶴とあの胡人とを結びつけるのに時間がかかったのです。  二十九年前に、ただ一度会った男の顔を、どこまで玄宗様が覚えていらっしゃるでしょうか。  四年も、何事もなく時が過ぎ、玄宗様も貴妃様もお幸福《しあわ》せに暮らしていらっしゃる以上、その時の私にできることはございませんでした。  そして、私は、ひとつの奇妙なことに気づいていました。  黄鶴の弟子のふたりでございます。ふたりの弟子は、何やら黄鶴に対して秘密を持っている——宴のおりに三人を見つめていて、そう思うようになったのでございます。  と申しますのも、ふたりは、時おり、黄鶴にわからぬように貴妃様を見つめるのでございます。しかも、非常に注意深く。  黄鶴が自分たちを見ている時は、何げなく——見ていない時は、それこそ、視線が肌に刺さりそうな眼つきで、貴妃様を見つめるのでございます。  奇妙な三人でござりました。  しかし、今、何事もなく皆様がおすごしになっている以上、私の口から二十九年も前のことを持ち出すのもどうかと思われました。  それで、私は、誰にもこのことを告げず、ただひとり私の胸に隠して、天竺へ向かったのでございました。  私が、天竺から帰ってきましたのは、それから三年後の天宝五年のことでございました。  私が帰ってきた時も、黄鶴が原因と思われるそれほど大きな問題は、玄宗様の身の回りには生じておりませんでした。  三年ほど、私は長安にいて、私はまた天竺まで出かけることとなりました。  その時、天竺に行っていたのは、足かけで五年ほどになりましょうか。  天宝十二年——ちょうど今から三年前に、私は天竺から帰ってきたのですが、都が、妙なことになっているのに気がついたのは、その時のことでございました。 [#地付き](不空の話、終り)        (七)  わたくしは、不空様の長い話を聴いて、 「なるほど、敦煌《とんこう》であの縄を登って天へ逃げた胡人をごらんになっていたのですね」  そう言いました。 「高力士様は、あのおり敦煌に?」 「いいえ。わたしは、長安に残っておりました——」 「玄宗様からは、何か、敦煌でのことについて、耳になさりませんでしたか」 「お帰りになったおり、千仏洞の絵の件については、お話をたまわったのですが、短剣投げの芸をする胡人のことは、その時はお話しされませんでした」 「では、別のおりに?」 「はい。わたしと、玄宗様がふたりきりのおり、縄を登っていった胡人の話についてはうかがいました」 「玄宗様は、何と?」 「夜、お寝《やす》みになっているおりなど、独りで眼覚めて、恐くなることがあると——」 「ほう」 「夢を見ることもあると申されました」 「夢?」 「暗い天井から、するすると縄が垂《た》れてきて、それを伝ってあの胡人が降りてくるのだと。胡人は、口に短剣を咥《くわ》えていて、眠っている玄宗様の上に降り立ち、短剣を手に取って、それを額に突きたててくるのだと——」 「ずっと、そういう夢を?」 「いえ、その夢の話は、何度かうかがった覚えはございますが、それは、敦煌の時から算《かぞ》えて、二〜三年ほどであったように思います。その後では、耳にした覚えはございません」 「さようでございますか」 「しかし、口にはされずとも、心の中では、時おり思い出されていたかもしれません」 「はい」 「ですが、玄宗様のお声で、首がその胴から離れた者や、毒を賜《たま》わった者は、無数におります。戦《いくさ》を含めて死んだものを数えたら……」 「数えきれるものではござりませんか」 「ええ」 「でしょうね」 「しばらく玄宗様の心の中に、その胡人のことがひっかかっていたというのは、胡人が、妙な姿の消し方をしたからでございましょう」 「縄を登って、天に——」 「はい」 「——」 「もうひとつ申しあげておけば、玄宗様は、その胡人を、怖がってばかりいたわけではありません」 「ほう」 「あの胡人が、あの縄を登ってどこへ行ったか、そのようなことにも興味を覚えておいでのようでした——」  あの男は、あのまま本当に天に昇って消えてしまったのか。  あの縄の上の青い天には、いったいどのような世界があるのか。  何かをなつかしむように、ほろりとそのような言葉を、玄宗様がもらす時もあったのでございます。  あれは、幻戯《めくらまし》であったのか、それとも、あの縄の上の空には、仙界や天界の仙人や天人の住む世界があったのか——  溜め息のように、玄宗様がそう言っていたこともあったと、わたくしは不空様に言ったのでございます。 「そういうことでございましたか」  不空様は、うなずかれました。 「ところで、先ほど、二度目に天竺からもどってきた時、都が妙なことになっていたとおっしゃっておられましたが——」  わたくしは、気になっていたことを不空様に訊ねました。 「それでしたら、高力士様、あなたの方がよく御存知なのではありませんか」 「何のことでしょう」 「兆《きざし》でございます」 「兆?」 「はい」 「と申しますと?」 「今、その兆が、実を結んでいるのです。そう申しあげればおわかりでしょうか」 「それはつまり、今の、この長安のことをおっしゃっておられるのですね」 「はい」  不空様は、うなずかれました。 「わたしが、もどってきた時、感じたのは、皇帝の変りようでございました」 「皇帝の?」 「何故、わたしにお訊ねになるのです。高力士様、このことなら、先ほども申しあげましたが、あなたが一番御存知のことでございます」  問われて、わたくしは、口をつぐみました。  不空様の言っておられることが、よくわかっていたからでございます。 「ええ」  わたくしは、うなずく他ありませんでした。 「楊国忠《ようこくちゅう》様は、わたくしが天竺へ出かける前から、もう、その権勢を| 恣 《ほしいまま》にしておられました。それはそれでよいのです。一国の| 政 《まつりごと》には、常にそのような人物がおります。問題は、その人物が、暗愚であるかどうかです。かつて、楊国忠様は、貴妃様の兄上ということで宮廷に入られた方です。その頃、楊国忠様は、暗愚ではございませんでした——」 「今は——」 「わたしの口からは、申しあげられません。人は、権力を手中に納めると、それを守ろうといたします。人を信じなくなり、疑心暗鬼——心に鬼を育てるようになります」 「——」 「楊国忠と安禄山《あんろくざん》の不仲、楊国忠と哥舒翰《かじょかん》将軍との不仲は、もう、始まっておりました。国の政を行なわねばならぬ人たちの間にあるのは、疑心でございました。それが、上から下まで——」 「はい」  わたくしは、うなずくより他はございませんでした。 「しかも、それを糺《ただ》すべき——糺すことのできるただひとりのお方が、そのことに気づいておられなかったのです」 「はい」  わたくしは、これも、うなずくより他はございませんでした。  不空様の言う、ただひとりのお方というのは、玄宗様のことであることは、言うまでもありません。  不空様の言われることの暗愚の人の中には、もちろん、このわたくしも入っております。  このこと、晁衡殿なら、よくわかって下さるでしょう。 「それが、結局、このような実を結ぶこととなってしまったのです」  しみじみと、不空様は言いました。 「今、わたしが申しあげた暗愚の中には、もちろん、この不空も入っております。本気で、このことを、玄宗様に進言する機会を持たぬまま来てしまったのは、このわたしの責任でもあるのです——」  不空様は口をつぐみ、わたくしを見つめました。  そして—— 「しかし、高力士様。あなたのお話をうかがって、初めて気づいたのです。この実を結んだことの背後には、この何年、何十年、ずっと、皇帝のおそばで、肥《ひ》を与え続けてきた者がいたのですね」 「黄鶴——」  わたくしは、その名をつぶやいておりました。        (八)  黄鶴《こうかく》の件についての話がひと通り終って、わたくしは口をつぐみました。  不空《ふくう》様に、申しあげることができることについては、全てお話ししてしまったからでございます。  本当なら、お話し申しあげたいことは、まだありました。実を言えば、どちらかというなら、そちらの方のことを語って、わたくしは楽になりたかったのです。  しかし、そのこと——陳玄礼《ちんげんれい》とわたくしとの間に交されたことについては、すでに書いたように不空様にも語るわけにはいかないことでした。  そして、すでにこの長安を一両日中にも皇帝が去る決心をしていることについても、語るわけにはゆかなかったのです。  そのことについて、わたくしは、心苦しくてなりませんでした。わたくしは、わたくしの心の安心のためだけで、不空様と話をしていたのでした。  まだ、何か言いたそうなわたくしの顔の表情に気づかれたのか、 「高力士《こうりきし》様——」  不空様が、わたくしに声をかけてまいりました。 「あなたが、その御心《おこころ》に秘められていることについて、わたしにおっしゃる必要はございません。そして、そのことについて、心苦しく思われる必要もまた、ないのです」  ああ——  まったく、なんという御心優しい言葉であったことか。  ああ、この不空様は、何もかも御存じなのだと、その時、わたくしは思いました。  皇帝が、長安を後にしようとしていることも、そして、陳玄礼が企《くわだ》てていることについても。  具体的に、いつ、どのようにして長安を皇帝が出てゆくかを知らずとも、それが迫っていることを。そして、いつ誰が叛乱《はんらん》を企てているかは知らずとも、そういう空気がここにあることを。 「わたしも、この宮廷に満ちている幾つかの気配については、察しております。高力士様、あなたが、わざわざわたしに会いに来られて、そのことについて口にされないからこそ、それが何であるかがわかります」 「不空様——」  思わず、わたくしは、何もかもを不空様に言ってしまいたくなってしまったのです。そうできたら、どんなにか、楽になれたことでしょう。 「高力士様、人は、重荷を背負わねばならぬ時があるのです。あなたは、それについて口になさるべきではありません」 「はい」 「黄鶴のことについて、今、この時期に、皇帝にお話し申しあげることが適当であるかどうかは、この不空の判断するところではございません」 「——」 「お話し申しあげる道もあるでしょう。また、お話し申しあげずに、別の道を選ぶこともあり得るでしょう。どちらの道を選ぶのが正しいのか、それは、人の身が判断できることではありません」 「はい」  わたしの心の裡《うち》を見通されているかのような、不空様の言葉でございました。 「もし、あの黄鶴とのことで、あなたに助言させていただくことがあれば、唐の方術であれ、わが密《みつ》の法術であれ、それが胡《こ》の国の幻術であれ、それは、いずれも人の心に関わる術であるということです」 「——」 「呪《しゅ》は、いかようなる術であれ、人の心に関わるものであるということです——」 「——」 「さらに言うなれば、どのような術であれ、この天地《あめつち》の法の外にあるものではないということです」 「それはどういうことでしょう」 「どのような術も、それは必ず因果《いんが》の法に従うということです」 「因果の法?」 「あること——ある行為があって、はじめてある結果が生ずるということです。この世に起こることは全て、どこかに因があってはじめて生ずるのです」 「——」 「もしも、黄鶴とのことで何か事ある時は、必ずこのことを忘れぬようにして下さい」  不空様は、わたしにこのように言われたのでした。  その言葉をわたしが思い出したのは、晁衡《ちょうこう》殿、あの馬嵬駅《ばかいえき》での時でございました。  黄鶴が、貴妃様のお身体にあの針を刺した時、わたしは不空様の言葉を思い出していたのです。  黄鶴が、貴妃様のお身体に刺し込んだ針を、もしも半分ほど抜いておいたら——  誰にも知られることなく、黄鶴の企てを阻止することになるであろうと思ったのです。  もしも、貴妃様が蘇《よみがえ》れば、玄宗《げんそう》様のお考えが変わることは充分に考えられました。いえ、必ず、御心変わりされていたことでしょう。  お元気な御姿で、再び眼の前に立たれた貴妃様を見たら、玄宗様は、もう貴妃様を倭国《わこく》にやることなど忘れてしまうに違いありません。  そして、黄鶴のねらいも、もしかしたらそのあたりにあったのかもしれません。いえ、もしも、貴妃様が、その言う通りに黄鶴の娘であったとするなら、黄鶴はただ、自分の娘の生命《いのち》を助けたいだけであったのかもしれません。  しかし、結果は同じでございます。  貴妃様をもう一度、玄宗様が身の回りに置くようになってしまったら、また、同じことが繰り返されてしまうでしょう。  あの時、わたくしは、堅い決心をし、貴妃様のお身体に刺さった針を、少し引き抜いたのでした。  それにしても、ああ、わたくしは何と怖ろしいことをしてしまったことでしょう。  貴妃様には、罪はございません。  もし罪があるとするなら、それはわたくしです。貴妃様は、わたくしたちの道具として、御自分の意志でなく、玄宗様に引き会わされ、宮中の方となったのでございますから。  宮中で、最も罪深い人間がいるとするなら、それは間違いなくこのわたくしです。  不空様が、この件に関わられたのは、わたくしが、黄鶴とのことをお話し申しあげたからでございます。  あの敦煌《とんこう》での短剣の男と、黄鶴とが同じ人間であること——その秘密を知っていたのは、わたくしと不空様だけであったのでございます。  以来、わたくしは、長安にもどってからも、黄鶴のことについては、何度か不空様に御相談申しあげていたのです。  わたくしたちの考えは、すでに晁衡殿にも申しあげているように、黄鶴のことは、玄宗様には申しあげない——ということでございました。  すでに書きましたが、人違いであると黄鶴が言えば、それはもうどうすることもできないことであったからでございます。それを話せば、貴妃様に、いったいわたくしが何をしたかまでがわかってしまうでしょう。  それは、黄鶴が、実は真の敵であったことを玄宗様がわかったその時にこそ、申しあげるべきこととわたくしは考えたのでした。  そして、いよいよ、貴妃様を掘り出して針を抜く時がやってきたのでございます。  その時、わたくしはたいへん悩みました。  もしも、貴妃様が、蘇ってしまったら——  あるいは蘇らなかったら——  その時、黄鶴はどうするでしょうか。  針を誰かがいじったことに気づくでしょうか。  その時、わたくしはどうしたらよいのでしょう。  これを、わたくしは、やはり不空様に御相談申しあげたのでした。 「私はあなたのお味方です」  その時、不空様は、わたくしにそう言って下さったのです。 「あなたが何をなさるか知っていて、わたしはそれを止めませんでした。これは、わたしにも責任のあることです。いよいよとなったら、このわたしが、黄鶴と対決いたしましょう。体術はともかく、幻術については、どのような黄鶴の術も、わたしには通用いたしません。もしもの時は、玄宗様に、敦煌でのことをお話し申しあげましょう。針を抜いたのが誰であるかを今は言う必要はありません。もしも、それで、御理解いただけなかったら、ふたりで玄宗様に、その場で何もかもお話し申しあげて、その結果死を賜《たま》わることになるというのなら、それを受けようではありませんか」  不空様のその言葉で、わたくしは決心し、ひそかに不空様が華清宮までいらっしゃれるよう、手配したのでございます。  そして、不空様が、別室にて玄宗様とお話ししている間に、貴妃様を連れて、白龍《はくりゅう》、丹龍《たんりゅう》たちの姿が消えてしまったことは、晁衡殿もよく御存じの通りでございます。  わたくしは、今、ここに書き記したのとほぼ同じことを、黄鶴に言ったのでございました。 「あの時、華清宮にいらした不空様は、そなたが玉環様を使ってやろうとしたこと——何もかもをあそこで玄宗様にお話しなされたのだ」  わたしは、言いました。  あの時、玄宗様は、いったいどのようなお気持ちでそれをお聴きになったことでしょう。それを思うと、今でもわたしの胸は張り裂けそうでございます。 「それに気づいて、黄鶴よ、あの時おまえも逃げたのであろう」  黄鶴はその眼から涙を流しておりました。 「おう……」  黄鶴は、低い、啜泣《すすりな》くような声をあげました。 「華清宮でのこと、思い出したわ……」  黄鶴は、小さく首を左右に振りました。 「それにしても、今、ここで、敦煌でのことを耳にするとは思わなんだ」  黄鶴は、涙をぬぐいもせずに、わたしを見つめておりました。 「何年経ったのか……二十年? 三十年? 五十年? あまりに遥かな昔のことで、もう忘れてしもうたわ」 「——」 「あの時、不空殿があの場におられたとはなあ……」 「やはり、おまえが、あの時の——」 「そうよ。このわしが、自らの手で妻を殺してのけ、今も、老いさらばえたまま生きているあの時の男さ」 「まさか、貴妃様がおまえの娘ということは、その時に死んだ女が貴妃さまの——」 「まさかよ」  黄鶴は言いました。 「楊玉環《ようぎょくかん》は、このわしが、別の女に孕《はら》ませた子さ……」        (九)  ああ——  晁衡殿。  死がわたしに訪れるその最後の最後という時になって、いったい何ということを、わたくしは黄鶴から聴かされることになったのでしょう。  そのおりに、黄鶴がわたくしに語ったことは、忍び寄ってくる死の足音さえも遠のかせてしまうものでした。 「聞きたいか」  と黄鶴はわたくしに言いました。 「このわしが、これまでわしの心の中に隠しおきしこと、聞きたいか」  黄鶴は、その眼から、涙を流しておりました。 「いや、聞け。聞け、高力士よ。死にゆく者として、我が告《の》ることを聞け——」  黄鶴は、涙をぬぐいもせずに、わたくしを見つめておりました。 「このこと、誰にも告げずに世を去るつもりであった。しかし、これを誰にも語らずに死ぬるのでは、このわが生涯はいったい何であったのか——」  その言葉を聴いた時、ああ、同じなのだとわたくしは思いました。  ああ、同じなのだ。  この黄鶴も同じなのだ。  これまでずっと心の中に閉じ込め、隠していたことを、このわたくしのように、ちょうど、晁衡殿、あなたに書いているこのわたくしの文のように、黄鶴は誰かに語りたいのだと。  たとえ、その語る相手がこのわたくしであったとしても——  その気持が、わたくしにはよくわかりました。  黄鶴の言葉を聴いた時、本来であれば憎んでも余りあるこの胡人《こじん》に、わたくしは愛惜《いとお》しささえ感じていたのでございました。 「ぬしが、このわしに話してくれたことへの礼じゃ。いや、このわしが、ぬしの話を聞いてやったことへの礼と思うて、わが告《の》ることを聞けい……」 「わかった……」  わたくしはうなずいていました。 「わかった、黄鶴よ。おまえの話を聴こうではないか。我が生命あるうちに、語るがよい」  わたくしは、黄鶴に向かって、そう言いました。  そして、黄鶴は、その話を始めたのでございました。        (十)    胡の幻術師黄鶴の話  おれは、玄宗の生命《いのち》を、何度かねらったことがある。  宮中にも、一度ならず忍び込んだことはあったのだが、玄宗の生命を縮めることはかなわなんだ。  我が方術をもってしても、警戒は厳重であり、宮廷には忍び込めても、とても玄宗の元にまではたどりつけなんだ。我が死を覚悟でゆけば、あるいは玄宗を殺すことはできたかもしれぬが、玄宗を殺すこと叶《かな》わずに、自らの生命ばかりがなくなるのでは、死んでも死にきれぬ。  そうして、悶々《もんもん》としながら一年半余りも、長安にいたのだが、そのうちに——ああ、高力士よ、笑え、おれは己《おの》が生命を惜しむ気持ちがだんだんと湧いてきたのだ。  たとえ、玄宗殺すこと叶わずとも決行すべきと思ったりもしたのだが、失敗して我が生命のみなくなるかもしれぬことを思えば、また、その決心も鈍ったりもするのさ。  不思議よなあ。  自分で考える——この思うことさえ、自分の自由にならぬのだ。  玄宗を憎みながら、己が生命を惜しみ、酒に溺れているうちに、おれは長安にいることが苦しくなってきたのさ。  一年半から、二年近くは、長安にいたか。  その後、おれは長安を出た。  あちらこちらと流れてゆくうちに、蜀《しょく》の国で、その女に出会ったのだ。  初めて、おれがその女を見たのは、蜀の市だったよ。  見た時に、おれは驚いた。  死んだ——いや、おれが自らの手で殺してしまった妻にそっくりだったからだ。  まだ、覚えている。  着ていた白い衣《きぬ》。  沓《くつ》の色。  高く頭の上で結んだ髪。  紅をさした貌《かお》。  その市で買ったものまで、覚えている。  玉《ぎょく》の櫛《くし》だ。  その指が、買った櫛を持つのを、おれは見た。  その指が、買ったばかりの櫛を髪にあてるのも見た。  その唇の形も、鼻の形も、おれの妻かと思えるほどであった。おれは、おれの妻が生きかえってきたのかと思ったほどだった。  もともと、胡人の血を引いているのか、妻の眸《め》の色とは違うものの、その瞳は碧《あお》みがかってさえいたのだ。  おれは、その女の後を尾行《つ》けた。  それで、その女の素姓《すじょう》がわかったのだ。  女には、夫がいた。  蜀の司戸《しこ》という役職にあった|楊玄※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《ようげんえん》という男だ。  夜、おれは、女の居る屋敷へ忍び、幻術を使って女を誘い、その身体を抱いたのだ。  一度きりと思うていたのだが、やめられずに、二度になり、二度が三度になり、度重なるようになった。  夜になると、おれは忍んで行っては、女を抱いた。  やがて、子が生まれた。  女だった。  玉環と名づけられた。  この楊玉環が、つまり、我らの知るところの楊貴妃様ということだ。  母親の女も、夫の楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》も、この女が、まさか他人の子供とは思ってはいなかった。自分たちの子供だと思い込んでいたのさ。  母親になった女は、おれと交わったことさえ覚えてはいないのだからな。  何度かは、楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》のふりをして抱いたこともあるから、覚えていたって、夫だと思っているさ。  どうして、その生まれた女——玉環がおれの子とわかるのかだって?  それは眼さ。  眸の色が、このおれにそっくりだったからだ。  それに、夫の楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は、その頃にはもう別に女がいて、めったに自分の妻を抱くことなどなかったのだ。  だから、薄々は、夫の玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は、玉環が自分の娘ではないかもしれぬとは思っていたろうよ。  いや、思っていたろう。  結局おれは、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の妻にふたりの子供を生ませてしまった。  次の子供は、男だったよ。  その男の子供が生まれて、二年ほど経った時だったかな。  あれがあったのは。  あれ?  急ぐな、高力士。  夜は長いのだ。  これからゆっくり話をしてやろう。  玉環が、四歳にはなっていたろうか。  おれは、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の妻と、充分に術をかけずに交わってしまったのだ。  ふたりまでも子を生ませ、こちらも油断をしていたのかもしれぬ。  抱いている最中に、女がそれと気づいて、声をあげたのだ。  おれは、逃げた。  いや、逃げようとした。  人は、何人も殺しはしたが、いやがっている女を無理に犯すのは、おれの好みではなかったからな。  術をかけて、女を抱くことはするさ。  そりゃあそうだろう。  相手の女を自分に惚れさせるのも、ある意味では術をかけてるようなものだからな。その意味では、恋の術も、おれの術も同じだ。  そのくらいはわかるだろう。  しかし、逃げようとしたその時に、楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》が、剣を持ってそこへやってきたのさ。  暗い、灯火の中で、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》はまず、おれを見た。おれと玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は、しばらく、眼を見つめあった。  おれも、その時は、妙だった。  すぐに逃げようと思えば逃げることができたのだが、しばらく玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》と顔をつきあわせていたのさ。 「おまえだったのか」  と、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は言った。  すぐには、おれは玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の言葉の意味がわからなかった。  が、次の言葉で、おれは玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》が何を言いたかったのかがわかったのさ。 「おまえが、玉環の父親だったのか」  玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》はそう言った。  はじめから、おかしいと思い続けていたんだろうな。そうでなければ、そこで、そんなことは言えなかったろう。  その時、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の顔に浮かんだ、苦しそうな表情を、おれはまだ覚えているよ。  苦しそうに、何度か首を振り、そして、いきなり剣を持ちあげて——  おれに向かってきたのではなかったよ。  玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》がその剣を振り下ろしたのは、自分の妻に対してだった。  声をあげる間もなく、玉環の母親の首が床に転がった。  もしもその剣がおれに向かって切りつけてきたのなら、おれは、その剣をかわして、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》をどうにかしていたろうから、そうだったら玉環の母親も死なずにすんだろう。しかし、そうじゃなかった。剣は、玉環の母親に向かって振り下ろされたんだ。  その転がった首を見て、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は、何ともいえない哀しい顔をしたよ。  その顔を、おれは忘れない。  おれも、事情は違うが、自分の手で自分の妻を殺した人間だからな。  そして、その後、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》はこのおれに向かって切りつけてきたのさ。  腕のたつ男だったよ。  剣の腕まえは、なかなかのものだった。  しかし、おれだって、短剣を投げさせたら、そこそこのことはやるさ。妻を殺すことだってね。  おれは、身をかわして、短剣を投げた。  その短剣が、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の喉《のど》に、潜り込んだ。  その後で、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は、三度もおれに向かって剣を振ってきたよ。  四度目に剣を振り下ろそうとして、ついに、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》は血を吐いて床に倒れ、死んだのさ。  凄い男だった。  おれは、しばらく、そこを動けなかった。  しかし、しばらくといったって短い時間さ。  そのうちに、家が騒がしくなって、人のやってくる気配があったんで、おれは、窓から外へ逃げ出したのさ。  その時、どういうわけか、おれは一番下の子供——おれが女に生ませた男の子を抱いて逃げたのだ。  その後のことは、高力士よ、おまえも知っていることだ。  楊玉環をはじめ、楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の子供たちは、叔父である|楊玄※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、74-6]《ようげんきょう》にひきとられ、その家の子供として、育てられることになったのだ。  もちろん、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》が自分の妻を殺したのだとは誰も思わない。  賊が入って、妻を犯そうとしているところへ、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》がやってきて、賊を倒そうとしたが、逆に賊に殺されてしまった——そういうことになった。  それだって、人聞きが悪いので、世間的には、ふたりは病気で別々に死んだことになっているらしいがね。  楊玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の妻には、すでに四人の子供がいた。  男がひとり、女が三人。  玉環にとっては、義理の兄と姉にあたる人間たちだ。  兄の名は、銛《せん》。  三人の姉は、その後、韓国《かんこく》夫人、|※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]《かく》国《こく》夫人、秦国《しんこく》夫人と呼ばれることになる。  この五番目の子として、玉環は育てられることになったのさ。  いずれにしても、これが、玉環が、叔父の楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、75-1]《きょう》のところへ行ったことの真相さ。  おれも、玉環にずっとくっついていたわけじゃない。  おれも、喰っていかなきゃならなかったからね。  それでも、時々は、楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、75-4]《きょう》のところにいる玉環には会いに行ったよ。  会いに行ったと言っても、名告《なの》るわけじゃない。遠くの方から、そっと玉環を見るだけだったんだ。  他の土地へ出かけ、何年も蜀にもどらぬこともあった。  長安にも何度か行き、洛陽《らくよう》にも足を伸ばした。  そして、蜀へもどってきたら——いや、もどるという言い方はおかしいな。わしにとっては、長安も、洛陽も、蜀も、いずれは同じ他国のようなものさ。どこかの土地に根を生やしたわけではない。すでに、わしが根を生やすべき国はこの世になかったのでな。  たまたまわが娘の玉環がいるから、もどってきたら、などという言い方をしてしまったのだろう。  まあいい。  とにかく、蜀へもどってきたら玉環を見にゆくのが、このわしの楽しみであった。  しかし、おれは、もどってきて、玉環を見るたびに、驚かされることがあった。  おまえも知っているであろうが、高力士よ、それは、楊玉環のあのこの世のものならぬ美しさだ。しかも、見るたびに、会うたびに玉環は美しさを増してゆくのだ。  おれは、楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-1]《きょう》のやつが、いつ玉環に手を出しはしまいかとひやひやしたよ。  本人たちは知らなかったはずだが、楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-2]《きょう》は、玉環の父親ではないし、玉環は楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-2]《きょう》の娘ではないからな。  その頃からだ。  おれが、あることを考えるようになったのは。  もしも、この玉環を玄宗が見たら手に入れたいと思うだろうか。  それは、日毎、年毎に、玉環がその美しさを増してゆくのと一緒に、このわしの中で大きさを増していったのだ。  まさか、そのようなことなどと思い、次には、あり得ぬことではないと思う。そういうやりとりを心の中でしているうちに、ついにわしは決心をしていたのさ。  それで、わしは眼の色を変え、道士として楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-11]《きょう》に近づいたのだ。  楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-12]《きょう》が、道教を信心していたのも都合がよかった。  まあ、細かい話はやめておこうか。  ぬしも、このわしも、いずれ長い生命ではないからな。  とにかく、わしは楊玄|※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、76-15]《きょう》の屋敷に出入りするようになり、玉環が宮中に入ることができるよう、人をたらしこんだのさ。  このわしの血を受けた娘の玉環に子を生ませ、わしの血を継いだ者を唐帝にしてみせようという野心を抱いたのさ。  しかし、さすがに、玄宗本人に、娘をくれてやる気にはなれなかった。  それで、わしがねろうたのが、武恵妃《ぶけいひ》の子の寿王《じゅおう》であったのだ。わしの見るところでは、いずれ、寿王が次の皇帝となるはずであったからな。  その寿王の子を、玉環が生む。  なんと、このおれの孫が、次代の唐の皇帝様じゃ。これほどの復讐《ふくしゅう》があろうか。  それで、副宰|李林甫《りりんぽ》や黄門侍郎《こうもんじろう》の陳希烈《ちんきれつ》などに噂を吹き込み、寿王の女官として召し出すようにきゃつらを操ったのだ。  そうして、玉環は開元二十三年に召し出され、寿王の女官となり、おれも、道士として玉環と共に長安に入ったのさ。  しかし、寿王が次の皇帝となるためには、邪魔な人間がいた。  高力士よ、おまえもわかっているだろう。それが、趙麗妃《ちょうれいひ》と息子の皇太子|李瑛《りえい》であったのさ。この李瑛の背後にいるのが、科挙《かきょ》の出の張九齢《ちょうきゅうれい》さ。張九齢は、李瑛を次の皇帝にしたがっていた。  しかし、この者たちは、謀叛《むほん》を企てたということで、失脚をした。  李瑛は殺され、張九齢は荊州《けいしゅう》に流された。  え、どうだ、高力士よ。  このわしが、自らの手で妻を殺《あや》めたように、玄宗のやつは、自ら命を下して、実の子の李瑛を亡きものにしたのだ。  何だ、高力士。  おれが、何故、涙を流しているというのか。  馬鹿な。  おれは、泣いてなどはおらぬ。  これは笑っているのだ。  なにしろ、あれは、みんなこのわしが、そうなるようにしむけたことだからな。このわしが、彼等の心の中にあった謀叛の心を煽《あお》ってやり、玄宗の心の中にあった疑心暗鬼を育ててやったのだからな。  おれの望み通りになったのだ。  それで、何故、このおれが泣かねばならぬのだ。  邪魔者はいなくなった。  それで、てっきり、おれはもう寿王が次の皇帝におさまるものとばかり思っていたのだ。  そうしたら——  その時、おまえがおれの邪魔をしたのさ。  おびえるな、高力士よ。  そのことで、おまえをどうこうしようというのではない。  そんなことをしたら、今、このわしの話を聴く者がいなくなってしまうではないか。  あの時、おまえが、わしの企てを邪魔したのだ。  まあ、おまえも、あわててはいたのだろう。  厄介ものの張九齢がいなくなったのはいいが、次はあの李林甫が勢力を伸ばしてきたのだからな。  武恵妃とくっついている李林甫が、寿王が皇帝になるとなると、力を強めてくるからな。  そうした時に、なんと、武恵妃が死んでしまったのだ。  突然にな。  どうだ、高力士よ。  わしは、そのことについては詮索《せんさく》はしなかったが、あれはおまえがやったのではないか。おまえが、武恵妃を殺したのではなかったのか。  いいさ。  返事はせずともよい。  このわしは、おまえがそれをやったと思っているからな。  まあよい。  とにかくおまえは、武恵妃亡きあとに、寿王ではなく忠王《ちゅうおう》の|李※[#「王+與」、第3水準1-88-33]《りよ》を新皇太子にしてしまったのだ。おまえが、李|※[#「王+與」、第3水準1-88-33]《よ》を次の皇太子にと玄宗に言わなかったら、次の皇太子は、寿王となるに決まっていたはずだ。  その時、わしは迷った。  わしが、とるべき道は、ふたつあった。  ひとつは、李|※[#「王+與」、第3水準1-88-33]《よ》を亡きものにすることだ。  もうひとつは、高力士よ、おまえを殺すことだった。  だが、わしは、そのふたつとも選択しなかった。  わしは、そのどれでもない、三つ目の道を選んだのだ。  それが、高力士よ、おまえと手を握ることであったのだ。  今思うても、どうして、自分があのような決心をしたのかわからぬよ。  人とは、不思議なものだなあ、高力士よ。  このわしは、あれほど憎んでいた玄宗に、結局我が実の娘玉環をくれてやろうと思うたのだからな。あれほど、年の離れた男に、実の娘を抱かせようというわけなのだからな。  わしは、狂うていたのさ。  野心、野望は、人を狂わせる。  いったん、手に入りそうになった座が、遠のいたと知った時、人は、前よりももっとその座が欲しくなる。  わしは、復讐することよりも、知らぬうちにわが孫を皇帝とすることの方に心を砕くようになってしまっていたのだ。言うなれば、それが復讐さ。  寿王は、皇帝にはなれぬ。  李|※[#「王+與」、第3水準1-88-33]《よ》を殺したところで、いったん気持の離れた寿王を玄宗が皇太子にするとも思えなかったからな。  李|※[#「王+與」、第3水準1-88-33]《よ》に、娘の玉環をやるのは、事が難しかった。  皇太子とはいえ、それほどの力では、寿王の元にいる玉環をそこから取りあげることはできぬ。  ならいっそと——その時、わしは思ったのだ。  ああ、高力士よ、どうして、あのような恐ろしい考えが、わしの頭に浮かんでしまったのであろうか。あのような考えさえ、浮かばなければ、今、このような場所で、こうしておまえと向かいあっていることもなかったろうに。  馬嵬駅《ばかいえき》で、玉環があのような目に合うこともなかったろうに。  しかし、今、どれほどくやんでも、やりなおすことなどかなわぬ。  それはよくわかっている。  わかっているが、思うてしまう。  これまでの生涯、何度、これを思うたことか。  ああ、ここで繰り言を言うても始まるまい。  わしの心の中で、いつの間にか、復讐が野望にすりかわっていたのさ。  わが望みを遂げるためなら、いっそ、玄宗に玉環を嫁がせてしまえばいいとな。  わしは、そう決心したのだ。  その後、わしがどうしたのかは、おまえもよくわかっていよう。  そして、おまえの知っている通りとなったのだ。  だが、わしにも、思わぬ誤算があった。  それは、わが娘玉環が、玄宗の子を孕《はら》まなかったことだ。  玉環は、子を産めぬ身体であったのさ。  それがわかってくるにつれて、あらためて前以上に、このわしは、玄宗にあらたな憎しみを募らせたのだ。  玉環を、夜毎に自由に抱き、しかし、いずれは、先に死んでしまうのだ。  玉環が、四十をいくらも過ぎぬうちに、玄宗は死んでしまうであろう。  その時に、何が、玉環を救うのか。  何も救いはしない。  もし、その時玉環を救うものがあるとすれば、玄宗の血を継いだ子だ。玄宗の血を継いだ子さえいれば、なんとかやりようはあるだろうに、いないのであっては、玄宗の死と共に、たちまち、玉環は次の皇帝に死を賜《たま》わることになるであろう。  そのことは、高力士よ、おまえもよくわかっていよう。  その時、わしの頭の中に浮かんだのが、唐王朝の滅びであったのさ。  どうせ、手に入らぬものなら、この王朝そのものを、この世から消し去ってやろうとな。  ちょうど、この唐の国が、わが故郷|高昌国《こうしょうこく》を滅ぼしたように、このわしが、唐を滅ぼしてやろうと思うたのさ。  玄宗を殺すだけでは、それは叶わぬ。  玄宗が死んでも、次の子が皇帝になるだけだ。  そこで、わしは、種を蒔《ま》き始めたのさ。  高力士よ、おまえの心に。  そして、楊国忠《ようこくちゅう》の心に。  そして、安禄山《あんろくざん》の心に。  宮中の、様々な人間たちの心の中にわしは、種を蒔き、火を点《つ》け、それを育てていったのだ。  よいか、高力士よ。  種を蒔き、火を点けたといっても、いかなわしでも、何もないところに、火を点けることはできぬのだ。  さっきも言ったが、わしがやったのは、誰もが心の中に持っているものに火を点け、それを育てることだ。  ふふ。  それが、どうなったか。  くくく。  おまえがどうなったか。  ふははははは。  玄宗がどうなったか。  それはもう、おまえの知っているところだ。        (十一)  ああ、晁衡《ちょうこう》殿、こうして、黄鶴の、おそるべき告白は終ったのでございました。  語り終えた黄鶴は、もう、すぐにも死にそうな人のような眼で、わたくしを見つめておりました。  長い沈黙でございました。  わたくしと黄鶴は、その部屋で、黙したまま、長い間、互いの顔を見つめ合っておりました。  もはや、もう、この黄鶴への憎しみはございませんでした。  わたくし自身の生命への未練も、もうございませんでした。ただただ、深い哀しみが、水のようにわたくしを浸しているだけでございました。  まったく、人というのは、なんとおろかで、なんと哀しい生き物でござりましょうか。黄鶴にも、わたくしにも、なんと分け隔てなく、哀しみというものは襲ってくるのでしょうか。  誰がいけなくて、誰がよかったということは、もう言えません。誰もがいけなかった。誰もがよかった……きっと、人とはそういうものなのでしょう。  なんと、遥《はる》ばると歳月は過ぎ去ってしまうのでございましょうか。  権力を| 恣 《ほしいまま》にしてきた玄宗様が、人よりもお幸せであったでしょうか。いつでも、美しい衣《きぬ》や宝石で身を飾りたて、大勢の女官や宦官《かんがん》に傅《かしず》かれてきた貴妃様がお幸せであったでしょうか。  誰が不幸で、誰が幸せであったかなど、身分の上下や、権力の有無で推し測ることなどできるものではありませんでした。  まったく、わたくしたちは、なんという身勝手なことばかりのために、あくせくしてきたことでしょう。なんと多くの人々を死に追いやってしまったことでしょう。  ああ、同じなのだ。  今、眼の前にいる黄鶴も同じなのだ。  この黄鶴もまた、なんと大きな憎しみと哀しみのために、その生涯を費してきてしまったことでしょう。  哀しみを癒《いや》そうとして、結局、その行為はもっと大きな哀しみしか生み出さなかったのです。  そう思った時、わたしは、眼の前にいる、皺《しわ》だらけの、干からびかけた小さな猿のような老人に、たまらない愛《いと》しさのようなものを覚えたのでした。  見れば、話し終えた黄鶴は、実際の年齢よりもさらに老いて見えました。  わたくしの眼の前にいるのは、見すぼらしい、ただの老人でございました。  わたくしの姿も、黄鶴の眼には同じように映っているのでしょう。 「玉環よ……」  黄鶴はつぶやきました。 「あの、石棺の中で眼覚め、どれほど辛《つら》かったか。どれほど恐怖したか。これでわかったわ。掘り出した時、我らを襲うてきたもののけども、いずれも、おれが施した呪が、貴妃の恐怖で変貌したものであったのだなあ……」  わたくしは、眼やにでしょぼつく眼を、懸命に開き、 「黄鶴よ……」  その名を呼びました。 「黄鶴よ……」  ああ、黄鶴よ、黄鶴よ。  その名を呼んで、その後に、どういう言葉も出てきませんでした。  わたくしは、ただ、その名を呼ぶばかりでございました。 「黄鶴よ……」  黄鶴が、わたくしを、黄色い濁《にご》った眼で見つめておりました。  わたしの眼に、熱いものがこみあげてまいりました。  涙があふれてきたのです。 「黄鶴よ……」  わたくしは、その名を呼びながら、泣いていたのです。 「わが、同胞《はらから》よ……」 「——」 「わたしは、そなたが、愛しい……」  わたくしは、そうつぶやいておりました。  黄鶴は、一瞬、驚いたような眼つきでわたくしを見つめました。  灯明台の灯《あか》りが、黄鶴の顔に刻まれた、深い皺の上に、赤あかと揺れております。その眼の表面に、炎の色が映っておりました。 「高力士よ……」  黄鶴がつぶやきました。  その声には、思ってもみなかった優しい響きがありました。 「このわしを同胞と言うか、このおれを、愛しいと言うか……」  黄鶴のその唇に、小さな笑みが点《とも》るのを、わたくしは見ました。  黄鶴は、その眼からこぼれてくる涙をぬぐおうともせずに、わたくしを見つめておりました。 「高力士よ……」 「——」 「高力士よ、鳴呼《ああ》、高力士よ。すでに、ぬしを殺す気は失せたわ……」 「——」 「放っておいても、いずれ、ぬしの生命、もう長いことはない……」 「であろうな」 「長安へは、もう、たどりつけまい……」 「わかっている」 「もう、ここらでよかろう」 「そうだな」 「ここで、死ぬるがよい」 「うむ」  黄鶴の言葉に、わたしは素直にうなずいておりました。 「人とは、いずれは、旅の途上で死ぬる運命にある」 「——」 「安心せよ、高力士」 「安心?」 「このおれも、じきに死ぬ。先に行って、おれを待っておれ……」 「待つ?」 「まだ、おれには、やり残したことがひとつあるのでな」 「やり残したこと?」 「わがことの始末、つけておきたい」 「何のことだ」 「ぬしは、知らずともよいことさ」  ゆっくりと、幽鬼《ゆうき》のごとくに黄鶴は立ちあがりました。  窓に向かって、背をかがめるようにして歩き始めました。 「どこへゆく」  わたしは、その背に問いかけました。 「我が死に場所よ……」  ぼそりと、黄鶴はつぶやきました。 「死に場所?」 「ああ、死に場所なら、もう決まっておるわ。死に場所ならな……」  窓の枠に手を懸《か》け、 「高力士よ……」  背を向けたまま、黄鶴が言いました。 「何だ」  わたくしが問うと、しばらく沈黙があり、 「楽しかったなあ……」  低い黄鶴の声が響いてまいりました。  こちらから見る黄鶴の肩が、小さく震えておりました。 「黄鶴……」  わたくしが声をかけた時、 「さらばじゃ」  そう言ったかと思うと、黄鶴は、するりと窓から外へ抜け出しておりました。 「黄鶴」  わたくしは、立ちあがり、窓に向かって、よろよろと倒れ込むように駆け寄りました。  ゆくな——わたくしは、心の中で、そう叫んでおりました。  ゆくな、黄鶴よ。  わたくしを独りにするな。  もう、わたくしには、誰もいない。  貴妃様も、玄宗様も……  窓から外を見ると、そこにあるのは、夜の闇ばかりであり、西に傾いた月の明りが、ほそほそと庭の草を照らしているばかりでござりました。  もう、誰もそこにはおりませんでした。  わたくしは、長い間、まるでわたしの心の中を覗《のぞ》き込むように、その闇を見つめておりました。  楽しかったなあ——黄鶴は、最後にわたしにそう言い残してゆきました。  晁衡殿。  いったい、黄鶴は、何を楽しかったと言ったのでしょうか。  ふたりで、長い時間話をした、この夜のことを言っていたのでしょうか。  いいえ。  わたくしにはわかっております。  黄鶴が言ったのは、我らが共に過ごしたあの時間のことであったのです。  それが、わたくしにはよくわかっております。  あの、日々。  なんという、絢爛《けんらん》たる日々であったことか。  闇の中に、あの、宴《うたげ》の光景が見えてくるようでした。  李白が詩を作り、玄宗様が曲を作り、李亀年《りきねん》が唄い、貴妃様が舞ったあの宴……  晁衡殿、あなたもあの宴の席にはおいででした。  そのおりの、楽《がく》の音《ね》までもが、わたくしの耳に甦《よみがえ》ってくるようでございました。  なんという夢のような日々であったことでしょう。  安禄山《あんろくざん》の乱のおり、蜀の地まで逃げたこと。  その途中、馬嵬駅であったこと。  華清池でのこと。  全てが、今は夢のようでございます。  晁衡殿。  人というのは、なんと愚かな生きものであることでしょう。  また、その愚かさ故に、なんと愛しい生きものであることでしょう。 「黄鶴……」  わたくしもまた、闇に向かってつぶやいておりました。 「楽しかったなあ……」  その言葉は、風に運ばれ、闇に溶け、夜の彼方にあの日々の如くに消え去ってゆきました。  晁衡殿——  これが、わたくしが、最後にあなたにお話し申しあげたかったことでございます。  遠からず、この二、三日のうちに、わたくしはこの地で果つることでしょう。  あなたさまもまた、倭国へ帰らんとして、この大唐国にてその生命を終えねばならぬ身です。  このわたくしも、遥か長安を望みながら、この遠い朗州《ろうしゅう》にて、この罪深き一生を終えねばなりません。  今、想うのは、あの華清池から消え去った、貴妃様の御身《おんみ》の上でございます。  貴妃様は、まだ、生きておいでなのでございましょうか。  白龍、丹龍共々、一緒にこの大唐国のどこかの地に暮らしているのでしょうか。  去り際に、黄鶴が言ったやり残したことというのは、そのことと関係があるのでしょうか。  所詮《しょせん》、人は、気になることの全てを知って死ねるわけではありません。  黄鶴の言った通り、いつ死ぬにしても、人は、結局何かの途上で死ぬることになるのでございましょう。  気にかかることや、思い残すことのあれもこれも抱えて、人は、ある日、その旅の途上でその生命を終えることになるのでしょう。  あなたもまた、倭国から、遠い旅をされてこの地に至った方でございます。  故郷の山河を思うこと、いかばかりでございましょうか。  思えば、わたしは、遠く嶺南《れいなん》の地に生まれた者でございます。  幼少のおりに、去勢され、嶺南討撃使の李千里《りせんり》様に買われて、則天武后《そくてんぶこう》様に献上されたのです。  その後、宦官の高延福《こうえんふく》様の養子となって高の姓を名のるようになりました。  そして今日まで、思いもかけぬ、身に余る出世をし、唐王朝の秘事にここまで深く関わることになろうとは、その頃は想像もしておりませんでした。  では、もう灯《ひ》も細くなってまいりました。  この灯の尽きるが如くに、わたくしのこの生命も消えようとしています。  そろそろ筆を置いて、この文を終えましょう。  晁衡殿、この文が、あなたのお手もとに届くのは、わたくしが死んでからのことになるでしょう。  あるいは、この文が届かぬということもあるやと思いますが、願わくば、この文が、どうかあなたのお手元に届くこと祈っております。   宝応元年四月 朗州にてこれを記す [#地付き]高力士  晁衡殿       (十二)  高力士の死については、『旧唐書《くとうじょ》』には次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  宝応元年四月、たまたま赦《ゆる》されて帰る。朗州に至り流人の京国の事を言うに遇い、初めて上皇の厭代《えんだい》を知る。力士北のかたを望み号慟し、血を吐きて卒す。 [#ここで字下げ終わり]  厭代とは、天子の崩御のことである。  享年、七十九歳。  巫州《ふしゅう》に流されている間に、次のような詩を残している。 [#ここから1字下げ]  両京作芹売 両京芹《りょうきょうせり》を作り売るも  五渓無人採 五渓《ごけい》人の採ることなし  夷夏雖不同 夷夏《いか》同じからずといえども  気味終不改 気味《きみ》ついに改まらず [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    第三十四章 茘枝《ライチ》        (一)  恵果《けいか》は、護摩壇《ごまだん》の前に座して、呪《しゅ》を唱え続けていた。  一日中、ほとんど途切れることなく、恵果の唇と舌は動き続けている。  ほんの一時、食事を摂《と》り、排便をし、眠る時はそこを立つが、残りの全ての時間を使って、恵果は呪を唱えているのである。  恵果《けいか》が席を立っている時だけ、他の者が恵果に代って護摩壇の前に座り、呪を唱えるのだが、その時間はわずかである。  恵果が中心にいて、その左右に、恵果を助けて呪を唱える僧たちが座している。  志明《しみょう》と鳳鳴《ほうめい》である。  護摩壇の中央には炉があり、そこでは、絶えることなく火が燃やされていた。  その炎の中に、呪の文字が書かれた護摩木《ごまぎ》が、絶え間なく投げ込まれる。  恵果の頬は、誰が見てもそうとわかるほど肉が落ちていた。  刃物でえぐるようにして、そこの肉をこそぎ落としたようであった。  眼窩《がんか》は窪《くぼ》み、その奥で、黄色い眼だけが、炯々《けいけい》と光っている。  その部屋には、異様な臭気が満ちていた。  腐った肉の臭いである。  炎の匂いが、その腐った肉の臭いと混ざりあって、耐え難い臭気となっていた。  その腐った肉は、護摩壇の向こうにある、大日如来《だいにちにょらい》の像の前に置かれていた。  夥《おびただ》しい量の肉。  大人ひとり分くらいはありそうな、牛の肉であった。  その肉の表面が青黒くふくれあがっている。  ただ、腐っただけの色ではない。  肉の上に、護摩壇の炎が、ちらちらと映っているが、その肉の表面が常に変化し続けているのがわかる。  表面が、ゆっくりとした速度で盛りあがってくる。その盛りあがってきた肉の表面が、ふいに、ぷくりと水泡のように膨《ふく》らんで、割れる。  すると、その割れ目から、異様な臭気が空気の中に溶け出てくるのである。  不気味な光景であった。  さらに不気味であったのは、その肉の上部が、ぬれぬれと、妖しく濡れていることである。どうやら、血が、そこに塗られているらしい。  炎の色を映したその血の表面が、小さくぶちぶちと泡立っている。  そこだけが煮えているように見えるが、むろん、そうではなかった。  その肉に向かって、何処《いずこ》からか放たれている呪が、そういう現象を起こさせているのである。  呪が、ここまで眼に見えるかたちとなっているのを見るのは、恵果も初めてのことであった。  その肉の上に、一枚の紙が貼りつけられていた。  その紙片には、 �順宗�  の文字が書かれていた。  実は、それだけではない。  眼には見えないが、その肉の内部には、順宗自身の髪の毛が入っているのである。  さらに言っておけば、肉の上部に塗られている血は、順宗自身のものであった。  順宗に向かって放たれてくる呪を、この牛の肉に集めてしまうために、恵果はこのような方法をとっているのである。  恵果の呪を唱える声が、低く、響いている。  額に汗を浮かべているわけでもなく、歯を噛《か》んで行《ぎょう》をしているわけでもない。  身体や声のどこかに、特別に力がこもっているわけでもない。  ただ、たんたんと恵果は呪を唱えているだけである。  と——  その時、後方から声がかかった。 「恵果さま……」  と、その声の主は、静かに言った。  恵果の後方に、従者のひとりが立っていた。 「順宗《じゅんそう》さまの、お食事を用意してまいりました」  その男は言った。  しかし、恵果は、わざわざ返事をしなかった。  視線を送ってもいない。  声をかけた男は、恵果の返事を待ちもせず、牛の肉塊の前まで、膳を運んでいった。  その上には、粥《かゆ》、肉、野菜、魚などが載っている。  これは、この肉塊が順宗であると相手に思わせるためにとられた方法のひとつであった。  順宗でない肉塊を、皆で順宗と呼び、まるで、順宗がそこに居るかの如くに、肉塊につくすのである。  だから、その肉塊を皆で順宗と呼び、食事時になれば、順宗に対してそうするように、肉塊に対して食事を運んでくるのである。  本物の順宗は、隣室にいた。  隣室で、額に汗を浮かべ、仰向けになって、孔雀明王《くじゃくみょうおう》の真言《しんごん》を唱えている。  その順宗の顔には、小さな文字で、無数の人の名前が、びっしりと書き込まれていた。  陳義珍。  黄文岳。  張祥元。  白明徳。  劉叔応。  林東久。  それこそ、肌が見えなくなるほど、人の名が書かれているのである。  耳、耳の穴、鼻、鼻の穴。  指先、唇、目蓋《まぶた》。  衣《きぬ》を脱がせてみれば、そこにはまた顔以上に細かい文字で、人の名前が透《す》き間《ま》なく書かれているのを見ることができるだろう。  これらは、いずれも、順宗を別の人間に見せるためのやり方である。  順宗には、呪がとどかぬようにし、牛の肉の方に呪を集めるための方法であった。  しかし、いつまでこれを続けたらいいのか、それがわからないまま、この日まで似たようなことを続けてきたのである。  いつまで続けたらよいのかわからない——  それがわからねば、神経も体力も次第に磨《す》り減ってくる。  順宗や恵果だけでなく、他の者も、疲労の色が濃い。  中でも、恵果の衰弱が一番ひどい。  順宗本人よりも、その肉体が衰えている。  まるで、恵果は、自分の生命の一部を削って、それを順宗に与えているようであった。  もともと、呪とはそういうものである。  呪を操るということは、自分の生命力を使うということである。  恵果は、この呪法《ずほう》のために、自分の生命力を全て使いきってしまうつもりでいるかのようであった。  すでに、食事を運んできたものは退《さ》がり、また、そこには、恵果、鳳鳴、志明の三人だけとなった。  呪を唱える三人の低い声が重なって、まるでその部屋全体が呪を唱えているようにも思える。  一種異様の空間がそこにできあがっていた。  その時——  高い、悲鳴に似た声があがった。  隣室からであった。  隣室で、誰かが悲鳴をあげたのだ。 「順宗様」  続いて、順宗の名を呼ぶ声が聴こえてきた。 「順宗様」 「なにをなさるのですか」 「順宗様」 「順宗様」  その声が大きくなってくる。  やがて、恵果が呪を唱えている部屋に、順宗が入ってきた。  着ているものは乱れ、髪はざんばらになっており、頬には長く無精髯《ぶしょうひげ》が伸びている。  とても、大唐帝国の皇帝とは思えなかった。  よろよろと、順宗の身体がよろめき、周囲にいた従者たちがその身体を支えようとすると、順宗は、獣の如き声をあげて、その手を振りほどく。  順宗の唇からは、細かい泡がふつふつと吹き出てきていた。  それと同時に、絶え間なく、獣の低い唸り声のようなものが、その唇から洩れている。時おり——  かっ、  かっ、  と荒い息を吐く。  恵果は、そこで初めて呪を唱えるのをやめた。  鳳鳴と志明も、その唇を閉じた。  恵果は、首《こうべ》をめぐらせて、順宗を見やった。 「順宗様」  その名を呼んだ。  しかし、順宗には、恵果の声は届いていないようであった。  よろめきながら、順宗が護摩壇の方に歩いてゆく。 「くく……」 「ひひ……」 「かか……」  低い声で、順宗が笑っている。 「鳳鳴」  恵果が、吐蕃《とつばん》から、青龍寺《せいりゅうじ》まで修行にやってきた鳳鳴に声をかけると、無言で鳳鳴が立ちあがった。  順宗の前まで歩いてゆき、鳳鳴がその肩に手をかけようとすると、 �うるるるる……�  順宗が、喉《のど》の奥で唸《うな》った。  そして、なんと、順宗は、床の上に、まるで犬のように四つん這いになったのである。  唇をめくりあげ、黄色くなった歯を見せた。  ふいに、順宗の身体が動いた。  それまで、よろめいていたのが嘘のように、四つん這いのまま順宗は床の上を走り、護摩壇の向こうまで跳んだのである。  そして、自分の血が塗ってある牛の肉に跳びつき、腐臭を放つその表面にかじりついていた。  歯をあて、肉を噛みちぎり、それを呑《の》み込む。  かつかつと、歯が鳴った。  異様の光景であった。  浅ましい餓鬼《がき》の如き姿であった。 「いよいよ、きたか——」  恵果は、そうつぶやき、今度は、自らが立ちあがった。  順宗の方へ歩み寄ろうとする鳳鳴を制して、 「わたしがゆこう」  恵果自身が、順宗に向かって歩き出した。  順宗は、牛の肉に全身でしがみつき、その肉を喰べている。  その前で、恵果は足を止めた。 「おいたわしや、順宗様……」  そう言って、恵果は身をかがめ、順宗に向かって、左手を伸ばした。  すると——  順宗は、恵果の左手に両手で跳びつき、その甲にいきなり歯を立ててきたのである。  しかし、恵果は声をあげなかった。  優しい眼で、順宗を見つめたまま、手を順宗の噛むにまかせた。  恵果のその眼から、ひと条《すじ》、ふた条、涙がこぼれ出ていた。 「よろしゅうございますよ。お気のすむようになされませ」  慈《いつく》しむような声で、恵果は言った。 「もともと、人は、そのような性《さが》を、自分の心の中に持っているのでございます。だからこそ、このような呪にもかかり、また、だからこそ、だからこそ、人は仏にもなることができるのでございます……」  恵果は、そう言いながら、手の甲を噛んでいる順宗の後頭部に、右手を当てた。 「今、お楽にしてさしあげましょう」  ふっ、と息を吐きながら、恵果は、とん、と順宗の後頭部を、右手で軽く押した。  そのとたん——  順宗はそこに倒れ伏していた。 「順宗様——」  従者たちが歩み寄ると、順宗は、恵果の足元で丸くなり、静かに鼾《いびき》をかいて眠っていた。        (二)  空海は、西明寺《さいみょうじ》の自室にいる。  窓近くに寄せた文机《ふづくえ》の前に座して、先ほどから、筆で何やら紙に書きつけている。  その斜め後方に、ぽつんと| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》が座して、何やら不満そうな表情をその顔に作っている。  窓からは、春の盛りの庭が見えている。  槐《えんじゅ》の青葉が揺れ、すでに牡丹《ぼたん》が咲きはじめている。  西明寺は、長安でも屈指の牡丹の名所である。  牡丹の時期には、庭を一般の人々にも開放するので、じきに、ここも見物の客たちで賑《にぎ》わうことになるはずであった。 「おい……」  逸勢が、空海の背に声をかける。 「さっきから何を書いているのだ」 「色々だ」  振り向きもせずに、空海が答える。  空海の声の調子には、どこかうきうきしたような響きがあった。 「色々とは何だ」 「だから、色々さ」 「色々ではわからん」  逸勢が拗《す》ねたように言った。  すると—— 「ははあ」  空海は、文机の上に筆を置き、ようやく逸勢の方に向きなおった。 「おまえ、おれがかまってやらないので、おもしろくないのだな」  空海の口元に笑みが浮いている。 「そ、そういうわけではない」 「では何なのだ」 「おまえが今、何を書いているのか、それを教えてもらいたいと言っているのさ。それを、おまえはもったいぶって教えてくれぬではないか」 「別に、もったいぶっているわけではない」 「では言え」 「何を言えばよい?」 「今書いていたのは何だ。いずれにしろ、今度《こたび》の一件と関わりのあることなのだろう?」 「ああ。ちょうど今、書き終えたところだが。楽《がく》について書いていた」 「楽?」 「華清池《かせいち》へ持ってゆくもののことさ」 「何を持ってゆく」 「編鐘《へんしょう》、編磬《へんけい》、鼓《こ》、瑟《しつ》などをな」  空海は、今しがたまで何やら書きつけていた紙を、逸勢に手渡した。  逸勢がそれを見ると、確かに楽器の名がそこに記されている。  編鐘。  編磬。  鼓。  瑟。  琴《きん》。  笙《しょう》。  排簫《はいしょう》。  |※[#「竹かんむり/褫のつくり」、第4水準2-83-66]《ち》。 「他にもな、五弦の月琴《げっきん》や、十弦琴など色々とそろえるつもりでいる」 「昨日、赤《せき》に言っていた分か」 「そうだ。楽器だけでなく、衣裳《いしょう》なども合わせて入用になりそうなのでな。あらためて今、それを書き記しているのさ——」 「——」 「胡《こ》の楽器をいじることのできる人間も集めておきたい——」 「——」 「楽ばかりではない。食べるものもあれこれ考えておきたい。胡の料理を作ることのできる人物も必要になろうし、瑠璃《るり》の盃や、胡の酒も用意したいのでな。忘れぬように書きとめていたのさ」 「おまえでも忘れるのか」 「いや、おれのことではない。これをそろえる者が、忘れぬようにということだ」 「そろえる者?」 「いずれ、赤がやってくるのでな。彼にこれを頼むのさ。皇帝がたいへんなおりに、このようなものを表だって集めるわけにもゆかぬであろうから、秘密裡にな——」 「——」 「いつ、どこに集まって、どうやって出かけるか、そのだんどりなどを記していたところであったのさ」 「宴《うたげ》と言うていたか」 「うむ」 「華清池でとも言うていたな」 「ああ言った」 「それが、今度の一件とどのように関係があるのか、おれはいまだにそれがよくわからんのだが」 「安心しろ、逸勢。実は、おれにもよくわかっているというわけではないのだ。ただ、このようなことであろうと思っているということだけなのだからな——」 「う、うむ?」 「何も、鬼と争うばかりが、皇帝をお守りすることではなかろうよ」 「や、やはりおまえの言っていることはよくわからん」  逸勢は言った。  空海は笑って、 「しかし、遅いな」  そうつぶやいた。 「遅い?」 「赤がだ」  空海がそう言った時、 「空海先生」  外から、大猴《たいこう》の声がかかった。 「どうしました」 「赤さんがおいでになりました。劉禹錫《りゅううしゃく》先生も御一緒です。何やらお急ぎの御様子ですが」 「すぐ、こちらにお通しして下さい」  空海が言うと、ほどなく、赤が姿を現わした。  劉禹錫がその横に立っている。  その顔色がよくない。 「どうしました?」  空海が訊《き》いた。 「柳《りゅう》宗元先生からの伝言があります」  劉禹錫は言った。  柳宗元の友人で、文人。今は、柳宗元と共に、王叔文の下で働いている。  赤だけでなく、劉禹錫が一緒ということは、何か特別なことが起こったのか。 「何でしょう」  空海は訊ねた。 「昨夜、皇帝が錯乱された御様子です——」 「むう……」 「恵果和尚がなんとかされたのですが、いよいよ危いかもしれぬとのお話でした」 「危い?」 「皇帝も、それから恵果和尚もです」 「むう」 「詳しい事情は、教えてはいただけませんでした。御理解いただきたいのですが、このことだけでも、宮中の外に洩らすのはたいへんなことで——」 「承知しております」  空海はうなずいた。  大唐帝国皇帝の、生死に関わることを、そう簡単に宮中から外に洩らすことができないのはよくわかる。 「では、こちらも急がねばなりません。これだけのものを、手配して下さい。方法はおまかせいたしますので——」  空海は、逸勢の手にあった紙片と、文机の上にあった紙片を重ねて赤と劉禹錫に手渡した。 「わかりました」  劉禹錫はうなずいたが、その顔は、納得している顔ではない。  何故、この時期に、宴の用意をし、楽人を集めねばならぬのかがわからないのである。  しかし、それを口には出さない。 「柳先生には、よろしくお伝え下さい。わたしの方は、できるだけのことはやっておきましょう」  空海がそう告げると、 「では」  すぐにふたりは外に出て行った。        (三)  空海と逸勢は、西明寺を出て歩いている。  久しぶりに大猴が一緒であった。  最近は、西明寺で留守番をすることが多い大猴は、 「久しぶりに空海先生と出かけられるというのは、嬉《うれ》しいねえ」  声がはずんでいる。  西へ向かって、三人は春の賑わいの中を歩いているのである。  坊の中をゆく者たちは、いずれも、今、宮中でどのようなことが行なわれているか誰も知ってはいない。  アルン・ラシッドの件で、人が死んだりした件も、一時は人々の口の端《は》にのぼったりはしたが、それも、長安という人口百万都市から見れば、一部の人間たちの間で噂になっただけのことである。  どのようなできごとであれ、この巨大な都市はそれをその内に飲み込み、姿を見えなくしてしまう。  巨大な都市の持つそのみごとな機能を体感してでもいるように、空海は太い笑みを浮かべ、太い呼吸をしながら歩いてゆく。 「いったい、どこへゆこうというのだ、空海よ」  逸勢は訊いた。  まだ逸勢は、空海からその行く先を聴いていないのである。  劉禹錫と赤が帰った後、 「ではゆこうか」  そう言って、空海が立ちあがったのである。 「ゆく?」  逸勢は訊いた。 「どこへだ?」 「ゆけばわかる」  空海は、逸勢を立ちあがらせ、一歩足を進めてから振り返った。 「そうだ、大猴も連れてゆこう」  そう言って、空海は逸勢をうながし、西明寺から出てきたのである。 「西市さ」  空海は答えた。 「西市へ何をしにゆくのだ」 「思うところがあって、ひとつ手に入れたいものがあるのさ」 「何だ、それは——」 「茘枝《ライチ》だ」 「茘枝?」  茘枝というのは、南の地方で採れる果実である。半透明の白い果肉は、甘い。ムクロジ科の常緑高木で、雌雄異花。樹の高さは十メートルにもなる。  蜀《しょく》の方で採れるが、まだ、その時期には早いはずであった。 「今、茘枝が手に入るのか」 「だから、西市へゆくのさ。赤にばかり頼んでもいられぬからな」  西市は、ざわめきに満ちていた。  夥《おびただ》しい数の店がそこに出ている。  迷路のようなその店と店の間を、わけがわかったような顔で空海が歩いてゆく。 「おう、ここだ」  やがて、空海が立ち止まったのは、筆屋の前であった。  大小無数の筆が店先に並んでいて、その奥に白髪の老人がいた。 「なんだ、空海先生じゃないかい」  老人が先に声をかけてきた。 「お久しぶりですね」  笑みを浮かべて空海はその老人と挨拶をかわし、 「李《り》先生、こちらが、いつもお話ししていた橘逸勢です」  逸勢と、それから大猴を紹介した。 「逸勢よ、こちらは、蜀からいらした李|清水《せいすい》先生だ。長安中を探しても、李先生ほどみごとな筆を作る方はめったにいないぞ」  空海が言うと、 「めったにではない。ひとりもおらんさ」  李老人が、顔中を皺《しわ》にして笑った。 「李先生から、おれは筆の作り方を色々と教わっているのさ」  空海は、逸勢に向かって言った。 「で、空海先生、今日はいったい何の用だね——」 「実は、先生でなければできないことで、ひとつお願いにあがりました」 「ほう、何だね」 「茘枝を幾つか手にいれていただけませんか」 「茘枝を!?」 「はい」 「難しいな、それは——」 「ですから、先生にお願いにあがったのです」  空海は、すました顔で言った。        (四) 「茘枝といえば、ひと月は先にならねば長安には入って来ぬ。来るにしてもわずかだ」 「でしょうね」  空海はうなずいた。  南方で穫《と》れるとはいっても、距離がある。  穫ってから、腐らせずに長安まで運んでくるだけでもたいへんな手間がかかる果実である。 「手に入るにしても、金がかかるぞ」  李老人は、空海を見やり、何ごとか考えているようであった。  しばらく沈黙してから、 「約束はできぬぞ」  ふいに、言った。 「もちろんです」 「やるだけはやってみようということだ」 「それで結構です」 「心あたりを幾つかあたってみよう。もしも、長安に茘枝が入っているものなら、なんとかなるやもしれぬが、入ってなければ、いくらわしでもお手あげじゃ」 「心あたりがおありですか」 「心あたりならばな。長安に住む銭のある連中が、毎年、競い合って茘枝を早く食べようとしている。買いつけにはもう出かけているし、蜀よりもっと南方まで買いつけにゆく者もいるらしい。運がよければ、そのうちの誰かの荷が、長安に入る頃かもしれぬ——」 「——」 「しかし——」 「しかし?」 「たくさんの量は無理だ」 「はい」 「それから、金がかかる」 「承知しております」 「荷の中から幾つかを抜くことになるからな——」 「はい」 「それも、そういう荷が長安に来ていればの話だ」 「わかっております」 「で、いつまでじゃ」 「三日後の朝まで——」 「三日後だと?」 「すみません。ですから、先生にお願いにあがったのです」 「ううむ」  李老人は腕を組んで唸った。 「まあ、とにかく、三日後の朝にここまで誰かをよこしなさい。手に入るものなら、その時に渡そう」 「おそらく、赤という者がこちらにうかがうと思います」 「そうか」  李老人はうなずいて、 「茘枝が手に入ったら、わしの方からもぬしに頼みごとがある」  空海に向かってそう言った。 「何でしょう」 「今、何をやっているのかわからんが、そのごたごたがかたづいたら、わしの碁の相手をせい」 「喜んで——」  空海は、微笑してうなずいた。        (五)  空海と逸勢は、人混《ひとご》みの中を歩いている。  李老人の家を出て、歩き出したところである。  ふたりのすぐ後ろを、大猴が歩いている。  前から歩いて来る人間は、皆、人混みから頭ひとつ抜き出ている大猴の身体の大きさに驚いて、道をあける。  おかげで、空海も逸勢も歩き易い。 「しかし、だいじょうぶなのか、空海よ」  逸勢が、歩きながら空海に訊いた。 「何がだ」  空海が答える。 「茘枝のことだ。手に入らぬのではないか」 「入るさ」  あっさりと空海は言った。 「李先生は、わからぬと言っていたではないか。だいぶ難しそうな雰囲気だったではないか」 「駄目ならば、最初から駄目と言う方だ、李先生はな」 「しかし——」 「ああいう言い方をしたということは、おそらく、手に入るということだ。断言はしなかったがな」 「そうなのか」 「李先生は、南の方でな。蜀や、あちらの方とは繋《つな》がりの深いお方だ。今もな。あちらの事情には詳しい」 「そうは言っても、茘枝というのは時季のものではないか。いくら李先生が南の方の事情に詳しいと言うても、まだ樹に成らぬものを持ってくるわけにもゆくまい」 「蜀のさらに南ではどうだ」 「南?」 「長安の、金に糸目をつけぬ方々が、何人か競って早い茘枝を食べようとしていると言っていたではないか」 「言っていたが、それがどうしたのだ」 「実は、李先生が、そういうお方なのだよ、逸勢」 「何!?」 「李先生が言っていた金持ちの中には、御自身も入っているのさ」 「李先生が、金持ちと?」 「ああ」 「では、何で、あそこで筆なんぞを売っているのだ」 「筆作りは、李先生の、御趣味なのさ。別に金が欲しゅうて、あそこでああやって売っておられるのではない」 「つまり、李先生御自身が、茘枝を毎年——」 「そうだ。いつも人をやって、茘枝を運ばせているのだ」 「——」 「先生の口ぶりでは、まだ長安に到着してはおるまいが、その途中ということではあろうよ」 「金がかかると言っていたが?」 「それはそうさ。もしも、自分のところのが間に合わなければ、先に長安に届けられたどなたかの荷から抜くおつもりなのだろう。それには金がかかる」 「そういうことか」  感心したように、逸勢がうなずいた。 「空海先生は、本当に色々な人と知り合いになるんだなあ」  後方から大猴が声をかけてきた。 「空海先生は、人をたらすのが上手だからな——」 「おれは、人たらしか」 「空海先生」 「なんだ」 「もしかしたら、空海先生は、倭国《わこく》よりは、こちらの方が合っているのではありませんか——」 「長安か」 「そうです。倭国は、空海先生には狭すぎるような気がしますよ。何も無理をして、窮屈な服を着ることもないのではありませんか」 「そうするか」  空海は言った。 「本気か」  慌てて言ったのは逸勢であった。 「日本へ帰るつもりはないのか、空海——」 「帰るつもりはある」  言ってから、 「しかし、この国にも残りたい」  太い溜め息と共に、空海はその言葉を空に向かって放った。  足を止め、逸勢を見やり、 「逸勢よ。実のところ、おれも本当に困っているのさ。そのことについてはな——」  空海は、なんとも微妙な笑みをその唇に含み、指で頭を掻《か》いてみせた。 「この国は、居心地がよい」 「空海よ。おれも、おまえにはこの国が合っていると思っているよ。あの小さな国の中に閉じ込めてしまうより、おまえは、この国で生きた方が……」  そこまで言って、逸勢は、口ごもった。  何か、言葉を捜しているらしい。 「おもしろいだろうよ、おれもな」  代弁するように、空海は言った。 「そうだ。おもしろいとおれも思う。あの国で生きているおまえを見るよりは、この国で生きているおまえを見る方が、ずっとおもしろかろうと思う……」  逸勢の言葉が、小さくなり、途切れた。  逸勢は、空海を見つめ、 「空海よ。おまえ、この国に残ったらどうだ?」  そう言った。 「残るか」 「そうしろ、空海」  逸勢は言った。  言ったそのすぐあとから、ふいに逸勢の眼から涙が溢れ出た。  その涙が、するすると逸勢の頬を伝った。 「空海、おまえはこの国に残れ」  逸勢は言った。 「考えておくよ、そのことは」  空海は、逸勢の肩をぽんと軽く叩き、また歩き出した。  逸勢と大猴が、空海の背を追って歩き出した。 「逸勢」  空海は、背を向けたまま、後ろから歩いて来る逸勢に声をかけた。 「何だ、空海」  逸勢が答える。 「茘枝は、実に美味だそうだ」  空海が言う。 「らしいな」 「もしも手に入ったら、まず、おれとおまえとで食《しょく》そうではないか」 「いいな」  逸勢がうなずいた。  ゆるゆると、三人が市の人混みの中を歩いてゆく。 「しかし、もしふたつしか手に入らなかったらどうするのだ、空海」 「その時は、おれとおまえと、ふたりだけで食べるのさ」 「いいのか」 「いいさ」 「何か、魂胆《こんたん》があって、茘枝を手に入れたかったのだろう?」 「まあな」 「なんだ、その魂胆というのは——」 「このたびの一件には、ぜひとも用意しておきたいものなのさ。茘枝はな」 「何故?」 「今、長安でこの時期に茘枝を食べようなどと考える方がたが、どうしてこの長安にいるのか、わかるか」 「さて——」 「その昔に、あるお方が流行《はや》らせたのだ」 「あるお方?」 「貴妃——楊玉環《ようぎょくかん》さまだよ」  空海は言った。 [#改ページ]    第三十五章 温泉宮        (一)  春の、野であった。  大地に、草が萌《も》え出ている。  しばらく前までは、硬く凍てついていた大地が、今は萌え出た草に埋もれている。  青い天を、悠々と雲が流れてゆく。  遠くを眺めれば、行く手には、もう驪山《りざん》が見えている。  長安を出たのは、昨日の朝であった。  総勢十五名。  空海。  橘逸勢。  白楽天《はくらくてん》。  子英《しえい》。  赤。  大猴。  玉蓮《ぎょくれん》。  五人の楽士。  三人の料理人《まかない》。  この十五人が、荷を乗せた三頭の馬と共に、驪山に向かっている。  驪山は、長安の北東六十八里のところにある。  この時代の六十八里という距離は、現代の尺度に換算すれば、およそ三十キロメートルになる。人の足で歩いたら、朝早く長安を発って、夕刻までたっぷり丸一日はかかる距離である。 「急ぐことはありません」  空海は、これに一泊二日をかけた。  長安から驪山まで、途中、|※[#「さんずい+顏のへん」の「彡」に代えて「生」、第4水準2-79-11]《さん》水《すい》と|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》水《すい》というふたつの川を渡ることになる。  この|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》水を渡ったところで宿をとった。  その宿を今朝に出て、今、驪山を眼の前にしているところである。  空海も逸勢も、驪山も華清池も初めてである。  一行の中では、白楽天だけが、以前に一度だけ、この地を訪れている。  白楽天は、無言で、近づいてくる驪山を眺めている。  何を考えているのか、その表情からはうかがえない。  今、白楽天は、秘書省|校書郎《こうしょろう》の役人である。  校書郎といっても閑職であり、自らの才を信ずる者にとっては、不満の残る職であったろう。  白楽天とは対照的に、玉蓮はうきうきとしているように見える。  玉蓮は、胡玉楼《こぎょくろう》の芸妓《げいぎ》である。  それを、空海が胡玉楼と話をつけて、今回の驪山に同行することになったのである。  以前、玉蓮に憑《つ》いていたものを空海が落としてやったことから、玉蓮にも胡玉楼にも、空海の評判はいい。 「遠出は久しぶりよ」  玉蓮が、歩きながら空海に声をかける。 「ね、このわたしが、本当に何かのお役に立てるの?」  玉蓮も、まだ、何のために自分がこの一行に混ざっているのかよく理解していないらしい。  それは、玉蓮だけではない。逸勢も、白楽天も、大猴も、そして子英も赤もわかってはいない。  いや、この旅を企てた空海本人もわかっているのかどうか。 「立ちますとも、もう、だいぶお世話になっています」  結局、楽士も、料理人《まかない》も、胡玉楼における玉蓮の顔で来てくれることになった人間たちであった。 「みなさんには、いつもやっていらっしゃることを、華清池でやって下さればよろしいのです」  空海は、玉蓮たちに、そのように言った。 「玉蓮|姐《ねえ》さんには、踊っていただいて——」  楽士たちは音楽を奏でてもらう。  料理人たちには、 「腕をふるっておいしいものを皆さんにお出しして下さればそれで充分なのです」  このように空海は言っている。  しかし、それが、何のためであるのか。  そのことが、逸勢も玉蓮たちもよくわかっていないらしい。  問われた空海も、 「いや、それがわたしにもよくわからないのです」  そう答えるばかりであった。 「よくわからなくてもいいわ。空海さんのお役に立てて、それが楽しい宴になるんならそれだけでわたしは充分よ」  空海と一緒に旅をする。  そこで宴を開く。  それだけで、玉蓮には楽しいらしい。  その意味では大猴も同じであった。 「このことは、空海先生に何かお考えがあるんだろうから、それでもう自分はいいんです。仮に、何のお考えも空海先生にないとしたって、それはそれで、わたしにゃ少しもかまいません」  それが大猴の納得であった。  道は、いよいよ驪山の登りにさしかかっている。 「空海よ、これから何がおこるのだ」  逸勢は、空海に日本語で問うてきた。 「さあ、何が起こるのかな——」  坂に向かって、足を踏み出しながら空海が答える。 「もし、何か、おまえがわかっているというのなら、おれにくらいは教えてくれぬか」 「すまん、逸勢——」  空海は言った。 「それが、実は、本当におれにもよくわからんのさ——」  空海は微笑していた。 「わからぬ?」 「何か、起こるかもしれぬ。起こらぬかもしれぬ……」 「——」 「おれに、他意はないのだ」 「他意?」 「ただただ、楽しき宴を——」 「宴を?」 「そうだ」 「——」 「そして、おこしいただくお客人の話を、ただただ聴くだけよ」 「客人? いったい誰のことだ」 「さあ、どなたになるやらなあ……」  空海はつぶやいた。  登るうちに、空海や逸勢にとっては馴じみのある、湯——温泉の匂いが風に乗って漂ってきた。 「楽しい宴を——」  空海はそう言った。        (二)  驪山|西繍嶺《せいしゅうれい》の峰下に湧く、この温泉の歴史は古い。  秦漢時代にはすでに知られており、現在でも一時間の湯の湧出量《ゆうしゅつりょう》は、百二十五トンある。湯の温度は、摂氏四十三度。石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなど九種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があると言われている。  ここに、温泉宮ができたのは、貞観《じょうがん》十八年(六四四)のことであり、唐の太宗李世民《たいそうりせいみん》が閻立徳《えんりっとく》に命じてこれを造らせた。  この温泉宮を、華清宮と名づけたのが玄宗であり、天宝六年(七四七)のことである。楊玉環と玄宗が、この温泉宮で初めて顔を合わせたのが開元二十八年(七四〇)のことであり、それから七年後に、華清宮と改名されたことになる。  華清宮の�華�とはもちろん�花�のことであり、この花とは、牡丹《ぼたん》のことである。  そして、牡丹とはつまり楊玉環のことであった。  この温泉宮の南にそびえる驪山の西繍嶺の北斜面と宮内の庭を、玄宗は花で埋めた。  その時、もっとも多く植えられたのが牡丹であった。  その数、およそ一万本。  牡丹の変種を作ることにかけては、天下随一と言われた園芸師、朱単父《そうたんぼ》をこの地に呼び寄せて、玄宗はその作業をやらせたのである。  その斜面が、花の頃には一面牡丹で刺繍《ぬいとり》されたように見えることから、西繍嶺の名もつけられたのである。  華清宮は、楊玉環と玄宗のために造られた宮殿であったといっていい。  それも、ただひとつの建物だけがそこにあったのではなかった。  長大な羅城《らじょう》で囲まれ、幾つもの楼閣《ろうかく》や宮殿が、その羅城の内と外に建てられていた。  毎年、十月から翌年の春まで、ひと冬を、玄宗はこの華清宮で過ごした。  それは、この地が、この間大唐帝国の政治の中心地となるということであった。  多くの宦官《かんがん》やその関係者もこの地に移り住み、冬の間はここで政務をとり行った。  長安の政治が、そっくりそのままこの華清宮へ移動したのである。  驪山周辺の村々には、多数の商人たちや役人たちも押し寄せてきて、この間は長安城の賑《にぎ》わいが、そのままこの地に移ったようになった。  華清宮の造りは、豪奢《ごうしゃ》を極めた。  四方を羅城で囲われたところは、小さな長安城とも言える。  北に、正門である津陽門《しんようもん》。  南に、昭陽門《しょうようもん》。  このふたつの門の間に、壮麗なる前殿と後殿が設けられた。  東側には、玄宗と貴妃が住む、寝所でもある飛霜殿《ひそうでん》が建ち、それを挟むようにして、玄宗の御湯である九竜殿《きゅうりゅうでん》と、貴妃専用の御湯である妃子湯《ひしとう》——芙蓉湯《ふようとう》が建てられていた。  玄宗専用の御湯である九竜殿も芙蓉湯も石で作られている。  九竜殿の広い湯舟の中に並べられているのは、白玉石で作られた魚《うお》、竜《りゅう》、鳧《かも》、雁《がん》であった。この像を作るための白玉石をはるばる范陽《はんよう》(北京)から運ばせて献上したのは安禄山である。  湯舟の縁から縁へは、美しい白玉石の梁《はし》が掛かり、湯の水際には、これも白玉石で作られた蓮《はす》の花が咲いていた。 『明星雑録』の伝えるところによれば、玄宗が入浴すると、花は開き、雁は翼を広げ、竜や魚はその鱗《うろこ》を震わせたという。  楊玉環専用の芙蓉湯にも、この白玉石の蓮の花が置かれていた。 『華清感宮』には、 �貴妃の湯殿《とうでん》 玉蓮開く�  とある。  貴妃が化粧をするのは端正楼《たんせいろう》であり、やはり貴妃のために建てられた七聖殿の周囲には、貴妃の好きであった石榴《ざくろ》が植えられていたという。  さらに、この華清宮の西部には、宮女たちが湯あみするための「長湯」が十六か所があった。  この長湯の屋《やかた》は数十間あって、美しい模様の文石が敷き詰められていた。 『明星雑録』の記すところによれば、白い銀をちりばめた漆塗《うるしぬ》りの船や白香木で作られた船が湯舟には浮かべられ、楫櫓《かい》はいずれも珠玉で飾られていたという。  さらに、瑟瑟《エメラルド》や沈香《じんこう》を積み重ねた、東海の神山|蓬莱山《ほうらいさん》も湯舟の中からそびえ、この湯殿そのものが神仙界を表わすという趣向であった。  しかし、安史の乱以後、この華清宮も、次第に衰退していった。  代宗《だいそう》李豫《りよ》の時に、権勢をほしいままにした宦官|魚朝恩《ぎょちょうおん》は、代宗の亡母のために章敬寺を建立した時、華清宮の観風楼を解体し、その建築資材として使ってしまった。  空海|入唐《にっとう》時より、さらに後の世のことになるが、黄巣《こうそう》の乱より後は、見る影もなく荒れ果ててしまった。  晩唐の詩人|崔魯《さいろ》は、この地を訪れ、その在り様を次のように歌っている。 [#ここから1字下げ]  草遮回※[#「足へん+登」、第4水準2-89-47]絶鳴鑾  雲樹深深碧殿寒  明月自來還自去  更無人倚玉欄干  草は|回※[#「足へん+登」、第4水準2-89-47]《かいとう》を遮って鳴鑾《めいらん》を絶ち  雲樹深深《うんじゅしんしん》として碧殿《へきでん》寒し  明月|自《おの》ずから来《きた》り還《また》自ずから去る  更《さら》に人の玉の欄干に倚《よ》る無し [#ここで字下げ終わり]  野の草が、すっかり石段を埋め、天子《てんし》の御車《みぐるま》の鈴音も、もう絶えてしまった。樹々には深しんとして雲がからまり、深緑色の御殿は寒々と静まりかえっている。  明月は、昔と同じようにやってきては、また去ってゆく。白玉の欄干にもたれて月を眺めた方は、もういない。        (三)  正面の津陽門は、新しく萌《も》え出たばかりの草に埋もれていた。  空海たちは、その津陽門から華清宮へと入っていった。  足を踏み入れると、石畳である。  その石畳の間からも草が伸び、静かに微風に揺れている。  夏の鬱蒼《うっそう》としたむっとするような草ではない。春の、まだ柔らかな新緑の色をした草たちである。  あちらのひと叢《むら》は、野甘草《のかんぞう》である。  こちらのひと叢は、繁縷《はこべら》である。  春の草たちは、いずれもまだ膝より高くは繁っていない。  荒れ果てた——という印象はない。  左右に並ぶ湯殿もほどよく古び、そこに柔らかな草が生えている。  風情といえば、風情である。 「なかなかの眺めではありませんか」  空海が言った。 「いや、これほどのものとは——」  逸勢が、溜め息と共につぶやいた。  正面に、もうひとつ門がある。  空海たちは、そぞろ歩きながら、また、その門をくぐった。  右手に、天を抱えるようにそびえている宮殿があった。  屋根の青い瓦《かわら》の色も、まだ、見てとれる。  瓦と瓦の間から、草が生えてはいるが、雨が洩るまでにはいっていないであろう。  柱の朱の色も、まだ残っている。 「なんとあでやかな」  逸勢の声は、興奮をおさえきれないようであった。  なにしろ、津陽門をくぐった羅城の中だけでも、三十余りの宮殿、湯殿、楼閣、城門などがあるのである。  午後の陽が、斜《なな》めに差している。  草が生え、蔦《つた》が柱や建物の壁に這《は》っている。  数十年をかけて、ゆっくりと華清宮全体が自然《じねん》の中に還《かえ》ってゆこうとしているようにも見える。  荷は、三頭の馬と共に津陽門の外に置いてきた。  そこに、楽士と料理人《まかない》が残っている。  池があった。  池の中央に浮き島があり、そこに橋が掛かっている。 「賑やかだったんだろうねえ……」  玉蓮がつぶやいた。 「あちらに見えるのが、玄宗皇帝がお寝《やす》みになられた飛霜殿でしょう」  池のほとりに立って空海が言うと、 「そうだ」  ぼそりと、白楽天が頷《うなず》いた。 「白さんは、ここは、初めてではないのでしたね」 「二度目になる」  飛霜殿は、一段高い場所に建てられており、池の前から石段を登ってゆくと、その前庭に出ることができる。 「あれが九竜殿、あれが芙蓉湯——」  白楽天が、見えている建物を指差しながら言う。 「場所は、どちらがいいでしょう」  空海が、白楽天に訊ねた。 「貴妃さまを偲《しの》ぶ宴というなら……」  白楽天は、池の縁に立って、ぐるりと周囲を見回し、 「やはり、飛霜殿ということになるか——」  そう言った。 「では、様子を見にゆきましょうか——」  空海が、先に立って歩き出した。  池を左手に見ながら、池の右手に回り込んでゆく。  そこから、石段を登りはじめた。  その横に、白楽天が並び、その後ろから、逸勢、大猴、玉蓮、子英が続く。  上に登った時に、 「おう」  最初に声をあげたのは、空海であった。 「これは」  白楽天もまた、空海の横に立って、そのまま動きを止めてしまった。  後から石段の上に立った逸勢もまた、 「みごとな……」  低い、讚嘆の声をあげた。  一面の、牡丹であった。  飛霜殿を包み込むように、牡丹の群落が花を咲かせていたのである。  なんという量の牡丹か。  赤い大輪の花を咲かせている牡丹が、見えるだけでも、百株以上はあるであろうか。  白い花を咲かせているものが、同じくらい。  紫。  桃色。  その他にも無数の色の牡丹が、そこに咲き乱れていたのである。  玉花《ぎょくか》。  紫水。  瑞麗。  千香花。  ありとあらゆる種類の牡丹がそこに生えているのである。  しかも、いずれも果実のごとき花を、茎《くき》が曲がるほど、たわわに咲かせているのである。赤と言っても、ただ赤ではない。  白とは言っても、ただ白ではない。  濃い赤もあれば、薄い赤もある。  濃い赤の中でも、血のような赤もあれば、沈む寸前の陽の色の如き赤もある。  その牡丹の中から、飛霜殿がそびえている。 「綺麗……」  玉蓮が、空海の後ろでつぶやいた。  五十年以上の昔——  いったいここで、どれだけ華やかな宴が催されたことか。  胡人の履《は》く長靴で、この石畳を、楊玉環の足が踏んだであろうか。  自らの身体と同じくらいの重さの飾りもので着飾った女たちが、ここを歩いたのであろうか。  今は、その人々はここにいない。  いるのは、倭国《わこく》からやってきた留学生の沙門《しゃもん》空海。  そして、橘逸勢。  まだ無名の詩人、白楽天。  胡人の玉蓮。  胡人の大猴。  漢人の子英。  それだけである。  わずかな風が、石畳の間から生えた草をゆすり、幾千、幾万とも思える、牡丹の花を重く揺らしているばかりであった。 「決まりましたね」  空海がつぶやいた。        (四)  空海と逸勢は、玉蓮と共に白楽天の後に続いて歩いている。  すでに、飛霜殿の前では、宴の準備が進められていた。  宴の場所を決めた空海が、大猴に命じて、外で待っていた、赤《せき》や、楽士や料理人《まかない》たちを呼び、荷を運ばせたのである。 「篝《かが》り火《び》は、このあたりにしましょうか」  空海が、指示をした。  四カ所に、篝り火の用意をさせ、中央には、波斯《ペルシア》の絨毯《じゅうたん》を敷きつめ、灯火を置く台をその周囲に置いた。  楽士たちは、楽器の荷をほどき、料理人たちは料理の準備をはじめた。  手が空いたところで、空海と逸勢は、白楽天の案内で、華清宮の中を見て歩くことにしたのである。これに、玉蓮が加わった。  池の東側にある飛霜殿から、浮き島に掛かった石の橋を渡り、西側に出たところであった。  すでに、九竜殿や、芙蓉湯は、その内部を見てきた。  芙蓉湯には、なんとまだ細ぼそと湯が流れ込んでいて、湯舟に掛けられた白玉石の橋も残っていた。  九竜殿にあったと言われている白玉石の魚や竜は、すでに盗まれて、そこにはもうなかったが、芙蓉湯の白玉石の蓮の花は、半分ほどがまだそこに残っていた。  盗人が、それを持ち出そうとした際に、割りそこねたものらしかった。  そういったものを見てから、空海たちはこちらへ渡ってきたのである。  こちらの西側には、宮女たちが湯あみする長湯がある。  この長湯の屋《やかた》は、数十間あった。  多くの女たちが、同時に湯あみするため、湯舟は広く作られている。  十間四方ほどの大きさがあった。  そこを見ておこうと、白楽天が言って池を渡ったのである。 「以前に来た時は、まだ、中を見てはいなかったのでな」  白楽天はそう言った。  白楽天は、なかなか、心の裡《うち》を見せぬ男であった。  もともとは、この華清宮にゆくと言い出したのは、白楽天であった。  その話を聴いて、空海がこの宴を思いついたのである。  白楽天は今、「長恨歌《ちょうごんか》」という長い詩を書こうとしている。  楊貴妃——楊玉環と玄宗皇帝を題材にした詩である。  白楽天はその詩を、なかなか完成させることができないでいた。  その詩想を得るために、白楽天は華清宮へゆくことを考えたのである。  思えば、馬嵬駅《ばかいえき》へ、空海と逸勢が白楽天と共に出かけたのも、似たような理由からであった。  東側に比べ、西側の建物は、崩れ方がひどかった。  壁の一部は落ち、そこからも中に入ることができそうであった。  その前に立ち、崩れかけた壁に手をあてた白楽天は、顔をしかめて、空海たちを振り向いた。 「妙な臭いがする」  白楽天は言った。        (五)  その臭いを、空海と逸勢も嗅《か》いでいた。  嗅いだ途端に、顔をそむけたくなるような臭い。  腐臭であった。  それは、明らかに、崩れた壁の向こうから漂ってくる。建物の中に、その腐臭を発するものがあるということだ。  腐った何かが、ただひとつ、その中に転がっている——そういう臭いではなかった。その臭いには、厚みがあった。  嗅いでいる臭いそのものは、まだ、わずかな量である。にもかかわらず、それは、夥《おびただ》しい量の臭いの、ごく一部であることがわかる。  わずかな臭いの背後に、どれだけの量のその臭いの元となるものがあるのか、それがわかるのである。  空気の層の一部に、微《かす》かにその臭いが溶けているといった類《たぐい》のものではない。  首筋の体毛が、そばだってきそうな臭いであった。 「おい、空海——」  逸勢が言った。  空海は、逸勢を見やり、それから白楽天と眼を合わせた。 「入ってみましょう……」  空海は言った。  崩れた壁をまたいで、まず空海から建物の中に入った。  白楽天、逸勢が後に続いた。  中に入った途端に、腐った汚物の中に、そのまま顔を突っ込んだような臭いが、三人の鼻を突いた。  空気というよりは、固形物のような臭気が、鼻の中に入り込んできた。  臭いの汁が眼にかかったように、逸勢は眼を閉じ、何度も眼瞼《まぶた》を拳でぬぐった。  中は、薄暗かった。  明りとりのための窓や、壁の崩れた箇所から入り込んでくる光があるから、それでも、内部の様子は見てとれる。  眼が慣れてくると、細部が見えてきた。  足元に、崩れた壁の一部——土の塊《かたま》りが落ちている。  すぐむこうに、床の面から下に掘り下げて設けられた石作りの湯舟が見える。  広い湯舟であった。  百人を越える女官たちが、入ることのできる浴槽である。  盗まれたのか、他へ運ばれたのか、湯殿を仙界に見立てて作られたと言われている様々な飾りや、趣向の品は、すでに無い。  瑟瑟《エメラルド》や沈香を積み重ねて作られた東海の霊山蓬莱山が湯舟の中央にそびえているはずであったが、それも、無い。  崩れた壁を通して外から差してくる淡い光が、ほの暗い湯殿を照らし、瓦礫《がれき》をそこに浮きあがらせている。  かつては、ここに満ちていた湯の匂いはどこにもない。源泉からここへ湯を運んでくるはずの湯の道が、どこかで壊れてしまっているのであろう。  そこには、ただ、濃い腐臭がたちこめているばかりである。  三人は、瓦礫をよけながら、足を進ませていった。  浴槽の縁に近づくにつれて、その内部がだんだんと見えてくる。  湯舟の底に、黒っぽい土がうずたかく盛りあがっている。ところどころに、白っぽい土もあった。広い湯舟の半分近くまで、何者かが土を運んで埋めようとしたらしい。  先頭を歩いていた空海が、無言で足を止めた。  空海の眼が、湯舟の中に注がれていた。  背後から、おそるおそる歩いてきた逸勢が、空海の横に並んだ。 「どうしたのだ、空……」  空海の名を呼びかけた逸勢が、途中で声を止めていた。  逸勢の身体が、空海の横で硬直した。  逸勢にやや遅れて空海の横に立った白楽天も、それに気づいたようであった。  数十間ある長湯の屋《やかた》の床半分以上を占める湯舟の底を埋めつくしたものは、土ではなかった。  それは、犬の屍骸《しがい》であった。  いったい、何頭の犬の屍骸が、ここに捨てられているのか。  百頭、二百頭ではない。  千頭、二千頭——  それ以上の犬の屍骸が、湯舟の底を埋めていたのである。  その数、数千頭——  しかも、奇怪なことに、どの犬も、皆、首が失《な》かった。  首は、その湯舟の中にあることはあったのだが、いずれの首もその胴から切り離されていたのである。  その犬の屍骸が腐り、腐臭を発しているのである。  よく見れば、牛や馬、山羊《やぎ》などの屍体も犬の屍体に混ざって転がっている。  犬や、牛や、馬の屍骸の身の一部は、喰われたのか啖《くら》われたのか、それとも腐って肉が落ちたのか、白い肋《あばら》や内臓が見えているものもあった。  さらに不気味なことに、その犬の屍骸の間に、これもまた数えきれぬほどの量の蛇の屍骸が見える。  いや、蛇の中には生きているものもあり、犬や、牛や、馬の屍骸の肋《あばら》の間から肉の中に潜り込み、うねうねと動いているものもあった。  逸勢の上下の歯が、口の中で触れ合って、小さくかちかちという音をたてていた。  禍《まが》まがしい光景であった。  何らかの呪法《ずほう》が、ここで行なわれたのだ。  いったい、どのような呪法か。 「蠱毒《こどく》か……」  空海がつぶやいた。 「蠱毒か、それに近い呪法が、ここで行なわれたようですね——」  長安城内だけではなく、ここでも呪法が行なわれていたのである。  白楽天の眼が、重い光を宿したようにぎらぎらと光っていた。眼球に、赤い血管が浮いている。 「これだったのですか……」  白楽天が、つぶやいた。 「これだったのですね」  白楽天は、もう一度言った。  白楽天は、睨むように、累々《るいるい》と重なった、犬の屍骸の山を見つめていた。 「これに、あなたや、わたしは関わっていたのですね……」 「はい」  空海が、うなずいた。 「あなたが、関わっているのが何であるか、わたしにはわかりませんでした。もちろん、今も、わかってはおりません。しかし、これだったのですね」 「——」 「あなたが……いや、あなたや、わたしが関わっているのは、これほどのものだったのですね」 「はい……」  空海がまたうなずいた。  白楽天が、深く息を吸い込んで、何か言おうと、数度口を動かしたが、声は出てこなかった。 「何ということだ、空海……」  逸勢は、湯舟を覗き込みながら言った。  顔をそむけたくとも、そむけられない。 「知っていたのだろう……」  逸勢は言った。 「おまえ、ここで、こういうことがやられているのだと、わかっていたのだろう?」 「ああ……」  空海がうなずいた。 「おまえの言う通りだ、逸勢よ」  空海の額には、小さく汗の玉が浮いていた。 「おれには、わかっていた」  空海は、低い声でつぶやいた。 「だが、しかし……」  空海は、小さく首を左右に振り、 「これほどのものであったとは……」  そう言った。  空海は、唇を噛んだ。 「逸勢よ……」 「何だ……」 「おれは、もしかしたら、とんでもないことをしてしまったのかもしれない」 「とんでもないこと?」 「玉蓮姐さんたちを、ここへお誘いしてしまったことだ」 「……」 「おれはいい。もともと、楽天先生とここには来るつもりでいたのだ。しかし、玉蓮姐さんや、楽士や料理人《まかない》の方々はそうではない。おれが誘ったからここへやってきたのだ……」 「……」 「ここは、おれの考えていた以上に危険な場所かもしれぬ」 「空海……」  逸勢が言った。  空海は、固く唇を閉じた。  そこへ—— 「空海さん」  白楽天が、声をかけてきた。 「教えていただきますよ」  白楽天が、空海を見た。 「これほどのものを見たのです。わたしたちが、今関わっていることを、あなたはわたしに語らねばなりません」 「——」 「以前、あなたと皇帝の周囲におこっている奇怪なことについてお話ししたことがありました」 「はい」  空海がうなずく。 「その時、あなたは言っておられました。いずれ、話ができるような時が来れば、それを語って下さると——」 「はい」 「今が、その時です」 「——」 「これは、今、わたしたちが眼にしているこの光景は、皇帝と関わる件なのですね」 「はい」 「楊玉環の件とも、馬嵬駅でわたしたちが出会った奇怪なできごととも、そして今回、この華清宮にやってきたこととも関わっているのですね」 「はい」 「それは、何なのですか」 「——」 「今こそ、あなたは、それをわたしに語らねばなりません」 「——」 「そして、わたしは、あなたからそれを聴かせていただかねばなりません」 「——」 「あなたが、何を考えているのかはわかりませんが、わたしは、あなたが今夜、ここでやろうとしていることに協力いたします。話を聴いたからといって、それをやめろとは申しません。どのような話を聴かされようと、わたしは、ここから逃げ出すつもりはありません。ですから、それを教えていただきたいのです」  言いながら、白楽天の声が、高くなってゆく。声が高くなってゆくにつれて、白楽天の気持がたかぶってゆく。 「あなたは、それを、言わねばなりません。何故なら、おそらく、これは、わたしの生命にも関わってくることでしょう。これを見れば、それがわかります。いえ、わたしの生命だけではありません。これは、今、この華清池にいる全員の生命にも関わってくるかもしれないことでしょう……」  白楽天は言った。 「はい」  覚悟を決めたように、空海はうなずいた。 「楽天さん、あなたのおっしゃる通りです。あなたは、わたしが知っていることを知る権利があります」  空海は、白楽天に向きなおった。  正面から、空海は白楽天を見た。 「あなたが今言われたように、これは、今皇帝の身にふりかかっていることに関わることであり、この唐王朝の秘事に関わることです。今、ここで、ゆっくりとその話をしていられるほど短い話ではありませんが、必要なことだけは、あなたにお話しいたします」 「頼みます」 「しかし、その話をするのに、ここはふさわしい場所ではありません。まず、この長湯の外に出ましょう」        (六) 「楽天さん、実は、あなたと、もうひとり、このことについてはお話しせねばならないお方がおります」  長湯の外に出て、空海は言った。 「どなたなのですか、そのお方は?」  白楽天は訊いた。 「胡玉楼の玉蓮姐さんです」  空海が言った時、 「おい、空海、よいのか」  逸勢が、ふたりの会話に割って入ってきた。  逸勢が�よいのか�と言ってきたのは、唐王朝の秘事に関わることを、そうかんたんに他人に教えてしまってよいのかという意味であった。  これは、秘事ではないか——と逸勢の顔に書いてある。 「よいさ」  空海は、躊躇《ちゅうちょ》することなく答えていた。 「ここで今、我らが玉蓮姐さんに話したところで、何がどう変わるというものではない」  あっさりと空海は言った。 「し、しかしなあ、空海。その通りだとは思うのだが——」  逸勢の顔には、自分でも自覚しきれない不満そうな色がある。  日本からやってきた留学生の身でありながら、唐王朝の秘事に関わっている——それがある意味では逸勢の誇りであった。  長安にやってきて、萎縮《いしゅく》しかけていた逸勢を支えてきたのは、他の誰も知らない重大事に、自らが関わっているという意識であった。  秘事であればこそ。  それがこうもあっさりと他人の知ることになってしまうというのは—— 「おれはよい、おれは、きちんと覚悟をしてここへやってきたのだ」  もどかしげに、逸勢は言った。  自分でもうまく説明しきれないものが、逸勢の心の裡にある。  空海は、逸勢を見て、微笑した。  逸勢が、眼を伏せる。 「なあ、逸勢よ」  空海は言った。 「よいではないか」  空海が、逸勢の肩を叩いた。 「玉蓮姐さんは、口の軽い方ではない。それに、御自分の生命に関わることなのだ。ここまでお誘いしておいて、お帰りいただくのなら、少なくとも玉蓮姐さんには、お話ししないわけにはゆくまいよ」 「帰すのか、玉蓮を」 「ああ、そうしていただこうと思っている」 「楽人や、料理《まかない》の人間たちも」 「ああ」 「では——」 「ここは、おれたちだけということさ」  空海は言った。        (七) 「お話ししたいことがあります」  空海は、そう玉蓮に切り出した。 「何です? そのお話っていうのは?」  玉蓮は、息をはずませながら言った。  料理人《まかない》の男たちや、楽士の人間たちの間をいそがしく動きまわっていたからである。それに、玉蓮は空海に声をかけられるのが嬉しいらしい。 「その話の前に、ぜひ見ていただきたいものがあるのです」 「見ていただきたいもの?」 「見ていただければわかります。その上でお話をしたいのです」  空海の口調に、いつにない真剣な響きを感じとって、玉蓮も真顔になった。 「どうすればよろしいのですか」 「こちらへ」  空海は、玉蓮を長湯の方へ誘った。  そこで、白楽天と逸勢が待っていた。        (八)  長湯の外に出てきた玉蓮の顔は、青褪《あおざ》めていた。  もともと白い肌から血の気がひいて、青白く見えるほどであった。  胸に手をあてて、玉蓮は、しばらく吐き気をこらえているようであった。  無理はない。  男の空海たちでさえ、顔をそむけたくなるようなものを、玉蓮はいきなり見せられたのである。  それに、臭いもひどかった。  玉蓮に見せるためとはいえ、もう一度あそこへ入ってゆくのは、かなりの覚悟を必要としたのである。 「空海先生……」  玉蓮は、顔をあげて空海を見た。 「これはいったい何なのです」 「それを、これからお話し申しあげようというわけなのです」 「わかりました。話はうかがわせていただきますが、この場所はかんべんして下さいな。一年分のお給金を落としたとしても、もう一度あの中に取りにゆく気はしませんから——」 「もちろんです」  空海は、少し先の池の端を視線で示し、 「あちらに、池見の楼があります。あそこへ行きませんか」  そう言った。  空海の言う通り、池の端に、小さな楼が立っていた。  青瓦《あおがわら》の屋根からは草が生え、柱の朱の色も褪せているが、四人の人間がそこで話をするには充分な広さがありそうであった。 「白楽天さんにも、そこでお話しいたしましょう」 「では、あそこで」  白楽天も、うなずいていた。 「ゆっくり細かくというわけにはいきませんが、必要なことは全てお話しするつもりです」        (九)  空海は、自ら言った通り、全てを語った。  さすがに、王叔文《おうしゅくぶん》が怪しいということは上手にはぶきはしたが、この件には五十年前の安史の乱からの因縁があることも、安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》——晁衡《ちょうこう》の手紙のことも、高力士《こうりきし》の手紙のことも語った。  そして、現在、順宗皇帝が呪詛《じゅそ》されていることも隠さずに空海は語ったのであった。  白楽天も、玉蓮も、時おり短い問いかけはしたものの、ほとんどを空海の語るにまかせて、黙ったまま話を聴いていた。 「これが、今、おふたりにお話しできることの全てです」  空海が語り終えても、しばらくは、白楽天も玉蓮も口を開かなかった。  大理石でできた椅子が、壁際に設けられていた。  壁を背にしてそこに座れば、全員が近い距離で顔を向きあわせることになる。  壁は腰高で、そこから上は、六本の柱だけで屋根を支えている。  そこからは、池がよく見渡せた。  その池から吹いてきた微風が、楼の中の四人の頬を撫でてゆく。 「そうでしたか」  最初に口を開いたのは、白楽天であった。  白楽天は、深く息を吐き、 「よく話してくれました、空海さん」  覚悟を決めたような声でうなずいた。  白楽天が、再び沈黙するのを待ってから、 「つまり空海先生、ここに、順宗様を呪詛しているそのドゥルジとかいう尊師がいるかもしれないということなんですね」  玉蓮が言った。 「そうです」  空海はうなずいた。 「それで、空海先生は、どうして、わたしに今、この大事を打ちあけてくれたんですか」 「それは——」  空海が言おうとするのを、玉蓮がさえぎって、 「わかってます。あたしに、ここから帰るように言うつもりなんでしょう」  そう言った。 「はい」  空海がうなずいた。 「空海先生、逸勢先生、そして白楽天先生はこちらに残るおつもりなんですね」 「はい」  空海が、またうなずいた。 「ここが、危険なところだと空海先生は考えていらっしゃるんでしょう」 「ええ」 「でも、ここへあたしたちを連れてきたってことは、はじめは、それほど危険な場所とは思っていらっしゃらなかったということじゃありませんか」 「その通りです」  空海はうなずいた。  確かに、ドゥルジ尊師は、これまでに何人もの人の生命を殺《あや》めてきている。  しかし、それは、自分の敵に対してであった。  あるいは、自分を裏切った人物に対してであった。  関係のない人物は、殺したりはしていない。  さらに言うならば、もし本気でドゥルジ尊師が自分たちを殺すつもりであれば、その機会はこれまでに何度もあったはずだ。  しかし、それをしていない。  それに、ここに来るにあたっては、何日も前からゆくと言っている。  ドゥルジ尊師が、それに気づかぬはずはない。  もし、来て欲しくないのなら、途中で邪魔が入るはずだ。あるいは、呪詛の場所を別に移すであろう。  逆に言うならば、この華清宮にドゥルジたちがいると考えたのならば、すぐに手を打たねばならないところだ。逃げる隙を与えずに、討手《うつて》をさし向ければそれでことたりる。  そこを、わざわざ、時間を稼いで、ゆくと告げているのである。これは、ある意味では、空海がドゥルジ尊師に味方をしていることになる。ゆくから逃げろと、そう言っていることになる。  少なくとも、空海が敵でないとの印象は、向こうに伝わるはずである。  華清宮に出かけていって、誰もいないということはあるかもしれないが、もしドゥルジ尊師たちがいたとしても、いきなり危険なことを仕掛けてくるはずがない。  それが、空海の読みであった。  誰もいないのであれば、楽しい宴の一夜をすごすだけのことであり、もしドゥルジ尊師たちが逃げずにここへ残っているのなら、それは危険を意味するものではない——そう空海は考えていたのである。  もうひとつ——  空海は、妙な自信があった。  それは、自分が彼らに好かれている——そういう自信であった。  何故か、自分は丹翁や、そして黄鶴——ドゥルジ尊師たちに好かれているらしい。  そう思っていたのである。  だが、ここで長湯の光景を見た時に、これは、自分が考えているよりも、遥かに危険な場所に足を踏み込んでしまったのではないか——そう思ったのであった。  自分は、甘かったのではないか。 「そういうわけなのです」  空海は、それを、玉蓮に語った。 「でも、空海先生たちは、ここに残るおつもりなんでしょう?」  玉蓮は言った。 「はい」 「ならば、あたしは、ここへ残ります」 「——」 「危険だとはっきりわかっているならともかく、空海先生がここに残るんなら、あたしもここに残りますよ」  玉蓮の顔色が、もう、もとにもどっていた。 「あたしは、空海先生の最初の判断を信じますよ。はばかりながら、胡玉楼の玉蓮姐さんは、これまでどんなお座敷だって、途中ですっぽかしたりしたことはありませんからね——」 [#改ページ]    第三十六章 宴の客        (一)  月が出た。  見あげれば、飛霜殿《ひそうでん》の上の天に、青い月が昇っていた。  満月であった。  春にしては、おそろしく透明な空に、宝玉のごとく月が浮いている。  四つの篝《かが》り火《び》は、赤々と鉄籠《てつかご》の中で燃えていた。  灯火や篝り火がなくとも、池の水面に跳ねる魚の姿も見えそうなほど、月影が華清宮《かせいきゅう》全体に差している。  石と石の間から春の若草が萌《も》え出ている石畳の上に、胡《こ》の国から渡ってきた絨毯《じゅうたん》を敷いている。マハメットのところから空海が借りてきた、豪奢《ごうしゃ》な絹の波斯《ペルシア》絨毯である。  それが、三枚。  そこに座しているのは、四人。  倭国《わこく》から渡ってきた留学僧沙門《るがくそうしゃもん》空海。  同じく倭国から渡ってきた儒学生| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》。  校書郎《こうしょろう》の役人にして詩人|白居易《はくきょい》、字《あざな》を楽天《らくてん》。  胡玉楼《こぎょくろう》の芸妓、青い眸《め》をした玉蓮《ぎょくれん》。  この四人が、互いに顔を見合うように輪になって座している。  楽士と、料理人《まかない》の者たちは、下の村まで降りている。  大猴《たいこう》と子英《しえい》と赤《せき》が、彼らにつきそっている。  大猴たちは、役目が済んだらまたここまでもどってくることになっている。  食事と、酒の用意はすでにできている。  大皿に、鳥肉や、豚肉を揚げたものが盛られ、牛肉と野菜を炒《いた》めたもの、燕《つばめ》の巣など、様々な珍味が座の中にある。空海が李老人から手に入れた茘枝もある。  酒器も思いおもいのものを、それぞれが使用していた。  空海が使っているのは、波斯《ペルシア》の瑠璃《るり》の盃であった。  逸勢が夜光盃。  白楽天が玉の杯。  楽器は、楽士たちが残していったものがある。  笙《しょう》がひとつ。  五弦の月琴《げっきん》がひとつ。  琵琶《びわ》がひとつ。  編鐘《へんしょう》がひと組。  皆の酒や食事の世話をしながら、時おり玉蓮が月琴を抱えては、それをほろほろと弾く。  ゆるゆると酒を飲んでいる。  いくらか酒が入ったためか、逸勢の頬が、微《かす》かに赤みを帯びている。 「空海さん」  白楽天が、右手に玉の杯を持ちながら言った。 「はい」  空海が、瑠璃の盃を手にして、白楽天を見やった。  篝り火の炎の色が、白楽天の顔に揺れている。 「わたしが、もともとはここへあなたをお誘いしたのですが、その時は、このような趣向のことは思ってもおりませんでした」 「いかがですか」 「ここで、ひと晩、あなたと酒が酌《く》みかわせるのは、嬉《うれ》しいことです」  白楽天は、杯の酒を口に含み、ゆっくりとそれを味わうように飲んだ。 「今晩、何か起こりましょうか」  白楽天が問う。  空になった白楽天の杯に、玉蓮が酒を注ぐ。 「さあ——」  空海は、溜め息ともつかぬ声で天を仰ぎ、 「起こるかもしれません。起こらないかもしれません」  白楽天に視線をもどした。 「いや、起こっても起こらぬでも、どちらでもよいのです」 「——」 「わたしは、先ほど、たいへん奇態なることをあなたからうかがいました」 「はい」 「貴妃様が、馬嵬駅《ばかいえき》で、実は死んではいなかったことも、ここで再び甦《よみがえ》られたということも、わたしには驚きでした。この地でかようなことがあったとは——」 「思えば、玄宗《げんそう》様と貴妃様の全ての始まりであったのが、この華清宮——」 「おふたりの、一番楽しかった日々をすごされたのがこの華清宮なら、その最後もこの華清宮……宴を催すに、これほどふさわしい場所はないでしょう」 「最後というのは、五十年前のことでしょうか。それとも、わたしたちのいる今この……」 「わかりません」  静かに、白楽天は首を左右に振った。 「わたしは、今、玄宗様と貴妃様、おふたりが一番楽しかった日々をすごされたのがこの華清宮と申したばかりなのですが……」 「なんでしょう」 「貴妃様が、お幸せであった時期が、果たしてあったのでしょうか」 「どうでしょう」 「それも、わからぬことです。ただわかっているのは——」  そこまで言って、白楽天は、言葉を捜すように声をとぎらせた。 「わかっているのは?」 「いえ、わかっているというのではないのですが、ものを書くというのは、何かとても罪深いことのような気もしているのです」 「——」 「貴妃様——楊玉環《ようぎょくかん》という女性が、幸せであったかそうでなかったか、そんなことは他人にはわからぬことです。当人であってもわからない。空海さん、逸勢さんでもいい。あなたは、御自分のこれまでの生涯を振り返って、幸せであったか、不幸せであったか、どちらだと答えることができますか」  逸勢は、白楽天に問われ、 「わかりません」  首を左右に振った。 「そのわからぬことを、わたしは書こうとしているのです。それを書くというのは、貴妃様の生きた時間に対して、まことに罪深いことをしようとしているような気がするのですよ」  白楽天は、玉蓮を見やり、 「筆を——」  杯を置きながら言った。  すでに、筆と硯《すずり》の用意はできている。  白楽天は、黙したまま墨を摩《す》りはじめた。  その間、誰も口を挟まなかった。  空海も逸勢も、静かに、酒を含み、墨を摩る白楽天を見つめていた。  玉蓮が弾く月琴の音だけが、ほろほろと響く。  やがて、白楽天が懐から紙を取り出し、墨に浸した筆を手にとった。  左手に持った紙に、白楽天が何やら書き出した。  周囲には、牡丹《ぼたん》の花が咲き乱れている。  その上に、青い月光が差している。  やがて—— 「できました」  そう言って、白楽天は筆を置いた。  紙片を持って、白楽天は、自ら書いた詩を吟じはじめた。  さびさびとした声であった。  その声に、即興で、玉蓮が月琴を合わせてゆく。 [#ここから1字下げ]  両鬢千茎新似雪  十分一盞欲如泥  酒狂又引詩魔発  日午悲吟到日西  両鬢《りょうびん》の千茎《せんけい》 新たなること雪に似たり  十分《じゅうぶん》の一盞《いっさん》 泥の如くならんと欲す  酒狂 又 詩魔《しま》を引きて発《はつ》す  日午《にちご》 悲吟《ひぎん》して 日の西なるに到る [#ここで字下げ終わり]  白楽天の声が、月光の中を朧朧《ろうろう》と昇ってゆく。  両鬢の千本の髪は白くなって雪のようだ  杯に満たした酒を飲み泥の如くに酔おう  もの狂おしく酔えばまた心の裡《うち》より詩魔を呼びおこす  昼から悲吟しはじめてもう日は西に傾いてしまった  そういう意の詩であった。  白楽天の声がとぎれた時—— 「むうう……」  感に堪《た》えぬといった声をあげたのは、逸勢であった。  まるで、もう、白楽天自身が、老いてしまった自身を吟じているかのようである。  すぐにまた、白楽天が筆をとった。  持った紙にまた筆を走らせてゆく。  白楽天の内部にある、詩想の扉が開いてしまったかのようであった。  とめようのないものが、今、白楽天の心の中から湧き出しているのがわかる。  その湧き出すものを、そのまま白楽天が紙に書きとめてゆく。 [#ここから1字下げ]  貌随年老欲何如  興遇春牽尚有余  遙見人家花便入  不論貴賤与親疏  貌《かたち》は 年に随《したが》って老ゆ 何如せんと欲す  興《きょう》は 春に遇《お》うて牽《ひ》かれ 尚《な》お余り有《あ》り  遙《はる》かに 人家を見て 花あれば便《すなわ》ち入り  貴賤《きせん》と 親疎《しんそ》とを 論ぜず [#ここで字下げ終わり]  また、白楽天が吟じた。  玉蓮が、その声に合わせて月琴を弾く。  逸勢は、酔いと炎のためばかりでなく、怒ったように顔を赤くしていた。  深い感情が、身の裡に湧きあがってくる時、この男は、このような顔つきになる。  白楽天の声が途切れた後、しばらく鳴っていた月琴がやんだ。  玉蓮が筆を手にとり、 「空海先生も何か——」  空海に向かって筆を差しだした。 「では——」  空海は、筆を受けとり、無言で紙に何やら書き出した。  やがて——  その紙を手にして、静かに自ら書いたものを吟じはじめた。 [#ここから1字下げ]  一念の眠《ねむり》の中《うち》に千万の夢あり  乍《たちま》ちに娯《たの》しみ乍ちに苦しんで|※[#「竹かんむり/璃のつくり」、173-1]《はか》ること能《あた》はず  人間と地獄と天閣《てんかく》と  一《ひと》たびは哭《こく》し一たびは歌つて幾許《いくそばく》の愁《うれへ》そ  睡《ねむり》の裏には実真《じっしん》にして覚《さ》むれば見えず  還《かへ》つて知んぬ、夢の事は虚狂《こきゃう》にして優なることを  無明《むみやう》の暗室の長眠《ちゃうみん》の客  世の中に処《ゐ》て多かる者は憂《うれへ》なり  悉地《しつぢ》の楽宮《らくぐう》も愛し取ること莫《なか》れ  有中《うちゅう》の牢獄には留まる須《べ》からず  剛柔気|聚《あつ》まれば浮生《ふせい》出づ  地水縁窮《ちすいえんきは》まれば死して休するが若《ごと》し  輪位《りんゐ》と王侯と卿相《けいしゃう》と  春は栄え秋落つ、逝《ゆ》くこと流るるが如し [#ここで字下げ終わり]        (二)  空海が吟じ終えると、月琴を弾いていた玉蓮が手を止め、 「素敵なお声ね、空海先生」  そう言った。 「空海先生、それをちょっと拝見させていただけますか」 「いいですとも」  空海が、記したばかりの詩の書かれた紙を差し出すと、玉蓮は月琴を絨毯の上に置いて、白い指先でそれを受け取った。  灯火と月明りにかざしながら、玉蓮は空海の書いたものを読んだ。  やがて—— 「ねえ、空海先生——」  紙片から顔をあげて、玉蓮は言った。 「わたし、これを踊ってみたいんですけれど——」 「おう、それは嬉しいことですね。わたしも玉蓮さんの踊るのを拝見したい」  空海がうなずけば、 「それもなかなかの趣向ぞ、玉蓮」  白楽天は言った。  もともと、白楽天は古くからの胡玉楼のなじみであり、玉蓮とのつきあいは、空海よりも長い。 「空海先生、琵琶か月琴は、お弾きになれますか」 「多少のことはできますよ。何なら、玉蓮さんほどではありませんが、月琴で手を入れましょうか」 「あら、空海先生の月琴で踊ることができるなんて、嬉しいわ」 「では、わたしが琵琶を弾きましょう」  白楽天が言った。 「楽天先生も?」 「ああ。多少のことはできる」  白楽天が言った。 「ならば、わたしが笙を——」  橘逸勢までが、笙を手にとった。 「まあ、逸勢さんまで——」  当然ながら、宮中の基礎教養として、橘逸勢も、ひとつふたつの楽器はいじることができる。  笙ならば、人並みには吹くことができた。  もともと、この頃日本国に伝わってきた楽器は唐を経由してきたものであり、基本的な構造も奏法も、唐と日本でそれほど変わるものではない。  四人で、音と声と振りを合わせ、簡単なだんどりを決めた。  玉蓮は、どこからか絹の布を取り出して、それを首に掛けて立った。  玉蓮の姿が、しんしんと天から注いでくる月光の中に立った。  空海が、ほろんと月琴の絃《いと》の一本を鳴らすと、その音の余音が夜気《やき》の中に残っているうちに、逸勢が両手に持っている笙から、音が伸び出てきた。  笙の音が、月光の中を天に昇ってゆく。  月の光に共鳴して、笙の音の色までが見えてくるようである。  笙の音が、月の光の中できらきらと輝きながら天に昇ってゆく様《さま》が、眼に見えるようであった。  たっぷりと笙の音が天に昇ったところで、  ほろん、  と空海が月琴の絃を震わせた。  空海の月琴が、逸勢の笙に和した。  宙《ちゅう》から、ほろほろと、大小の玉《ぎょく》がこぼれ落ちてくるように、空海の月琴が鳴る。  それに、  嫋《じょう》、  と白楽天が、琵琶を重ねた。  天地《あめつち》が、楽の音に和した。  天地が動いた。  同時に、空海が自らの詞を詠じてゆく。   ※[#歌記号、1-3-28]一念の眠《ねむり》の中《うち》に    千万の夢あり  それに合わせて、玉蓮の身体が動いた。  ゆるりと足が前に踏み出され、爪先が絨毯を柔らかく踏んだ。  右手がゆるゆると月光の中を天に昇ってゆき、宙でひらりと返った。   ※[#歌記号、1-3-28]|乍《たちま》ちに娯《たの》しみ    乍ちに苦しんで    |※[#「竹かんむり/璃のつくり」、177-6]《はか》ること能《あた》はず  玉蓮が舞いはじめた。  白い指先が、月の光をひろうように宙をなぞってゆく。  空海のよく通る声が、天を昇ってゆく。   ※[#歌記号、1-3-28]人間と地獄と天閣《てんかく》と    一《ひと》たびは哭《こく》し    一たびは歌って    幾許《いくそばく》の愁《うれへ》ぞ  空海の声が、朗々と逸勢の耳に届いてくる。  逸勢の眼からは涙が流れている。  逸勢自身にも、ふいにその眸《ひとみ》から流れ出した涙の意味がわかってはいないらしい。  ただ、涙は、逸勢の眼から、あとからあとから溢れ出てきた。  いったいどうしてしまったのだ、このおれは——  逸勢の顔は、そう言っているように見える。  ふいに自分の裡《うち》から溢れてきた感情に、とまどいながらも身をまかせているようにも見えた。  詠じて、月琴を弾くのは、遥か倭国から一万里の海を渡り、一万里の道をこの唐までやってきた、沙門空海。  それに笙を合わせているのは、倭国の留学生橘逸勢。  ふたりと共に、琵琶を弾《だん》じているのが、後に日本国で最も有名な唐の詩人となる白楽天。  そして、その三人の前で舞っているのが、胡人——蒼《あお》い眸《め》の玉蓮である。  そして、この四人がいる場所は、玄宗皇帝と楊貴妃とが日々を過ごした華清宮である。  まことに奇態なる運命の妙と言おうか。   ※[#歌記号、1-3-28]|睡《ねむり》の裏には実真《じっしん》にして    覚《さ》むれば見えず  その時——  四人の背後にあった編鐘《へんしょう》のひとつが、鳴った。  幾つもある鐘のうちの一番小さい鐘であった。  玉蓮が動くのをやめて、編鐘の方を見やった。  楽の音がやんでいた。  空海、逸勢、白楽天が、後方を振り返った。  誰の姿もない。  そこには、編鐘が置かれているだけであった。  編鐘というのは、様々な大きさの銅の鐘《かね》を吊るした楽器である。小さい鐘を叩けば高い音が、大きい鐘を叩けば低い音がする。  今回用意してきたものは、全部で三段になっており、それから下がっている鐘は、全部で二十四個あった。これで、二十四音階の音を出すことができる。  しかし、ひとりでに鳴るようなものではない。  編鐘を演奏するための槌《つち》があり、今回も当然その槌は用意されている。しかし、その槌は、下に置かれたままだ。誰かが使ったような気配はない。  と——  また鳴った。  人の姿がどこにも見えないのに、皆が見ている中で、今度は一番大きな鐘が鳴ったのである。 「どなたか、おいでになったようですね」  空海は言った。 「おい、く、空海——」  逸勢が、怯《おび》えた声を出した。 「心配はいらぬ」  空海は逸勢に向かって言った。  日本語である。 「いつでも、おこし下され——」  どこへともなく、空海は言った。  逸勢が、さらに何かを言いかけるのを遮るように、 「さあ、我らは我らの宴《うたげ》を続けようではないか」  空海は言った。  空海の唇には、楽しそうな笑みが浮いていた。 「心配はいりません。続けましょう」  今度は、唐語で言った。  月琴の弦を鳴らして、   ※[#歌記号、1-3-28]|還《かへ》つて知んぬ    夢の事は虚狂《こきゃう》にして    優《ゆう》なることを  詠《うた》いはじめた。  玉蓮がまた舞い始める。  白楽天の琵琶が、  嫋、  と鳴る。  逸勢がまた笙を吹きはじめた。  それに和するように、後方で、編鐘が鳴りはじめる。   ※[#歌記号、1-3-28]無明の暗室の    長眠の客    世の中に処《ゐ》て    多かる者は憂《うれへ》なり  玉蓮が、月光の中でゆるゆると舞う。  周囲には、月光の中で牡丹の花が群れて咲いている。  編鐘の音が和して、もう、そこに人がいないのに鳴るということが、逸勢にも気にならなくなっていた。  やがて——   ※[#歌記号、1-3-28]春は栄え    秋落つ    逝《ゆ》くこと    流るるが如し  空海の朗々と詠いあげる声がやんだ。  その後も、しばらくその声と楽の音の余韻の如きものが月光の中に残って、微細な瑠璃《るり》のかけらが舞うように、しばらくその宙空にたゆたっていた。  いつの間にか、背後で鳴っていた編鐘の音もやんでいた。  その時—— 「あら、あれを——」  玉蓮が小さな声をあげた。  玉蓮が指差したのは、池の方角であった。  水面のやや上の宙空《ちゅうくう》に、朧《おぼろ》な鱗光《りんこう》を放って、浮かんでいるものがあった。  菩薩《ぼさつ》であった。 「千手観音《せんじゅかんのん》ではないか……」  低い声で言ったのは、白楽天であった。  池の上に、千手観音が浮いて、静かに千の手をゆらめかせながら、何かの舞いを舞っているのである。  その姿が、水面にも映っていた。 「美しい……」  今にも息すら細りそうな声で、逸勢が溜め息をついた。  その菩薩は、踊りながら、ゆっくりと月光の中を昇ってゆく。  まるで、天に消えていった楽の音の後を追うように、菩薩の身体も天に向かって浮きあがってゆく。  昇るにつれて、その姿がだんだんと薄くなってゆく。  薄くなって見えなくなってゆく。  池を見下ろす場所にいる空海たちも、見あげねばその姿を見ることができないほど、菩薩の姿は高い所まで昇っていった。  もう、月光なのか菩薩の姿なのかわからないほどだ。  そして、ゆっくりと月光に溶けるように、その姿は消えていった。 「わしからの礼じゃ」  声がした。  後ろからだった。  後方を、皆が振り向くと、編鐘の前に、ちんまりと、ひとりの白髪の老人が座していた。 「よい楽の音を聴かせてもろうたのでな」  老人が、灯火の灯りの中で、小さく笑った。 「おう……」  空海もまた、その老人を見て微笑した。 「丹翁《たんおう》じゃ」  老人は言った。  白楽天、逸勢、そして玉蓮を見やり、丹翁はその視線をゆっくりと空海にもどした。 「さて、空海よ」 「はい」 「まず、酒を一杯もらえぬか」 「喜んで」  空海は言った。        (三)  子英は、息をひそめながら、歩いていた。  前を進んでゆく、黒い大きな影を追っているのである。  西繍嶺《せいしゅうれい》の中であった。  左右から草が被《かぶ》さった細い道だ。  足元には、石が敷きつめられており、道が登りになれば、それは石段になる。  道の左右には、大きな松や楓《かえで》の老木が聳《そび》えている。  月明りが、頭上に被さった梢《こずえ》の間からこぼれ落ちてくるのでなんとか歩くことができるが、そうでなければとても前に足を踏み出せるものではなかった。  ともすれば、前をゆく黒い影を見失いそうになる。  前をゆく巨体の黒い影は、身が軽いのか、道に慣れているのか、歩くのが速い。  前をゆく黒い影——  それは、大猴であった。  子英は、大猴の後を尾行《つ》けているのである。  料理人《まかない》や、楽士たちを下の村まで送り届け、華清宮まで戻る途中であった。  赤を、村に残し、子英と大猴がもどることになったのである。  しばらく前——もう少しゆけばじきに華清宮かと思える場所までやってきた時——  前を歩いていた大猴が、何かに足をとられて、後方に転んだ。 「あたっ」  大猴は、尻を突いて頭を押さえた。  頭を打ったらしい。 「大丈夫か——」 「大丈夫」  大猴は、立ちあがり、頭を押さえていた手をはなして、二、三度頭を振った。  また、大猴が歩き出した。  その足取りが遅い。  ついに、大猴はそこに立ち止まった。 「どうしたのだ」  子英が訊《き》いた。 「思い出した」  大猴が言った。 「何を思い出したのだ」 「忘れていたことをだ」 「忘れていたこと?」 「ちょっと、もどらなければならなくなった——」 「どこへもどるのだ」 「下の村まで——」 「何のためにだ」 「たいしたことではない。先に華清宮に行っておいてくれ。用事を済ませたらもどる」 「だから、どういう用事なのだ」  子英には、見当もつかない。 「とにかく、先に行ってくれ。すぐにおれもゆく——」  大猴は言った。 「わかった」  どういう用事かはわからぬが、子英としたら、そう答えるしかない。 「すぐもどる」  そう言って、大猴は背を向け、これまで歩いてきた道を下りはじめたのであった。  上へ向かって歩きかけた子英は、すぐに足を止めた。  大猴のことが、妙に気になったのである。  どういう用事か言わないのも不思議だった。  この状況で、また下の村までもどらねばならぬどのような用事も想像できなかった。  あるいは、自分の知らぬところで、空海と大猴との間で何かの約束があったのかもしれない。その約束のことを、大猴は思い出したとでも言うのだろうか。  すぐに、子英は踵《きびす》を返し、大猴の後を追って、道を下り始めた。  確かに、自分は、空海の元で働くように言われてやってきた人間である。  しかし、それは、朝廷のためだ。  もともと自分は朝廷側の人間であり、空海の元に行かされたというのも、それは、柳宗元に言われたからである。  正確に言うなら、自分が真に仕えるべき相手は柳宗元である。  当然ながら、今回の華清宮行きについては、きちんと柳宗元に報告してある。  空海に口止めされているわけでもなかったし、それが自分の役目だからだ。  華清宮行きに関しては、柳宗元も大きな期待を抱いてはいなかった。  そこで、黄鶴《こうかく》が呪詛《じゅそ》をしているとはまず思えなかったし、していたとしても、空海がそこへゆくと告げているのである。いたとしても、黄鶴はもう逃げてしまっているであろう。  そこに黄鶴がいるとはっきりわかっているのならともかく、この段階で、空海の意志を無視して、役人や兵士を華清宮に向かわせるわけにはいかない。  空海が、高い能力を持っているのはわかるが、まだ、動くだけの材料が揃っていない。 「何か気のつくことがあればすぐに報告をせよ」  柳宗元が、子英と赤に言ったのはそのくらいであった。  柳宗元の言葉通りに、今、赤は馬を飛ばして長安に向かっているはずであった。  少なくとも、あの夥《おびただ》しい量の犬の屍骸《しがい》を見た以上は、すぐに報告はせねばならない。  華清宮で呪詛が行なわれていたことは間違いがないのだ。  今さらながら、空海という人間の勘のよさというか、能力には驚かされた。  空海には、赤は下の村に残ったと言うつもりであるが、あの空海ならば、自分か赤のどちらかが、長安に向かってもう馬を駆けさせていることくらいは、ちゃんとわかっているのではないだろうか。  もし、空海と大猴が、自分に隠して何事かをやろうとしているのなら、それは知っておかねばならない。  もしも、これが大猴の独断であったとしても、それは同じだ。  大猴がいったい何をやろうとしているのか、それは知っておく必要がある。あるいは、村にもどって、赤がいるかどうか、それを調べようとしているのではないか。  そういう考えが、子英の脳裏によぎったのである。  大猴が背を向けて下りはじめてから、まだいくらも時は過ぎていない。  尾行《つ》けるにはほどのよい距離のはずであった。  足音を忍ばせて下ってゆくと、すぐに大きな人影が月明りの中に見えた。  大猴であった。  その姿が妙であった。  歩いてない。  大猴が立ち止まって、横手の林の中を眺めているのである。  子英は、足を止め、身を低くして様子をうかがった。  大猴は、林の奥を見やったり、月光の中で足元を覗《のぞ》いたりしている。  落ちたものを捜しているといった風でもなく、誰か人を捜している風でもなかった。  ほどなく、大猴が左手の林の中に向かって足を踏み出したので、子英は、これまで大猴が何を捜していたのかを理解した。  大猴は、林の中へ入ってゆく道の入口を捜していたらしい。  灯りも持たずに、大猴は夜の林の中を歩いてゆく。  まだ、樹々の葉が夏ほどには生い茂ってない。  ほどほどには、月明りが林の中まで届いてくるのである。それをたよりに、大猴は歩いているらしい。  子英も、大猴を追って林の中へ入っていった。  華清宮の南にある西繍嶺の山中に向かっているらしい。 「はて——」  西繍嶺——山とはいっても、そのいたるところに、堂や殿が建てられていたはずであった。  冬には、長安の政治機能が丸ごとこの地域に移動したのである。  山のあちこちに石畳の径《みち》が造られ、大小の楼閣《ろうかく》も建てられている。  今は、盗人に荒らされ、建物の多くは壊れ、朽《く》ちるにまかせているはずであった。  その、どこへゆこうとしているのか。  子英は、無言で大猴の後を追った。  そして、今、ようやく大猴が足を止めていた。  一軒の、朽ちかけて屋根の壊れた道観《どうかん》らしき建物の前であった。  大猴がそこに立ち止まっていたのは、わずかな時間であった。  大猴は、迷うことなく、その道観の中に入っていった。  子英は、そこで迷った。  続いて、その道観の中へ入ってゆくべきかどうか。  これまでは、後を尾行《つ》けて気がつかれなかったとしても、道観の中にまで入ってしまったら——  とにかく、道観に近づいて、外から中をうかがうことくらいならだいじょうぶであろう。  そっと、近づいた。  屋根の瓦《かわら》が、半分近くは落ちてしまっているのだろう。道観の周囲に、落ちて割れた瓦が散らばっていた。  大猴が入ったあたりから中をうかがうと、屋根の一部が朽ちて穴が開いているのだろう、そこから月光が道観の内部に差し込んでいた。  大猴の姿は見えない。  漆喰《しっくい》の壁で内部は幾つかの部屋に仕切られているらしかった。  別の部屋へ、大猴は移動したらしい。  どうしようかと迷っていると、音が聴こえてきた。  大猴が、床を踏んで歩く音。  何かの小物を、台の上へ置いたり、擦ったりするような音。  そのうちに——  灯が点《とも》った。  思いがけずに、明るい灯の色が、向こうの壁に映っていた。  続いて、何かを叩くような音が響いてきた。  大きな音だ。  次には、何かをめりめりと引きはがすような音が聴こえてきた。  堅いものを叩く音。  何かを破壊する音。  ほどなく、その音が止《や》んだ。  大猴が、手に持っていたものを投げ捨てるような音。  大猴の巨体が、動き回る音。  太い溜め息。  壁に映っていた灯りの色が、大きく揺れた。  大猴が、どこかに置いていた灯りを、手に持ったらしい。  灯りの色が、壁に揺れる。  大猴が、灯りを手にして動いているらしい。  外へ出てくるのか。  隠れる場所を捜して、子英は身構えた。  しかし、大猴は外へは出てこなかった。  壁に映っていた灯りの量が、だんだんと少なくなる。  大猴の足音が、小さくなってゆく。  遠ざかってゆくのか。  そうではない。  これは、降りてゆく音だ。  石の階段を降りてゆく音。  いや、もしかしたら、これは階段を登っていく音なのかもしれない。  何をしようとしているのか。  この古い、朽ちかけた道観に、いったい何があるというのか。  興味が湧いた。  しかし、見つかってしまったら——  どういう言いわけをすればいいのか。  言いわけも何も、言いわけをすべきなのはむこう——大猴の方ではないか。  そうも思う。  そのうちに、 「おおおおおう……」  低い、声が聴こえてきた。  はじめ、それは、人の声に聴こえなかった。  朽ちた樹のうろを吹く風の音。  あるいは、老いた獣の声。  そのように子英は聴いた。  だが、それは、まぎれもない人の声であった。  おおお……  あああ……  ゆっくりと肺を膨《ふく》らませ、呼吸をしながら喉を鳴らす——そういうような声であった。  あくびのようでもあり、苦痛の声のようでもあり、哀しみに哭《な》くような声でもあった。  続いて、低い、ぶつぶつという囁《ささや》くような声になった。  声の主が、何かを語っているらしい。  それに答えるような、大猴の声。  しかし、何を話しているのか、それは聴きとれなかった。  もう少し、近づけば——  好奇心に負けた。  子英は、ゆっくりと、道観の中に足を踏み入れていた。  床を軋《きし》ませぬよう、注意をはらって次の間へ——  そこへゆくと、子英は驚いた。  床に、ぽっかりと大きな黒い穴が口をあけていたのである。  月光が、その穴の上に差していた。  そして、穴の下に向かって、石段が続いていた。  そうか——  子英は思った。  さきほどの音は、この床を壊して、地下へ続くこの入口を見つけるための音だったのだな。  いつの間にか、声はしなくなっていた。  ただ、床に、地下へ降りてゆくための入口が口をあけている。  そして、その奥で、灯りの色が揺れている。  物音はない。  どうしようかと思っていると—— 「何しに来た……」  ふいに、子英の耳元で、皺枯《しわが》れた声がした。  子英は、後方を振り返った。  そこに、犬の首が浮いていた。  眼は、腐り、半分とろけて落ちかかっていた。  舌が、牙の間から長く垂れ、その先端からどろりとした血が滴《したた》っている。  半熟の卵のごとき犬の眼球がぎろりと動き、見えるとは思えぬその眼が、子英を見た。  舌が、動いた。 「何しに来た……」  宙に浮いたその首が言った。 「あっ」  と声をあげて、一歩退がった子英の右足が、宙を踏んでいた。  床に開いていた穴に、退がった足が踏み込んでいたのである。 「くわっ」  穴の下方にむかって、石段の上を転げ落ちていた。  したたかに、腰を打っていた。  それでも、頭は打たなかったので、まだ生きていて、意識もあった。 「痛《いつ》うう……」  両手を突いて、半身を起こした。  屋根の透《す》き間《ま》からこぼれ落ちてきた月光が、穴の底までかろうじて届いていた。  そのわずかな月明りに、何かが見えていた。  巨大な、黒い影がそこに立っていた。  人影のようであった。  しかし、常人よりはずっとその影は大きかった。 「大猴!?」  子英は、思わず声をかけていた。  しかし、それは、答えなかった。  それは、動かない。  立ちあがり、それに手を触れた。  石のように硬い。  闇の中で、眼を凝《こ》らして見ると——  兵士のような人の顔がようやく見てとれる。 「俑《よう》か……」  子英が、小さくそうつぶやいた時、その俑が、もぞり[#「もぞり」に傍点]、と動いていた。 「何しに来た……」  その俑の兵士が、子英に向かってつぶやいていた。        (四)  ほろほろと、酒を飲んでいる。  盃に月光を受け、その月光を飲むように酒を飲む。  胡の国から渡ってきた酒だ。  葡萄《ぶどう》の酒。 「どれ、今度はわしが弾こう」  気が向けば、丹翁は月琴を手に取り、ほろりとそれを弾く。  空海も逸勢も耳にしたことのない、異国《とつくに》の旋律が、丹翁の弾く月琴の弦から月光の中に零《こぼ》れ出てくる。  弾き終っては、また盃に酒を受け、それを干し、しばらくしてまた月琴を手に取る。  時おりは、逸勢の笙《しょう》がそれに合わせる。  白楽天が、琵琶《びわ》で月琴の音に重ねることもあった。 「よい晩じゃ」  月琴を絨毯の上に置いて、丹翁が言った。 「はい」  空海がうなずく。  うなずいた空海に、盃を持った丹翁の手が伸びる。 「空海、酒を——」 「はい」  空海が、いそいそと酒器に手を伸ばし、丹翁の盃に酒を注ぐ。  それを、うまそうに丹翁が飲む。 「おまえも飲め」  酒器を手にした丹翁がそれを空海に向ければ、今度は空海が自分の盃に酒を受ける。  美味《うま》い酒であった。 「なかなかの趣向じゃ」  丹翁が、言った。 「まさか、この華清宮で、再びこのように酒を飲むことができるとは思わなんだ」  しみじみとした声であった。  丹翁の眼が、なつかしいものでも捜そうとするかのように動く。  宴。  きらびやかに着飾《きかざ》った女官。  行きかう人々。  かつての栄華は、しかし、もうその眼には映らない。  その昔、ここを歩いた者たちの姿は今はない。  今はただ—— 「このわしが、いるのみぞ……」  ぼそりとさびた声で丹翁がつぶやいた。  すでに、大気の中に溶け去ってしまった楽の音を聴こうとするかのように、丹翁が眼を閉じる。 「丹翁どの……」  声をかけたのは、逸勢であった。 「何じゃ」 「ドゥルジ尊師どの、来られましょうか」 「ほう——」  丹翁が、眼を開いた。 「白龍《はくりゅう》か——」  丹翁の唇が動く。 「今、何と申されました?」  逸勢が訊いた。 「白龍と申されましたか」 「ああ——」 「それはつまり——」 「ドゥルジ尊師が白龍であるということさ」 「なんと!?」 「白龍の名はすでに知っているであろう」 「はい」 「われらが師、黄鶴に仕えていたのが、丹龍と白龍よ」 「聴いております」 「白龍がドゥルジ尊師で、丹龍というのが、この丹翁じゃ」 「おう」  逸勢が驚きの声をあげた。 「空海よ……」  丹翁が、空海に向かって言った。 「はい」 「おぬし、長湯のあれ[#「あれ」に傍点]を見たか」 「見ました」  空海がうなずく。 「わしも見た」  あの、夥《おびただ》しい数の、首の無い犬の屍骸《しがい》——  そして、蛇や蟲《むし》の屍骸。 「ならば、わかるであろう」 「——」 「来るも来ないもない。ドゥルジ尊師——白龍はこの華清宮にいるということさ」 「はい」  空海が、うなずいた。 「しかし、華清宮か——」 「——」 「さすがに、このわしも気づかなんだ。だが、考えてみればわかることであった。この華清宮しかないということがな。しかし空海よ、倭国《わこく》から来たぬしが、よくぞこの華清宮のことを思いついた」 「いいえ」  空海は、首を左右に振った。 「この華清宮のことに気づかれたのは、このわたしではありません。そこにおられる白楽天先生が、最初に気づかれたのです」  空海の言葉に、白楽天は、手を横に振った。 「いや、わたしは何も気づいてはおりません。気づくも何も、このことが唐王朝の秘事に関わっていることなど、考えもおよびませなんだ。わたしはただ——」  そう言って、白楽天は口をつぐんだ。  唇を一度|噛《か》み、あらためてまた白楽天は口を開いた。 「——わたしはただ、ここへ来れば、今、書こうとしている詩の想《そう》が得られるかと思うただけのこと。気づかれたのは空海どの——」 「いいえ。楽天先生の華清宮へゆくという言葉を耳にしなければ、わたしも気づくことはなかったと思います」  空海は言った。  丹翁は、興味深そうに白楽天を見やり、 「詩を?」  そう問うた。 「ええ」 「どのような詩を書こうとなさっておられるのかな」  白楽天は、また、唇を噛んで、一瞬押し黙った。  やや間があって、 「玄宗皇帝と楊貴妃様おふたりのことを詩《うた》いたいと——」 「ほう」  丹翁はうなずきながら、 「で、ここへ来れば、どのような詩想が得られると——」 「玄宗様と貴妃様、おふたりはどのようなお気持ちで、ここでふたりの時間をお過ごしになられていたのかと——」 「——」 「果たして、おふたりは、お幸福《しあわ》せであったのかどうかと——」 「で、こちらへ来て、それがおわかりになられた?」 「いいえ」  顔をあげて、白楽天は声を高くした。 「いいえ」  今度は、もう少し小さい声でつぶやいた。 「わかりません。わたしにはわからないのです。おふたりのことを、どのように詩《うた》ったらよいのか、何もわかってはいないのです」  白楽天は睨《にら》むように、丹翁を見つめていた。 「丹翁先生」  あらたまった口調で、白楽天は言った。 「何かな」 「教えて下さい。貴妃様は、ここで、お幸福せだったのですか。あなたならわかるでしょう。おふたりは、ここで、お幸福せだったのですか。どのようにして、おふたりはここでお過ごしになっておられたのでしょう」  白楽天に問われた時、一瞬、丹翁の顔が、苦痛に歪《ゆが》んだように見えた。 「はてさて、白楽天どの。あなたは、人の心について問うておられる」 「——」 「しかも、それは、わたしの心ではなく、他人であるお方の心について問うておられる」 「——」 「およそ、心というものは、わが心であっても名づけ難《がた》きもの。とても、ひとつ縄では捕えきれぬもの。その問、このわしにも、とても答えられるものではござらぬよ」 「おっしゃる通りです」  白楽天は言った。 「おっしゃる通りです。まことに言われる通りです。それは、このわたしがわたし自身の紡《つむ》ぎ出す言葉の呪力をもって為《な》さねばならぬこと——」  白楽天がそこまで言った時、それが始まった。 「あれは?」  最初に、そう言ったのは、それまで黙って皆のやりとりを耳にしていた玉蓮であった。  笛の音《ね》が聴こえていた。  小さく微《かす》かな笛の音であった。  いや、笛の音ばかりではない。  笙。  琵琶。  編鐘《へんしょう》。  幾つもの楽の音が、風に乗って、どこからか響いてきたのである。  それが、近づいてくる。  だんだんと。  しかし、その楽の音《ね》が近づいてくるのはわかるのに、その音《おと》はなかなか大きくなってこなかった。  音はなかなか大きくならないかわりに、少しずつその楽の音は鮮明になってくる。 「おう、見よ、空海——」  逸勢が、声を高くして指を差した。  逸勢が指差した方向——池に向かって左側の篝《かが》り火の下を、何かが動いていた。  それは、人であった。  ただの人ではない。  小さな人だ。  ひとりやふたりではない。  無数の小人が、こちらに向かって篝り火の下の地面を歩いてくるのである。  身《み》の丈《たけ》、三寸か四寸くらい。  赤や青、白や紫の衣裳《いしょう》で着飾った小さな女官たちが、楽器を弾きながら、あるいは舞いながら、空海たちに向かって歩いてくるのである。  ひとり、  ふたり、  三人、  四人……  数えられる人数ではなかった。  十人、  二十人、  数十人に余る女官たちが、ひらひらと裳裾《もすそ》をひらめかせ、踊りながら、楽を奏でながら近づいてくるのであった。        (五) 「何だこれは、何がおこったのだ」  逸勢が腰を浮かせながら言った。 「来たか」  そう言ったのは、丹翁であった。  丹翁は、悠々と、右手に持った盃を口に運んでいる。 「はい」  答えた空海も、慌てた様子はない。 「何が来たのだ、空海——」  逸勢が訊いた。 「白龍どのがさ」 「なに!?」  言っている間にも、踊り子たちの数は増えてゆく。  笙を手にした者。  琵琶を弾きながら、二本足で立って歩いてくるのは蝦蟇《がま》であった。  同様に、二本の足で立った鼠《ねずみ》は、鐘《かね》のようなものを叩きながら、踊り子たちの間を行ったり来たりしている。  いつの間にか、その小さな踊り子たちや、蝦蟇の群れに周囲を囲まれていた。  しかし、どういうわけか、篝り火に囲まれた内側へは、彼らも入ってはこなかった。 「お、おい、空海——」 「心配はいらぬ。奴らもあの篝り火より先へは入って来ることはできぬ」 「本当か」 「ああ。おれが結界《けっかい》を張っておいたからな。生身の人間や、生き物ならともかく、呪《しゅ》によって生じたもの[#「もの」に傍点]は、結界の中へは入って来られぬ」 「し、しかし、おまえ、白龍が来たと言ったではないか」 「言った」 「どこにいるのだ。あの小さな踊り子たちは白龍ではないのか」 「ああ」 「白龍はどこなのだ」 「じきに来る」  空海たちを囲んだ踊り子たちは、いよいよかまびすしく踊り出した。それに合わせるかのように、楽の音もどんどん高くなってゆく。  赤い衣裳を着た女官の、小さな白い手がひらひらと宙に動く。  青い衣裳を着た踊り子の足が、とんとんと地を踏み鳴らす。  月琴が鳴る。  琵琶が鳴る。  笙が鳴る。 「まあ、なんて賑《にぎ》やかな」  空海と丹翁が、少しも取り乱した様子を見せないので、落ち着きを取りもどした玉蓮が、口に笑みを浮かべた。 「かようなことが我が目の前でおこるとは——」  白楽天が言った。  そのうちに、女官や楽士たちが、左右に分かれはじめた。ちょうど、池に面した方角の人垣が割れて、女官や楽士たちがみごとに左右に分かれていた。  楽の音が止《や》んだ。  踊り子たちも、踊るのをやめた。  全員が地に座していた。 「ほほう」  おもしろそうに、丹翁が左手で顎《あご》を撫でた。 「何が始まるのだ、空海——」 「見ていればわかるさ」  空海が言った。  沈黙の中で、篝り火のはぜる音だけが響く。  ふいに、笙が鳴り始めた。  ただひとつだけの笙の音が、月光の中を天に昇ってゆく。  もの哀しい音色であった。  と——  人垣の中から、一匹の猫が出てきた。  黒い猫である。  二本足で歩いている。 「く、空海、あの猫だ——」  逸勢が低く声をあげる。  猫は、青く光る眸で空海たちを見つめ、鋭い牙を見せて、鳴きあげた。  それが合図であったかのように、また、あの鼠が姿を現わした。  向かって右側から出てきたその鼠は、人のいない空間の中ほどまでやってくると、空海たちに向かって、慇懃《いんぎん》に頭を下げた。  頭に、金色の王冠のごときものを被っている。  楽の音が変った。  笙の音が止んで、次に響いてきた音《おと》があった。  月琴の音《ね》だ。  月琴が、細く小さく鳴り始めた。  すると、その音に合わせるかのように、左側から一匹の蝦蟇が姿を現わした。  その蝦蟇は、二本足で歩き、しかも、女官たちから譲られたのか、赤い衣《きぬ》をその身に纏《まと》っていた。  その蝦蟇を先導するように、蝦蟇の手を引いて先に歩いてゆくのは、鼠ほどの大きさの蟋蟀《こおろぎ》であった。  蟋蟀は、腰に白い絹と見える布を帯のように巻きつけて結んでいた。この蟋蟀もまた、人のように二本脚で立って歩いている。  蟋蟀は、蝦蟇を鼠の前まで案内してくると、うやうやしく頭を下げて、自分は後方に退《さ》がった。  中央に、鼠と蝦蟇が残った。  鼠が、蝦蟇の手を取った。  再び笙の音が響いて、月琴の音に和した。  笙の音が鼠を、月琴の音が蝦蟇を現わしているらしい。  いつの間にか、猫が姿を消している。 「なるほど——」  空海がうなずいた。 「何がなるほどなのだ」  逸勢が、小さな声で空海に問うた。 「これは、劇さ」 「劇?」 「鼠と、蝦蟇と、蟋蟀が、何かの物語を演じているのさ」 「物語だと?」 「ああ」 「何の物語だ?」  逸勢が問うた時、 「しっ」  静かにするように、空海が逸勢に合図した。  王冠を被った鼠と、赤い衣《きぬ》を着た蝦蟇は、寄り添うようにして、ふたりで舞い始めた。  やがて、鼠が、蝦蟇の赤い衣をめくりあげて、後方から腰を抱え、尻を前後に揺すりはじめた。  鼠と蝦蟇が、交《まぐわ》っている。  蝦蟇は、身悶《みもだ》えするように身を揺すりあげ、官能の声をあげた。  次々に、ふたりが動きを変えてゆく。 「これは——」  声をあげたのは、白楽天であった。 「玄宗さまと、楊玉環さまではないか」  白楽天は、膝で前へにじり寄りながら言った。 「なんですと?」  逸勢が問うた。 「あの鼠が玄宗皇帝じゃ。あの蝦蟇が、楊貴妃様ぞ」 「な、な——」 「そして、あの蟋蟀が高力士どの——」  白楽天が言った。 「本当に?」 「そうだ」  答えたのは空海であった。 「今、我らの前でくり広げられているのは、玄宗様と貴妃様の御《おん》物語ぞ」 「ま、まさか」 「まさかではない」 「な——」 「まさにこの華清宮で演じられるにふさわしい御物語ではないか、逸勢よ」  空いた場所を舞台に見たて、鼠、蝦蟇、蟋蟀が、それぞれ玄宗、楊玉環、高力士を演じているのである。  一番始めが、ふたりが初めて出会った時のことなのだろう。ならば、場所はこの華清宮である。  次々に、場面が変ってゆく。  拗《す》ねて相手をしてくれない貴妃に、なんとかとりなしてくれと高力士に頼んでいる玄宗。  やがて——  玄宗と貴妃——鼠と蝦蟇が手を繋《つな》ぎ合って、ふいに何かに驚いたように、宙の一点を見つめた。  どうやら、それは、安史の乱が始まったということを現わしたものらしい。  追われるように、長安を逃げてゆくふたり。  そして、ついに——  玄宗が、貴妃から離れ、高力士の側までゆくと、その耳のあたりに口を近づけて何ごとか囁《ささや》いている様子である。  ほどなく、高力士の蟋蟀が歩き出した。  貴妃の蝦蟇の前までやってくると、腰に巻いていた白い布をほどいて、それを手に持った。  後方に退がってゆく貴妃。  それを追う高力士。  ついに、貴妃が追いつかれた。  高力士の蟋蟀は、手に持っていた布を、丁寧に貴妃の首に巻きつけた。その布の両端を握って、高力士が強く引いた。  地に倒れ伏す貴妃。  そこで、これまでずっと鳴っていた楽の音がふいに止んだ。  それまで、静かに地に座していた女官たちが立ちあがり、袖で顔を覆《おお》い、声をあげて哭《な》き始めた。  次には、ひそかに貴妃を掘り出して、この華清宮まで連れてくる場面があるはずであったが、話はそこまで進まなかった。  ふいに、天から笑い声が降ってきたのである。  からからと嗤《わら》うその声は、さもおかしそうに、天空に鳴り響いた。  その嗤い声は、いつの間にか、言葉に変化していた。 「よう来た」  嬉しそうに、その声は言った。 「よう来た。よう来た」  嬉しくて嬉しくてたまらぬといった声であった。  声が、天から降ってくる。 「丹龍よ、空海よ、よう来た」  そして——  いきなり、天からはらりと落ちてきたものがあった。  それは、一本の縄であった。  しかも、落ちてきたのは縄の一方の端だけであり、もう一方の端は、天に残ったままであった。  見あげれば、遥か上空の天まで縄は伸び、その端は見えなかった。  夜の虚空に縄は途中で消え、月光の中を地上まで下がっている縄が見えるばかりである。 「今ゆく」  天空から声がした。 「お、おい……」  逸勢が、横にいた空海の背を手で突いた。 「人だ、空海——」  首の根が痛むほど上を見上げていた逸勢が言った。 「ああ」  空海にも、その姿は見えていた。  頭上遥かな夜の天に、ぽつんと小さく人影のようなものが見えていた。  見ていると、それが、ゆっくりと下がってくる。  天から、縄を伝って、何者かが地上に降りてこようとしていた。  たしかに、それは人であった。  縄を伝い降りてきたその人は、ようやく地に降り立った。  そこは、さっきまで、鼠と、蝦蟇と、蟋蟀が、玄宗と貴妃と、高力士を演じていた場所であった。  すでに、あの小さな女官たちの姿も、踊り子たちの姿もない。  鼠と、蝦蟇と、蟋蟀の姿もない。  あれほどいた彼らの姿が、どこからもいなくなっていた。  楽の音も響いてない。  かわりに、そこには三人の人間が立っていた。  ひとりは、ちんまりとした背丈の、黒い衣を着た老人であった。  鶴のごとくに首が細い。  その左右に、女がいた。  ひとりは、若い女。  そして、もうひとりは、美しい薄絹を身に纏った老婆であった。  闇の中から、あの黒い猫が姿を現わし、その三人の足元で止まった。 「白龍じゃ」  老人は言った。        (六)  白龍と名のった老人は、黄色く光る眸《ひとみ》で、その視線を丹翁に注いでいた。  老婆は、その視線を誰にもむけていない。  その眸は、宙のあらぬ方に向けられていた。  その老婆の左手を、若い女が握っている。  その若い女を見て、 「麗香姐《れいかねえ》さん……」  玉蓮が小さくつぶやいた。  麗香と呼ばれた女は、玉蓮と視線を触れ合わせると、唇を小さく横に引いて、口元をほころばせた。  麗香——かつて、雅風楼《がふうろう》——胡玉楼にいた妓娼《ぎしょう》である。  空海が、初めて胡玉楼に行ったおり、玉蓮の右腕が痺《しび》れて動かないというので、それを治してやったことがある。  玉蓮の右腕に、餓蟲《がむし》と呼ばれる邪気が憑《つ》いていたのである。その餓蟲を落としてやったのだ。  その餓蠱を玉蓮に呪咀《ずそ》を仕かけて憑かせたのが麗香であろうと、�胡玉楼�の人間たちは言った。  その時から姿を消していた麗香が、今、ここにいる。 「玉蓮姐さんも、白居易先生も、お久しぶりでござります」  落ち着いた声で、女——麗香は言った。 �白龍——ドゥルジ尊師の周辺に時おり姿を見せていた女が、この麗香であったのか�  逸勢は、そう言いたそうな顔で空海を見やったが、声には出さなかった。  いつぞやの晩、西明寺の牡丹《ぼたん》の花の咲く庭で踊っていたのが、この老婆で、その時現われたのが、この麗香であった。 「久しぶりよのう、丹龍——」  老人が言った。 「五十年ぶりか、白龍——」  丹翁がうなずいた。 「そうじゃ、白龍でよい。この名の方が、我らにはふさわしかろう」 「うむ」  うなずいた丹翁の視線が、しばらく前からずっと、白龍の横にいる老婆に向けられている。  丹翁の視線は、張りついたようにその老婆から動かない。  小さな老婆であった。  顔も、衣《きぬ》の袖から出ている腕も、皺《しわ》だらけであった。  顔と言わず、腕と言わず、肌のあらゆる場所に染《し》みが浮いている。  八十歳は越えていよう。  着ている衣の中に隠れて見えなくなってしまうほど、身体が縮んでしまっている。  長い髪は、全て白く染まっている。  その白髪を、頭の上で結いあげ、赤い布で縛り、簪《かんざし》を刺していた。  真珠の飾りのついた銀の簪であった。  唇にも、頬にも、紅が差してあるのか、ほんのりと赤みがある。  白粉《おしろい》を付けているのか、顔から首にかけてが白い。  自分で、白粉を刷《は》き、紅を差したのではないのであろう。白龍か、横にいる麗香がこれをしたのだろう。  わざわざ、今夜のために——  しかし、唇が半分開いていて、そこから黄色い歯が見えている。しかも、何本か抜け落ちているのが見てとれる。  老婆は、ただ、ぼんやりと周囲を見やっている。  月光に、濡れたように咲いている、牡丹《ぼたん》の花。  幾つもの、幾つもの無数の牡丹。  老婆はうっとりと、酔ったような眼をしているようにも見える。  その老婆を、丹翁は、ただ見つめている。  強い感情が、丹翁の内部からこみあげてきているらしい。それを、丹翁が、必死で押さえているようであった。  丹翁の喉《のど》の中で、喉仏が上下に動いた。 「わかるか、丹龍……」  白龍が言った。 「ここにおわす御方《おんかた》が、誰かわかるか——」  丹翁の唇が、数度、震えるように開きかけたが、声を出すことができずに、また、閉じられた。  丹翁の両眼から、二筋の透明な涙が滑り落ちた。 「楊玉環様じゃ」  白龍が言った。  おう——  と、空海の横で、逸勢が息を呑《の》むのがわかった。  楊玉環——  六十年以上も遥か昔、この華清宮で、玄宗皇帝と初めて出会った女性の名であった。  楊貴妃。 「なんと……」  かすれた声をあげたのは、白楽天であった。 「宴じゃ——」  白龍が言った。 「宴の仕度をせよ」  白龍が、高く顔をあげて、胸を反《そ》らせた。 「楊貴妃様のおこしぞ。楽の音を。酒の用意を——」 「こちらへ」  空海が言った。  白龍が、結界の外から、中へ足を踏み入れてきた。  絹の波斯絨毯《ペルシアじゅうたん》の上に片膝を突き、うやうやしく頭を下げた。  それが合図であったかのように、麗香が、老婆——楊玉環の手を取って、前に足を踏み出した。それにうながされたように、楊玉環が足をあげた。  ふたりが、しずしずと、結界の中へ入ってきた。  猫だけが、外に残った。  空海が席を立ち、 「これへ」  やってきた楊玉環にその席を譲った。  北斗《ほくと》を背にし、南面《なんめん》して座す場所——天子《てんし》の席であった。  楊玉環が、中央に座し、その左右に麗香と白龍が座した。 「酒を——」  白龍が言った。  麗香が、楊玉環の手に手を添えて、玉《ぎょく》の盃をその手に持たせた。  その盃に、玉蓮が、胡の国の酒——葡萄酒《ぶどうしゅ》を注ぎ入れた。  楊玉環が、ゆっくりと、麗香に手を添えられて、その盃を口に運んでゆく。  盃の縁に、紅い唇が触れた。  顎《あご》をあげ、仰《あおの》くようにして、楊玉環は、胡の酒を飲んだ。  白龍が盃を持った。  丹翁が盃を持った。  白楽天が盃を持った。  空海が盃を持った。  橘逸勢が盃を持った。  その盃に、酒が満たされた。  楊玉環の盃にも、酒が満たされた。  そして、麗香と玉蓮も、酒の満たされた盃をその手に持った。  酒が、思いおもいに、口まで運ばれてゆく。 「やっと、出会《でお》うたなあ、丹龍——」  空になった盃を下ろしながら、白龍が言った。 「礼を言うぞ、空海——」  白龍が言った。 「いえ」  空海が、首を左右に振った。 「礼を言われるような筋のことはしておりません」 「いや、ぬしがおらなんだら、我らは、出会うた途端に、殺しあいを始めていたかもしれぬ」  白龍が、しみじみとした口調で言った。 「殺しあい?」 「そうじゃ」 「——」 「そこの丹龍には、今、この白龍が言うたことの意味はわかるはずじゃ」  その言葉に、うなずくように、 「うむ」  そう言って、空になった盃を絨毯の上に置いたのは、丹翁であった。 「われらは、滅びのために、今宵《こよい》ここに集《つど》うたのだ」  丹翁は言った。 「生きていたなあ、丹龍——」 「ぬしこそ、白龍よ」 「我ら、互いに長く生き過ぎた」 「うむ」 「そろそろ、よいころではないか」 「ああ」  丹翁がうなずいた。  白龍は、空海を見やり、 「楊玉環様とは、今夜が初めてではなかろう」  そう言った。 「はい」  空海は、うなずいて盃を置いた。 「いつぞやの晩、西明寺《さいみょうじ》にて、お会いしております」 「そのはずじゃ」 「庭で、月の光を浴びて踊っておられました……」  空海は言った。  その空海の言葉が終らぬうちに、楊玉環が、ゆっくりと、立ちあがっていた。  両手で、何かを持ち、食べている。  空海が用意した茘枝《ライチ》であった。  楊玉環の頬から、涙がこぼれていた。  楊玉環は、泣きながら茘枝を食べていた。  月を見あげながら、二歩、三歩と歩いて、楊玉環は編鐘《へんしょう》のひとつを指で弾いた。澄んだ音が、月光の中に響く。  周囲に眼をやり、 「牡丹……」  楊玉環は、ゆらゆらと、座の中央に歩み出ていった。 「おう、舞われるか、楊玉環様——」  白龍が言った。 「丹龍よ、眼を凝《こ》らせ。顔をあげよ。我らが楊玉環が、今一度、この華清宮にて、舞われるぞ」  楊玉環が、立った。 「おう、あそこに、玄宗様も来ておられるぞ。こなたには、高力士どのもおられる。あちらには、倭国の晁衡《ちょうこう》どのもおられるではないか——」  白龍の眼から、涙がこぼれていた。  声を震わせ、叫ぶように白龍が言った。 「さあ、笙を鳴らせ。月琴を鳴らせ。琵琶の用意はどうじゃ。編鐘を鳴らす槌《つち》は握ったか——」  すでに、玉蓮が月琴を抱えていた。  笙を持ったのは、橘逸勢であった。  空海は琵琶を。  白楽天が笛を。  麗香が、槌を握って、編鐘の前に立った。 「さて、曲は何がよいか——」  白龍がつぶやいた。 「おう。忘れてはならぬ。李白《りはく》どのはそこにござったか。なれば�清平調詞《せいへいちょうし》�じゃ。李亀年《りきねん》どの、唄われよ。我らが貴妃どのが、また、こよい華清宮で舞われるぞ——」  白龍が、老いて皺の浮いた手を、月光の中に持ちあげた。  楽の音が、夜気の中に響いた。  そして——  ゆっくりと、楊玉環——楊貴妃が、月光の中でゆるゆると舞い始めたのであった。        (七)  玉蓮の月琴が鳴る。  橘逸勢が笙《しょう》を吹く。  空海が琵琶《びわ》を弾く。  白楽天が笛を吹く。  麗香が編鐘《へんしょう》を叩く。  楽の音《ね》が、夜気の中で和した。  その楽の音を撫でるように、楊貴妃の細い指先が夜気の中を動いてゆく。  月光と楽の音が、溶ける。  彩色された、きらきらと微光を放つ龍の群が、楊貴妃の周囲でもつれあっているようにも見える。 [#ここから1字下げ]  雲想衣裳花想容  春風拂檻露華濃  若非群玉山頭見  會向瑤臺月下逢 [#ここで字下げ終わり]  唄っているのは、丹翁であった。  かの李白が作った詞《うた》だ。  天宝二年(七四三年)、六十二年前。  場所は、長安の興慶宮《こうけいきゅう》。  この宮城の南半分に、竜堂《りゅうどう》、長慶殿《ちょうけいでん》、沈香亭《じんこうてい》、花萼想輝楼《かがくそうきろう》、勤政務本楼《きんせいむほんろう》などの壮大なる建物が並んでいた。  その沈香亭であったはずだ。  時は春——  沈香亭の庭一面が、咲いた牡丹で埋め尽くされていた。  そこで、宴《うたげ》が催された。  まだ二十五歳の楊玉環——楊貴妃のための宴であった。  様々なる珍味。  楽の音に埋もれたその席には、宮廷の主だった者たちの顔は、全てあった。  皇帝玄宗。  楊貴妃。  高力士。  晁衡こと倭国の安倍仲麻呂。  李亀年。  そして、李白がいた。  青龍寺《せいりゅうじ》からは、天竺《てんじく》へ向かって旅立つ前の不空《ふくう》も顔を出していた。  貴妃の三人の姉たち。  楊国忠《ようこくちゅう》もいた。  黄鶴がいた。  丹龍がいた。  白龍がいた。  宴はたけなわとなり、宮廷楽士たちの中でも一番の歌い手であった李亀年がいよいよ歌うこととなった。  その時——  玄宗が立ちあがって、このように言った。 「名花を賞し、妃子《ひし》に対す、焉《いずく》んぞ旧楽《きゅうがく》の詞《うた》を用うるを為さんや」  この艶《あで》やかなる牡丹と、美しい楊貴妃を前にして、いまさら古い歌でもあるまい—— 「李白を呼べい」  李白が呼ばれた。 「清平調に合わせ、今ここにて詞《うた》を作るべし」  清平調というのは、唐代に作られた新しい音楽の曲調である。  すでに曲はできている。その清平調という曲に合わせて、新しい詞を今ここで作詞せよと、玄宗は李白に命じたのである。  すでに、李白は酔っている。  酔眼朦朧《すいがんもうろう》。  玄宗の傍《そば》近く上がる時に、自分で沓《くつ》を脱ぐことができない。 「誰ぞ、わが沓を——」  そう言って、李白は高力士を見やり、 「高力士様、お願い申しあげます」  うやうやしく頭を下げ、半分、おどけた口調と動作で言った。  酔っているからこそ、また、李白であったからこその申し出であった。  素面《しらふ》の時に、宮廷でこれをやれば、首が胴から離れかねない。  これを、高力士が、 「無礼な」  とまじめに怒ってしまっては、宴の座が白けることになる。  不粋な奴と評判にもなる。 「おお、これは酔仙《すいせん》どの、ようこそまいられた」  自ら進んで、李白の沓を脱がせたのである。  そこで、筆を取り、一同の見ている前で、よどみなくさらさらと疾《はし》るような速度で書きあげたのが、この詞であった。  その詞に合わせ、これもまた即興で、楊貴妃が舞った。  それが今、この華清宮の牡丹の庭で、再現されているのである。  八十七歳になる、楊玉環が、今、空海、逸勢の前で舞っているのである。  逸勢の顔は、感動のためか、興奮のためか、赤くなっている。  その宴については、日本国にいる頃から、逸勢も耳に聴きおよんでいる。  それが、今、眼の前で——  舞う楊玉環が合わせているのは、今自分が吹いている笙の音である。  空海と眼が合う。  空海よ、もうおれはここで死んでもよいぞ——  逸勢の眼がそう言っている。  橘逸勢は、涙を流しながら笙を吹いていた。 [#ここから1字下げ]  雲には衣裳を想い 花には容《かんばせ》を想う  春風《しゅんぷう》 檻《おばしま》を払《はら》って 露華《ろか》 濃《こま》やかなり  若《も》し 群玉山頭《ぐんぎょくさんとう》にて見《あ》うに非《あら》ざれば  会《かな》らず 瑤台《ようだい》の月下に向《む》いて逢《あ》わん [#ここで字下げ終わり]  かつて、空海が評したように、溢るるばかりの才によって書かれた詞であった。  才のみ。  きらきらとした言葉が、ただ流れてゆく。  深刻な思想も、おそらくは、感動すらもない。  ただ、才によってのみ紡《つむ》がれた言葉がそこに存在している。  それを、楊玉環が舞う。 [#ここから1字下げ]  一枝紅艶露凝香  雲雨巫山枉斷腸  借問漢宮誰得似  可憐飛燕倚新粧  一枝《いっし》の紅艶《こうえん》 露香《つゆかお》りを凝《こ》らす  雲雨《うんう》 巫山《ふざん》 枉《むな》しく断腸《だんちょう》  借問《しゃもん》す 漢宮《かんきゅう》 誰《たれ》か似《に》るを得《え》たる  可憐《かれん》の飛燕《ひえん》 新粧《しんしょう》に倚《よ》る [#ここで字下げ終わり]  この詞を書いた李白は、沓のことで高力士に恨まれた。  そして、李白はこの詞が原因で、高力士によって、長安から追われてしまうのである。  詞中にある、 �飛燕�  漢の成帝《せいてい》の愛妃で、後に皇后となった女性である。  歌舞が巧みであり、その美貌で知られていた。  李白は、この詞の中で、楊貴妃をこの飛燕に喩《たと》えたのである。  後になって、この比喩に、高力士が文句をつけたのである。  飛燕は、皇后になった。  つまり、飛燕より先に皇帝であった成帝が死んでしまったからこそ、飛燕は皇后になることができたことになる。  その飛燕に貴妃を喩えたということは、玄宗が貴妃よりも先に死ぬという暗喩ではないのか——  高力士は、それを指摘したのである。  言いがかりだ。  もしも、李白が、人前で高力士に沓を脱がさせたりしなければ、何事もなくすんだはずの詞である。  しかし、高力士は、このことを恨んでいたのである。 [#ここから1字下げ]  名花傾國兩相歡  長得君王帶笑看  解釋春風無限恨  沈香亭北倚闌干  名花と傾国《けいこく》 両《ふた》つながら相歓《あいよろこ》ぶ  長《つね》に 君王《くんのう》の笑《わら》いを帯《お》びて看《み》るを得たり  春風《しゅんぷう》 無限《むげん》の恨《うら》みを解釈《かいしゃく》して  沈香亭北《じんこうていほく》 欄干《らんかん》に倚《よ》る [#ここで字下げ終わり]  これを、李亀年の代わりに歌っていた丹翁の眼から、ひと筋、ふた筋と、涙がこぼれていた。  夜気に溶けてゆくかのように静かに楽の音が止み、また、静寂がもどった。  貴妃も動きを止めた。  誰も、声を発するものはない。  ただ、静寂の中に、炎の燃える音だけが響いている。  その顔は、名残り惜しそうであった。  自分はもっと舞っていたいのに、楽の音の方が止んでしまった。  楊玉環は、その消えてしまった楽の音を捜すように、虚空を見つめていた。 「六十二年……」  白龍がつぶやいた。  誰も、応える者はない。  その沈黙の中に、また、白龍の言葉が響いた。 「六十二年——あれから本当にそれだけの歳月が過ぎたのか」  応える者はない。 「皆、どこへ行った……」 「——」 「丹龍よ、我らと、そして、楊玉環のみが生きておる」 「——」 「これほどに皺《しわ》を深うして、これほどに老いさらばえて、我らのみが生きておる……」  ああ——  白龍は、周囲の、牡丹に眼をやった。 「花は、あの時と同じじゃ——」 「——」 「しかし……」  そこで、白龍は、言葉に詰まった。  それ以上、言葉を発することができなくなっていた。 「夢よ……」  丹翁が言った。 「あれは、皆、夢であったのさ」 「夢だと?」 「——」 「あれが皆、夢であったと言うか。沈香亭の宴も、安禄山《あんろくざん》の乱のことも、馬嵬駅《ばかいえき》でのことも、この華清宮でのことも、あの何もかもが夢であったというか」 「我らはまだ、その終ってしまった夢の中の亡霊《ぼうれい》じゃ」 「——」 「さて——」  静かに丹翁が言った。  優しい声であった。 「あれからのことを、語ってくれぬか」  丹翁が言った。 「あれからのことじゃと?」 「我ら、ここで夢の始末をつける前に、教えてくれ、白龍よ——」  丹翁の言葉に、白龍は、からからと乾いた声で笑った。 「よかろうよ」  白龍は、うなずいた。 「言われなくても、語るつもりであったのだ。ここに誰も来なくとも、誰もいなくとも、どうせ語るつもりであったのじゃ」  白龍は、指先で、目頭を押さえ、丹翁を見、そして、空海たちを見た。 「そなたたちを、わしは、玄宗と思う。そなたたちは、高力士であり、李白であり、晁衡であり、不空であり、そして、死んでいった皆々じゃ……」  声を発する者はない。 「その死んでいった者たちが集うているこの場所で、あれからのことを語ろうではないか——」  そして、白龍は、静かにさびさびとした声で、それを語り始めたのであった。 [#改ページ]    第三十七章 慟哭の旅        (一) 「我らは、師を捨てた……」  低い声で、白龍《はくりゅう》は言った。 「おれは、丹龍《たんりゅう》と共に、この楊玉環《ようぎょくかん》を連れて、あの時、この華清宮《かせいきゅう》から逃げ出したのだ」  乾いた声であった。  篝《かが》り火《び》のはぜる音と、松を吹く風の音以外は、この白龍の声しか聴こえてこない。  楊玉環は、座して、遠く遥かな虚空を眺めている。 「それは、何故でござりますか?」  空海が問うた。 「何故?」  そう言って、白龍は空海を見やった。  長い沈黙があった。  篝り火がはぜ、火の粉が暗い大気の中に飛んだ。  白龍は、その火の粉を追うように視線を天へ向け、そして、地上にもどした。  その眼が、丹翁を見た。 「何故かは、わかるよなあ、丹龍——」  白龍は言った。  丹翁は、無言でうなずいた。 「われら、ふたり、どれだけ苦しい思いをしてきたか……」  喉《のど》から血をしぼり出そうとするような声であった。 「われらふたり、どれだけ辛い目に遭うてきたか……」  白龍は、また、天に視線を向けた。 「われらふたりは、どちらもこの楊玉環を想うていたからよ」   白龍の話  はじめて、楊玉環を見た時から、我らはその虜《とりこ》となった。  玄宗《げんそう》と楊玉環が、この華清宮で会うよりもずっと前からじゃ。  我らが師、黄鶴《こうかく》に命ぜられて、我らは楊玉環を陰ながら守ってきたのじゃ。  それこそ、あの寿王《じゅおう》のもとへ、楊玉環がゆく前からぞ。  あの寿王のもとへ、楊玉環をゆかせたのも、我らが師黄鶴が策じゃ。  そして、楊玉環を寿王から取りあげて、玄宗のもとへゆかせたのも、黄鶴じゃ。  鳴呼《ああ》——  そのどの時も、いつの時も、我らの想いは楊玉環にあったのじゃ。  のう、丹龍よ。  丹龍よ。  我ら、幾度、楊玉環の閨《ねや》へ忍んで行ったか。  寿王との睦言《むつごと》を、我ら何度、忍び聴きしたことか。  玄宗との恥態を、我ら何度、盗み見たことか。  しかし——  楊玉環は、寿王のものではなかった。  楊玉環は、玄宗のものでもなかった。  そして、楊玉環は我らのものでもなかったのだ。  楊玉環は、ただひとり、黄鶴がものであった。  いや、楊玉環は黄鶴の道具であったのだ。  鳴呼——  楊玉環、なんと美しき道具であったことか。  なんと哀しき道具であったことか。  その後のことは、空海、おまえもすでに知っていよう。知らなんだのは、我らが心の裡《うち》だけじゃ。  わかるものか。  我らは、それを隠し通してきたからな。  十年、二十年、我らは我らの心の裡を隠し続けてきた。  黄鶴ですら、わからなかったはずじゃ。  そして、ついに、楊玉環が自由になる日がやってきた。  安史《あんし》の乱が起こったからな。  馬嵬駅《ばかいえき》よ。  あそこで楊玉環は自由になるはずであった。  生まれて初めての自由ぞ。  玄宗めが、楊玉環を裏切ったからな。  己《おの》が身を守るために、楊玉環を、高力士《こうりきし》めに命じて殺させようとした。  その時——楊玉環は自由になったのだ。  楊玉環が、倭国《わこく》へ行かれるというのも、良い話であった。  我らは、安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》殿と共に、楊玉環を連れて、倭国へ落ちのびるつもりであった。  二年でも、三年でも、我らは待つつもりであった。  倭国がいやなら、ゆく途中で、楊玉環を連れて逃げてもよい——そうも思うていた。  我らが師である黄鶴は、玄宗への恨みで腹の底まで焦《こ》がしていた男じゃ。  その楊玉環が、もう、玄宗のもとへ置いておかれぬようになってしもうたからな。殺したはずの楊玉環を近くに置いておけば、また、乱が起こるであろう。  それにしても、哀れなのは、黄鶴じゃ。  己が妻を玄宗に殺されたも同じじゃ。  その復讐《ふくしゅう》で、最初は唐を滅ぼそうとした。  そのうちに、黄鶴は、心変りをした。  自らの手で、玄宗を殺すまでもない。それよりも、楊玉環を操って、やがては楊玉環に自分の血を引いた子を生ませて、それで唐の国を裏から支配しようとしていたのだ。  しかし、それもかなわなんだ。  掘り出した楊玉環が、狂うていたからじゃ。  無理もない。  あんな地中で眼を覚まして、どこからも逃がれられぬとわかった時は、誰でも気がふれる。  そうして、我らは再び、ここに集うたのじゃ。  この華清宮に——  この時、我らは誓《ちこ》うたのじゃ。  もう、楊玉環をどこへもやらぬと。  宮廷にももどさぬ。  倭国へもやらぬ。  黄鶴の手にももどさぬ。  それで、我らは逃げ出したのさ。  我らが師である黄鶴を捨て、唐王朝を捨て——  それから、どうしたと言うのか。  それからのこと——いや、その後に起こったことについては、丹龍よ、おぬしもよく知っていることじゃ。  我らは、楊玉環を心底想うていた。  気がふれていようと、心がいずれかに去ってしまっていようとも、楊玉環は楊玉環じゃ。  そうなって、初めて、楊玉環は自由の身になれたのじゃ。  酷《ひど》いのう。  酷いのう。  狂うて、はじめて自由になる。  これほど哀しいことがあろうか。  しかし、それでも、我らは、楊玉環を想うていた。  だからこそ、楊玉環を連れて逃げたのじゃ。  だが——  我らは、この三人の旅が、うまくゆかぬことはわかっていた。  おれと丹龍と、どちらがこの楊玉環をとるか。  やがて、そのことに決着をつけねばならない。  その決着は、互いに殺しあうことでしか決めようがない。  おれも、丹龍も、そのことはよくわかっていた。  なあ、丹龍よ、おまえもそれはよくわかっていたろうが。  ただ、いつ、どのようにして決着をつけるか——それだけがまだわかってはいなかった。  いつか。  今日か。  明日か。  それとも明後日か。  どちらが先に手を出すのか。  我らにわかっていたのは、どちらが倒れても、残った方が、楊玉環の面倒を死ぬまで見るということであった。互いにそれは口に出さなかったが、わかっていたはずだ。  そして、いよいよ、時は満ちようとしていた。  おれも、丹龍も、もう我慢ができなくなっていた。  身体が身の内から焼け焦げそうであった。  もう、今日にも始まるか——  そう思うていた時に、丹龍よ、おまえが逃げたのじゃ。  おまえが、我らの前から姿を消した。  何故じゃ。  何故、逃げたのか。  あれほど想うていた楊玉環から、どうして逃げたのじゃ。  このおれに、わざと楊玉環を譲ったのか。  そんなことをされても、おれは嬉しくなかった。  殺し合う、それしかないとまで、我らは思いつめていた。それは、誰にも伝えられぬ、誰にもわからぬ我らだけの思いであったはずじゃ。  そうしてこそ、そうしてこそ、この楊玉環を守ることができるのだと、おまえもおれも思い込んでいたはずじゃ。  それは、他人から見れば、おかしなことかもしれぬ。  しかし、我らにはわかっていたはずじゃ、それしか方法のなかったことを。  しかし、丹龍よ、おまえは逃げた。  何故じゃ。  おれは、心が、張り裂けそうであった。  くやしかった。  しかし、正直に言おう。  おまえがいなくなって、よかったともおれは思ったのだ。  おまえと殺し合わずに済む。  楊玉環と、誰にも邪魔されずにふたりで暮らすことができるからじゃ。  これはこれでよかったのではないか。  そう思うようにして、事実、そう思うようになっていたのだ。  楊玉環との暮らしは、楽しかったぞ。  狂うてはいても、我らは心が通い合うていた。  そう思うていたのじゃ。  ところがじゃ。  ところが、ところが、丹龍よ、よく聴け。  丹龍よ。  丹龍よ。  おれは、この楊玉環を抱いたのじゃ。  ああ、なんとなんと、悦《よろこ》びに満ちたものであったことか。  おれは、生まれて初めて、男と女の睦《むつ》みあいがどういうものか、この女を抱いて初めてわかったような気がした。  ところが——  ああ、ところが丹龍よ。  この楊玉環は、このおれに抱かれている最中に、なんと、この楊玉環は丹龍よおまえの名を呼んだのじゃ。        (二)  地獄じゃ。  楊玉環を抱く。  しかし、抱く度に楊玉環はおまえの名を呼んだのじゃ。  こんなことがあろうか。  狂うたればこそ、心の中にあるものが現われる。狂うたればこそ、心の中のものを隠せない。  狂うているから、楊玉環はぬしの名を呼ぶ。  抱けば、その快楽《けらく》の極みで、愛しい女が我が名以外の男の名を叫ぶ。  これほどの地獄があろうか。  何度、楊玉環を殺そうと思うたことか。  わかってはいても、この女を抱かずにおれない。抱けば、殺したくなる。  丹龍よ、おれはおまえを呪うた。  呪うたまま、三十年ぞ。  呪うたまま、三十年、おれはこの楊玉環と共に生きてきたのだ。  蜀《しょく》、洛陽《らくよう》、敦煌《とんこう》——多くの国を経巡りながら、おれはおまえを呪うて生きてきたのだ。  楊玉環と共にいるのは、生きながらはらわたを犬に喰われるよりも苦痛であるのに、離れることができない。  そして、おれは、ついに決心をしたのだった。  丹龍よ、おまえを捜し出し、あの時やりそこねたことを、もう一度やろうとなあ。  馬鹿が。  泣いてなどおらぬ。  今さら涙など枯れ果てたわ。  この広い大陸を、我らは、おまえを捜して歩き続けたのじゃ。地の果てから地の果てに。  八年、捜した。  しかし、ぬしは、見つからなかった。  死んだかとも思うた。  何度も、もう、おまえはこの世に生きてはおらぬとあきらめかけた。  だが、そのたびにおれは、そういう考えを心の中から打ち消した。  おまえは、生きている。  丹龍が、死ぬわけはない。  何故なら、このわしが、このおれがまだ生きながらえているからじゃ。このおれが生きているのなら、丹龍よ、ぬしも生きている。  おまえが、死ぬわけはない。  そうして、長安にもどってきたのが十二年前ぞ。  ぬしが、どこに生きているにしろ、生きているのなら、いつか必ずやってくるのが、この長安ぞ。  自分の死ぬるのを悟った時、必ず思い出すであろう。  長安のことを。  あの日々のことを。  そして、ここへやって来る。  そうせずにはおられぬはずじゃ。  それが、おれにはわかる。  何故なら、このおれがそうだからよ。  このおれがそうなら、おまえもそうだということじゃ。  長安で、待った。  名をドゥルジとかえて、胡人《こじん》相手に技を売って暮らした。  待ち続けた。  待つうちに、齢を重ね、歳を重ね、わしも老いた。  十年、わしは待った。  さすがに、もう、ぬしは死んでいるかと思いかけもした。  そして、わしは、待つことをやめたのじゃ。  丹龍よ、ぬしを、長安へ呼びよせることにしたのじゃ。  我が相手は、この大唐国の朝廷よ。  呪《しゅ》によって、大唐国の王を、滅ぼそうとしたのじゃ。  大唐国の皇帝を、呪詛《ずそ》したてまつれば、それは、必ずや、ぬしの耳にも青龍寺《せいりゅうじ》の耳にも届くはずであろうとな。届けば、わかる。必ずわかる。誰が、皇帝を呪詛しているのかがな。  この地に、かつてない強大な呪詛がかけられていたのを、おまえも知っていよう。  丹龍。  我らは、師の黄鶴から、かつて、それを教えられたではないか。  この地下に造られた、呪詛の大結界のあることを。  始皇帝《しこうてい》が、一千年前に作らせた呪《しゅ》よ。  我らが師は言った。 「いつか、大唐帝国と戦う時あらば、この呪を使え」  とな。  その強大な呪に満ちた結界の中に、我らが造りし、俑《よう》を埋め、その強大なる呪を俑に移したではないか。  あの時、我らが埋めたのは、あの地下に眠る無数の俑に似せて作ったものじゃ。  あの時我らが埋めたその俑を地下より呼びいだし、呪をかけて使えば、必ずや、ぬしの耳に届くであろう。  誰が、それをやっているか、この世の誰にもわからなくとも、丹龍よ、ぬしだけには必ずわかるはずじゃ。  わが呪にて死ぬる人間が、五十年前のあの件に関わる者たちであれば、必ずやおまえにはわかるであろうとな。  劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷で怪異をおこしたのも、あそこの家の人間が、馬嵬駅でのことに関係があったからぞ。  そして、おまえは、ここにやってきた……  これに、思わぬ人間が、入り込んだ。  それが、今、そこにいる空海よ。  倭国から来た不空《ふくう》の生まれ代わりじゃ。  不空の死んだ日に、この空海は生まれたという話ぞ。  つまり、今宵《こよい》正しく我らは五十年前のあの時と同様に、ここに集うたというわけじゃ。  さあ、飲め。  空海よ。  いや、不空よ。  丹龍よ。  楊玉環よ。  李白よ。  高力士よ。  玄宗よ。  多くの者たちは死んだが、我らがまだ生きておる。  生きて、この華清宮に集うておる。  さあ、飲め。  今宵は、我ら五十年の宴ぞ——        (三)  白龍は、涙をぬぐわなかった。  眼からこぼれた涙は、皺《しわ》を伝い、頬を下り、袖を濡らした。 「何が、望みだ、白龍——」  丹翁が問うた。 「望み?」  白龍が、濡れた眼を丹翁に向けた。 「ああ、何を言うのか。何ということを訊《き》くのか、丹龍よ」 「——」 「わかっているであろうが。訊かずともわかっているであろうが——」 「——」 「我らがここで会《お》うたは、五十年前のあのことに決着《きま》りをつけるためぞ」 「決着《きま》り?」 「わかっておるくせに、ああ、丹龍よ、わかっておるくせに、何故、訊ねる。何故問うのじゃ。このおれが死ぬるか、おまえが死ぬるか、それをこれから決めるのじゃ」 「——」 「生き残った方が、楊玉環を殺し、その後、自ら喉《のど》を突いて死ねばよい」  白龍は言った。  声はない。  丹翁も、空海も、そして、白楽天も、楊玉環も、口を開かない。 「わしは、もう、生きるに飽いた……」  ぽつりと、白龍は言った。 「哀しむにも、飽いた……」  乾いた、低い声であった。 「恨むことにも、もう、飽いた……」  篝り火を燃やしている鉄籠《てつかご》の中で、火の粉がはぜた。  花の香《か》が、夜気《やき》に溶けている。  楊玉環は、月を見あげている。  沈黙の中で、ただ白龍の声だけが響いている。 「あとはただ、決着《きま》りをつけたいだけぞ……」  白龍がそう言った時——  最初に、異変に気づいたのは、空海と丹翁であった。  空海と、丹翁が、同時に顔を転じて、池の方角に視線を向けた。  続いて、白龍がそれに気づいた。 「む」 「む」  空海と丹翁が、池を見ていた。  その池の面《おもて》で、月光がきらきらと動いていた。  風の揺れではなかった。  風ではない別のものが、池の水面に細かなさざ波を立てていたのである。 「どうしたのだ、空海——」  逸勢《はやなり》が、空海を真似るように、視線を池の方に向ける。  白楽天も同様に池に眼を転じている。  麗香《れいか》もそうだ。  楊玉環だけが、月を見あげている。  ねええええ…………  それまで、静かにそこにいるだけであったあの黒猫が、鋭く鳴きあげた。  ぽちゃり……  ぽちゃり……  という、微《かす》かな水音が響いてくる。  何かが、水の中に身を投ずる時の音のようであった。  月光の下——  池の向こう岸の草の中で、何かが蠢《うごめ》いている。  ひとつやふたつのものではない。  無数の気配——  夥《おびただ》しい数の何かであった。  いやな、耳に障《さわ》るような音が、風に乗って微かに届いてくる。  湿ったもの。  小さな虫のようなもの。  そういうものが、数十となく、数百となく、数千となく、動く音。  ひとつずつの音であれば、けして聴こえぬほど微かな音であるのに、数のあまりの多さによって、それが、気配という以上の音となって届いてくるのである。  体毛が、ぞくぞく立ちあがってくるような気配。  それらが、向こう岸から近づいてきて、池に身を投じている。  ぽちゃり……  ぽちゃり……  飛び込む音ではない。  這うように、まるで、蛇が水の中に入る時のように——  池に身を投じたそれが、ゆっくりと、こちらの岸に向かって泳いでくる。  近づいてくる。  それが、水面の波紋となって、月の光を揺らしているのである。 「な、何なのだ——」  逸勢は、膝立ちになっている。 「わからぬ」  空海は言った。  片膝を立て、 「丹翁殿、白龍殿、これは、おふたかたが何かをされているのですか!?」  空海は問うた。 「いいや」 「これは、わしが技《わざ》ではない」  丹翁と、白龍が答えた。  波紋が、近づいてくる。  ついに——  波紋が、こちら側にたどりついた。  ずるり、  ずるり、  と、何かが、次々と岸に這いあがってくる。  湿った音をたてて、それらがこちらの岸の上に立ちあがる。  強い腐臭が、空海の鼻をついた。 「これは!?」  空海は、声をあげた。  月光の中に立ちあがってくるそれらを見て、ようやく、空海はそれが何であるかを理解していたのである。  首の無い犬。  はらわたを、裂かれた腹から引きずっている犬。  頭の無い蛇。  虫。  蟇《ひき》。  牛。  馬。  あの、長湯の中で死んでいたものたちであった。        (四) 「これは、わしが技《わざ》に使うたものたちじゃ」  白龍が言った。  それは、白龍が皇帝を呪詛するために使ったものたちであった。  犬の首も、水から上がってきた。  岸の岩や、草に歯をあて、地を噛《か》みながら這い上がり、歯で這い寄ってくる。  犬の頭の多くは、自らの胴に啖《くら》いついている。  首の失《な》い犬の胴は、自分の毛皮にその頭をぶら下げて歩いてくるのである。  その犬の頭に、さらにまた、自らは這うことのできない蛇の頭が幾つもぶら下がっている。蛇の頭は、その頭に噛みつき、ぶら下がることで、ここまでやってきたのである。  馬や、牛の、巨大な影もその中に混ざっていた。  腐って腹から垂れ下がった腸を引き摺りながら、首の失い牛が近づいてくる。  鬣《たてがみ》に、無数の犬の首をぶら下げた馬が、近づいてくる。  どの犬の首も、ぎらぎらとした眼を、空海たちに向けている。  その眸《め》が、月光の中で、妖しい光を放っている。  黒猫は、全身の体毛を逆立てて、それらを睨んでいる。 「白龍よ、これは、本当にぬしが技ではないのだな」  確認するように、丹翁が言った。 「違う。わしは何もしてはおらぬ」  白龍が言った。 「く、空海——」  逸勢が、高い声をあげて、立ちあがっていた。 「動くな、逸勢」  空海は言った。 「おれの作った結界《けっかい》から、外へ出るな」 「な、な——」  逸勢は、どうしてよいかわからぬように、そこでもどかしそうに足踏みをして、空海をすがるように見やった。 「この、我らが宴《うたげ》の席の周囲には、結界が張ってある。呪《しゅ》によって動くものは、この結界の中へは、入ってくることができぬ」  空海は、落ち着いた声で言った。 「け、結界!?」 「そうだ。中にいる者が、まねかねば、あれが中に入ってくることはない」  空海が言ったときには、篝り火のすぐ先あたりに、犬の群がたどりついていた。  炎の灯りの中で、首だけになった犬たちが、おうおう吠える。  腹に溜めた息を、喉から外へ送り出すことができぬため、その犬の吠える声は、しゅうしゅうという、擦過音にも似ていた。  吠えると、噛んでいた毛皮から顎《あご》がはずれ、首が地に転がり落ちる。  地に落ちた首が、かつんかつんと歯を噛み鳴らしながら、わずかな呼気で、吠える。  口を大きく開けば、喉の奥まで空気が入るため、そのわずかな空気を使って犬の首は吠えているのである。  おう、  おう、  と吠《な》く犬たちが、次第に数を増して、結界に守られた絨毯《じゅうたん》の周囲を、ひと重、ふた重と囲んでゆく。  絨毯の手前で、犬たちは、くやしそうに身をよじり、首は、かつんかつんと歯を噛み鳴らした。  その足元を、首の失い蛇たちが蠢《うごめ》く。  しゃー  しゃー  黒猫が、警戒するような声をあげる。  黒猫が、走って逃げようとした。  黒猫に、犬の首が襲いかかる。  ひとつ、ふたつ、みっつまでは、猫は身をかわしたが、ついに四つめの犬の首に噛みつかれてしまった。たちまち、幾つもの犬の首に襲われ、猫はそこで噛み殺されていた。 「く、空海——」  逸勢が、助けを求めるような眼で空海を見ていた。 「まあ、座れよ、逸勢」  空海は言った。 「長い夜になるやもしれぬが、いずれは朝までのこと——」  そう言って、空海は玉蓮《ぎょくれん》を見た。 「玉蓮|姐《ねえ》さん、何かひとつ弾いていただけませんか。胡《こ》の曲がいいかもしれません——」 「え、ええ」  気丈に玉蓮はうなずき、持っていた月琴《げっきん》をあらためて抱えなおした。 「では、�月下の園�という曲を——」 「どういう曲なのですか」 「胡の国の王が作った曲と言われています。愛しいお方が去ってしまい、お嘆きのあまりに死んで花になってしまった姫のことを曲にしたものです」 「ほう」 「愛しいお方が帰ってくるように、毎年姫は庭に美しい花を咲かせるのですが、そのお方は帰ってこないのです。国は亡《ほろ》び、民もいなくなってしまっても、まだ、その庭には時期になれば姫が美しい花を咲かせるのですが、もう見るものは誰もおりません。百年、二百年たって、その庭いっぱいに咲いているその花を、夜にただ月の光だけが照らしているという、そういう曲でございます——」 「ぜひ」 「はい」  玉蓮はうなずいた。  弾きはじめた。  ほろほろと、玉蓮の抱えた月琴が鳴りはじめた。  玉蓮が、低い声で、唄った。  胡の言葉であった。  逸勢が、ようやく腰を下ろした。 「おい、空海、正直に答えてくれ」  逸勢の声には、少し落ちつきがもどっている。 「丹翁どのでもなく、白龍どのでもない。まさか、これは、おまえがやっているのではあるまいな」 「おれが?」 「今日、長湯へおまえはおれたちと一緒に行ってあれを見ている。その時に、おまえ、何かしたということはないか」 「まさか」 「おまえは、時々、こういうことをするではないか」 「おれは、しておらん」 「わかった」  逸勢はうなずいた。 「おれも、おまえがこれをしたと思っているわけではない。訊いておきたかっただけだ」  逸勢は、覚悟を決めたように、あたりを見回して、溜めていた息を吐いた。 「さて、さきほども申しましたように、長い夜になるやもしれませぬ。宴の続きをいたしましょうか」  空海が言った。 「それはよい思案じゃ」  丹翁が、笑みを浮かべて言った。 「では空海よ、酒をまたいっぱい注いでもらおうか——」  丹翁が、盃を手に持って差し出した。  それに、空海が酒を注いだ。 「わしももらおうか」  白龍が、同様に盃を手にして差し出した。 「では——」  空海が、白龍の盃にも、酒を注ぐ。  その横では、麗香が、白楽天と逸勢の盃に酒を注いでいる。 「さて、空海よ」  丹翁が言った。 「はい」 「ぬしは、これを何と見る」 「はて——」  空海は、白龍を見やり、 「呪に使ったあのものたちが、夜になって自然にあのように動くこと、あり得ましょうや——」  そう訊いた。 「なくはなかろう」 「それは?」 「誰かが、あれに呪をほどこしたのでなければ、あれらは、自らが意をもって動いたということもあり得ような」 「ははあ」 「人も、恨み深くば、死して鬼《き》となり祟《たた》りをなす」 「あのものたちも?」 「まあ、そういうこともあるということだな——」  白龍は言ったが、自分で自分の言ったことを信じてはいない口調であった。 「他には?」 「考えられるのは、青龍寺《せいりゅうじ》——」  白龍が言うと、 「なるほど、そういうことですか」  空海はうなずいた。 「ま、恵果《けいか》ならやりかねぬな」  丹翁が言った。 「何のことですかな、その青龍寺というのは?」  白楽天が、空海に訊ねた。 「あれを使って、こちらの白龍どのが、皇帝を呪詛し、それから皇帝を守ろうとしたのが、青龍寺の恵果和尚さま——」 「——」 「恵果さまが、何かの修法をお使いになって、呪詛をこちらに返したのではないかと、おふたりはそうおっしゃっておられるのです」 「呪詛の返し?」 「ええ」  空海はうなずいた。 「そうなのですか」 「わかりません」  空海は、首を左右に振ってから、丹翁を見やった。 「わからぬが——」  丹翁はそう言って白龍を見た。  何か、問うような眼であった。  白龍は、盃の酒を飲み干し、 「知る方法はあるということだ」  そう言った。 「あるのですか、その方法が」  白楽天が訊く。 「ある」 「どのような?」 「このわしと、他の誰かが、結界の外へ出てみればよいのさ」 「外へ」 「もしも、これが青龍寺が返してよこしたものなら、向こうへ呪を送ったこのわしをあれらは襲ってくるであろうということさ——」 「白龍どのを!?」 「うむ」  静かに、玉蓮の声と、月琴の音が響いている。  その音に、耳を傾けるように眼を閉じ、やがて、白龍はその眼を開いた。  白龍は、盃を置いて、 「では、試してみるとするか」  そう言って立ちあがった。 「いや、白龍どの、わたしはそういう意味で問うたのではありませぬ」  あわてて、白楽天が言った。 「いや、問われるまで、それしか方法はなかろうと思うていたのだ」 「しかし、このまま朝まで待っても……」  白楽天の言葉を遮るように、 「もうひとりは、このわしがゆこうか——」  立ちあがったのは、丹翁であった。 「丹翁老師——」  空海が、丹翁を見た。 「わしが、適任じゃ、空海」  覚悟を決めた口調で、丹翁は言った。        (五)  その時、からからという笑い声があがった。  立ちあがった丹翁と白龍が、誰かと見やれば、笑っているのは空海であった。 「何故、笑うか、空海」  訊ねたのは、丹翁であった。 「丹翁様、白龍様——」  空海は、正座をし、両の手を膝の上に軽く載せている。 「あのようなものたちの中へ、生身のお身体で出てゆくというのは、あまりのご短慮というものではありませぬか」 「ほう」  立ったまま、空海に向きなおったのは、白龍であった。 「ぬしに、何か策があるというか、空海よ——」 「ござります」  空海は、平然として言った。 「言うてみよ、空海」 「白龍様、我らは何でござりまするか」 「我ら?」 「あなたさまも、丹翁様も、そしてわたくしも、呪《しゅ》の徒《と》でござりましょう」 「うむ」 「あれに見えているものたちは、その呪によって動くものにござります」 「で?」 「なれば、我らも呪によって、あのものたちと闘うのが、筋というものではありませぬか」 「いかにも、ぬしの言う通りじゃ、空海よ」  うなずいたのは、丹翁であった。 「策を申せ、空海よ」 「難しいことではありませぬ。おふたりも充分に御承知の技《わざ》でござります」 「ほう」 「おふたりの、お髪《ぐし》をいただけますか」  空海が言うと、 「なるほど」 「そういうことか」  丹翁と白龍が納得したようにうなずいた。 「では、ぬしがそれをやるということか」  丹翁が言った。 「はい」  空海が、うやうやしくうなずいた。 「これはおもしろい。ぬしが技、見せてもらおう」 「うむ」  丹翁と白龍が、再び座して、自分の髪の一本を抜き、それぞれ空海に手渡した。  空海は、懐より一枚の紙を取り出し、それを折って、中にふたりの髪をはさんだ。 「では」  空海は、さらに懐から紙を取り出し、帯に差していた刃渡り五寸ほどの小刀を抜き取った。  左手に紙を持ち、右手に握った小刀で、紙を切ってゆく。  何かのかたちを切り出しているようであった。  丹翁も白龍も、空海が何をしようとしているか充分にわかっている様子で、唇に笑みを浮かべながら空海の手元を見つめている。 「できました」  空海が、紙から切り出したのは、ふたつの人のかたちであった。空海は、人を、その紙から切り出していたのである。 「それは何なのだ、空海よ」  訊ねたのは、逸勢であった。 「人形《ひとがた》さ」  空海は言った。 「見ての通りのものだ」  空海は、丹翁と白龍を見やり、 「これは、御国からわが日本国に渡ってきた技でござりまするが……」 「魘魅《えんみ》じゃな」  白龍が言った。 「はい」  空海はうなずいた。 「わが国では、陰陽師《おんみょうじ》と申す連中が、これをよく使います」 「ほう」 「せっかく、おふたりがここにおられるのですから、これにお名をいただけますか」  空海は、白龍と丹翁に、一枚ずつ紙の人形《ひとがた》を渡した。 「その刀を渡せ」  白龍が言った。  空海が渡した抜き身の小刀を手に握り、それに、左手の人差し指の先をあて、ぷっつりと皮一枚を浅く切った。 「どうせ書くのなら、自らの血で書く方が効果があろうよ」  血がふくらんできた指先を人形にあて、そこに白龍は自分の名を書いた。 「では、わしも白龍にならうとしようか」  丹翁は、白龍から小刀を受け取り、同様に刃で指先に傷をつけ、血文字で手にした人形に自分の名を書き入れた。 「これでよかろう」 「受け取れ、空海」  丹翁と白龍が、空海に、自らの血で名を書き入れた人形を渡した。 「確かに——」  人形を受け取った空海は、ふたつに折っていた紙を開き、 「こちらが丹翁様」  一本の髪の毛を取り出し、丹翁の名が書かれた人形の首に、それを縛りつけた。 「こちらが白龍様」  空海は、白龍の人形にも同様のことをした。 「では、どちらからまいりましょう?」 「わしからじゃ」  白龍が言った。 「わかりました」  空海は、白龍と書かれた人形を左手に持ち、右手の指先を、その人形の上に乗せ、低い声で何かの呪《しゅ》を唱えた。  唱え終えると、それにふっと息を吹きかけ下に置いた。  ちょうど、人形の足が地面に触れ、立っているような状態にして、持っていた左手を離した。  普通であれば、手を離したら倒れてしまうにもかかわらず、その人形は倒れなかった。 「おう」  逸勢が声をあげた。  皆の視線が注がれる中で、その人形が、絨毯の上を歩き出したからであった。  その人形は、絨毯の端まで歩いてゆき、その端からそのまま結界の外に歩み出ていった。  と——  白龍の人形が結界の外へ出た瞬間、ざわっと、異形《いぎょう》の犬の首や胴たちがざわめいた。  たちまち、わらわらと犬の首が集まってきて、その人形を噛み、裂き、ぼろぼろにしてゆく。  人形のあったあたりは、犬の首や胴が重なりあって、奇怪な肉の小山のようになった。  その小山が、もぞもぞと動いている。  小山は、なかなか小さくならなかった。  裂いた紙片を、犬が呑《の》み込む。しかし、呑み込んだそれが、すぐに首の切り口から外に出てきてしまう。それをまた、別の犬の首や、蛇などがねらって動く。  小山の中で、それが繰り返されているらしい。 「なかなかの見ものじゃな」  白龍は言った。 「では、次は丹翁様」  空海は言った。  丹翁の人形を立て、空海がぽんと手を叩くと、それが歩き出した。  結界の外へ出た途端、白龍の人形の場合と同じことが起こった。  無数の犬の首や、蛇などに襲われ、もうひとつの肉の小山がそこにできたのである。 「どうやらこれは、青龍寺からの呪詛返しの分ではございませぬな」  空海は言った。  もしも、青龍寺からの呪詛返しによってこれが起こっているなら、丹翁の人形よりも、白龍の人形に、より多くの犬の首や胴、蛇の頭は襲いかかるはずであった。しかし、どちらも、同じくらいで、襲いかかるものの数には差がないように見えた。 「そのようじゃ」 「うむ」  白龍と、丹翁がうなずいた。 「空海さん、それでは、これはいったい——」  白楽天が言った。 「見当がつきませぬ」  空海は、白龍と丹翁をまた見やった。  その時—— 「く、空海——」  声をあげたのは、逸勢であった。  逸勢は、池の方角を指差していた。  空海は、そちらへ頭をめぐらせた。  すぐに、逸勢が、何を見て声をあげたのかわかったからである。  ちょうど、篝り火が燃えているその向こう——月光の中に、人が立っていたのである。  大きな人影であった。 「た、大猴《たいこう》」  逸勢が言った。  たしかに、それは大猴であった。  大猴が、ようやくもどってきたのである。 「空海先生、これはいったい」  大猴が声をあげた。  その大猴に、犬や蛇が、もう群がっている。  脛《すね》や、足首に、犬の首が噛みついている。  それを、大猴は、足を蹴りあげて跳ねとばしている。  着ているもののあちこちに犬の首は噛みついており、裾には、幾つもの丸いものがぶら下がっている。  布に噛みついた犬の首であろう。  その、裾にぶら下がった犬の首をつかみ、もぎはなして、大猴がそれを投げ捨てる。  こちらへ近づこうとしているらしいが、あまりにも、犬や動物の屍体《したい》が多く群がってくるため、動けないでいる。 「大猴!」  逸勢は、声をあげた。 「こいつら、いったい何なんですか」  叫びながら、大猴が近づいてくる。  大猴の、手や、足には、夥《おびただ》しい数の噛み跡がついて、そこから血が流れていた。  肉の山の中から、ふいに、首の無い牛の屍骸が立ちあがり、大猴に覆い被さってゆく。  両手で、それを抱え、大猴が向こうへそれを投げ捨てる。 「く、空海、なんとかならんのか——」  逸勢が言う。 「まて、逸勢、今——」  空海がそこまで言った時—— 「急げ、大猴。早くこっちへ来い!!」  逸勢が叫んでいた。  その瞬間—— 「馬鹿!」  空海が、逸勢の口を右手で塞《ふさ》いだ。 「あれをまねいてはいかん」  空海は、叫んでいた。 「な、な——」  逸勢は、信じられぬような眼で、空海を見た。 「今、何と言った。空海——」  空海は、静かに首を左右に振った。  逸勢は、大猴を見やった。  大猴は、もう、すぐ眼の前まで来ていた。  結界のすぐ外側に立ち、逸勢を見やり、にんまりと、嬉しそうに笑ってみせた。  大猴が、その巨体を揺らしながら、結界の中に入ってきた。  大猴の腰に、まだ、ひとつだけぶら下がっているものがあった。  それは、犬の首ではなかった。  人の首であった。  人の首が、そこにぶら下がっていたのである。  その首の髪の毛を、帯にはさんであった。  大猴は、その髪の毛を掴《つか》み、左手で高く頭上に掲げた。  麗香が、高い悲鳴をあげた。  子英《しえい》の首であった。        (六)  白龍は、懐から二本の針を引き抜いて、それを両手に握った。  丹翁は、さきほど指を傷つけるのに使用した小刀を握って構えていた。  すでに、ふたりとも立ちあがり、浅く腰を落として身構えている。 「空海よ、この男、殺してもかまわぬな?」  低い声で言ったのは、白龍であった。 「殺すがよい……」  空海が、口を開く前に、大猴がそう言った。 「勝手に殺しあえ」  大猴は、にんまりと嗤《わら》っている。 「大猴ではありませぬ」  その時、空海は言った。 「な、なに!?」  逸勢は、声をあげた。 「この男、肉は大猴ですが、心は大猴ではありませぬ。何者かに操られております」  く、  く、  く、  と、大猴が含み笑いをする。  その笑い声が、大きくなってゆく。 「み、見ろ、空海——」  逸勢が、大猴の後方を指差した。  犬の首や、牛の死骸《しがい》が、月光の中で蠢《うごめ》いている。  その中へ、ゆっくりと闇の中から姿を現わしたものがあった。 「あれは!?」 「俑《よう》じゃ!」  白龍と丹翁が、同時に声をあげた。  確かに、それは、俑であった。  空海も、逸勢も、見たことがある。  徐文強《じょぶんきょう》の綿畑で見た、あの兵士の俑である。  その俑が、悠々と歩きながら、近づいてくる。 「あれを動かすことなぞ、我ら以外には——」  白龍が言った。  その時—— 「かああっ」  大猴が、子英の首を投げ捨て、掴みかかってこようとした。 「しゃっ」  白龍が、手に持っていた針の一本を投げた。  長さ八寸ほどの針が、大猴の喉《のど》に突き立っていた。 「むう」  首をひとめぐりさせ、眼球をぐると回して、大猴は、白龍を睨《にら》んだ。 「かかったな……」  大猴が、別の人のような口調で言った。 「大猴《こやつ》は橋ぞ——」  そうつぶやき、大猴は、ゆっくりと仰向けに倒れていった。 「しまった!」  声をあげたのは、空海であった。 「た、大猴——」  駆け寄ろうとする逸勢を、空海が止めた。 「もう、遅い」 「遅いとは、どういうことだ。しまったと言ったが、それはどういう意味ぞ、空海!?」  逸勢が、夢中で叫ぶ。 「もう、橋が掛かってしまったということさ——」  空海は、仰向けに倒れた大猴の巨体を見つめながら言った。 「橋だと?」 「橋だ」  空海は言った。  大猴は、ちょうど、絨毯《じゅうたん》の上からその外側——おぞましい獣の屍骸の群れる中へ、仰向けに倒れていた。  下半身が絨毯の上——こちら側に残り、上半身が、妖しの獣の群の中にある。  これはつまり、結界の内側に大猴の下半身があり、結界の外側に大猴の上半身があることになる。  つまり、結界の内側から外側に、橋が掛かってしまったということであった。  その橋は、大猴の肉体であった。 「見よ」  空海は、言った。  おそろしいことがおこっていた。  外側の、大猴の身体の上に、もぞり、もぞりと、犬の首や、はらわたが、這い登ろうとしていた。  そして、大猴の身体の上に這い登ったそれらは、大猴の身体の上を這い、こちら側へ入ってこようとした。 「な、な——」  逸勢は、絶望的な声をあげた。  周囲の、犬の首、はらわた、頭のない蛇——それらのものが、一斉に、ただひとつ掛かったその橋目がけて、じわじわと集まってこようとしていた。 「た、大猴の身体を向こう側へ——」 「無駄だ、逸勢——」  空海は、首を左右に振った。 「一度橋が掛かってしまった以上、もうその手は効かぬ」 「わしとしたことが、ぬかったわ」  そう言いながら、白龍は、天を見あげた。 「逃ぐるとすれば、上か……」 「上」 「うむ」  白龍は、数歩動いて、そこに立ち止まった。  白龍の足元に、縄が落ちていた。  しばらく前、白龍が天から降りてくる時に使った縄であった。 「これを使おう」  白龍は、縄の一方の端を右手で拾いあげ、縄に唇をあてて、小さく呪《しゅ》を唱えた。  右手を離す。  しかし、縄の端は、地には落ちなかった。  宙に浮いたままだ。  白龍が、また小さく口の中で呪を唱えた。  と——  宙に浮いていた縄の端が、するすると天に向かって上《のぼ》りはじめた。 「く、空海、来るぞ!!」  逸勢が叫ぶ。  もう、犬の首のひとつが、大猴の身体の上から、絨毯の上に這い降りていた。 「むう」  丹翁が、足を使い、その首を結界の外へ蹴り出していた。 「わ、わたしも」  白楽天が駆け寄り、這ってきたはらわたを、琵琶《びわ》で外に掻《か》き出した。 「おれも、おれもやる」  逸勢が、また、入り込もうとしていた犬の首を、足で外へ蹴り出した。  麗香と楊玉環は、座したまま、動かない。  麗香が、楊玉環を背後に庇《かば》うかたちになっている。  玉蓮は、膝立ちになって、入って来ようとしているものたちを睨んでいる。 「空海先生、あたしはどうしましょうか」  思ったよりも、落ち着いた声で、玉蓮は言った。 「筆を——」  空海が言った。 「はい」  声をあげて、玉蓮が、先ほどまで使っていた墨と筆を手に取って持ってきた。  すでに空海は懐から紙を取り出していた。  玉蓮から、筆を受け取り、空海はその紙に何やら書きはじめた。  その時には、もう、白龍が天へ伸ばした縄は、高く空の彼方《かなた》にまで上っていた。  頭上に、月がある。 「わしからゆく」  白龍が言った。 「麗香、上からわしが合図をしたら、あとから楊玉環を連れて登ってくるのじゃ」 「は、はい」  麗香がうなずいた。 「どうするつもりぞ」  犬の首を蹴り出しながら、丹翁が訊いた。 「ここから逃ぐるつもりさ」  白龍の手は、すでに縄にかかっている。 「なに」 「我らが登った後、ぬしらも登って来い。ぬしとのことは、ここを逃げてからきまりをつけようぞ——」  すでに、五尺、六尺と、白龍の身体は上に登っている。  俑は、すでにすぐそこまで近づいていた。  犬の首や、頭のない蛇などであれば、橋を渡ってくるくらいの数なら、なんとか外へ蹴り出したり、掻き出したりできる。  しかし、もしも、あの俑が入り込んできたら—— 「空海、まだか——」  丹翁が言った。  この結界を作ったのは、空海である。  だから、開いてしまった結界の一部をまた封ずるのも空海が一番よい。  空海のために、その時間を稼ごうとして、丹翁は今、犬の首を外へ蹴り出しているのである。 「できました」  何やら書きつけた紙片を持って、空海は立ちあがった。  霊符《れいふ》——  開いた結界を閉じるためのものだ。  俑が近づいてきて、橋に足を載せようとしたその時、空海は手に持っていたその霊符を大猴の脚の上に載せ、短く呪を唱えた。  俑が、動きを止めていた。  橋に、足を載せることができない。  何度か、俑は、結界の中へ入ってこようという動きを見せたが、入ってくることはできなかった。  俑だけではない。  蛇や犬の首なども、もう、橋を渡ってくることができなくなっていた。 「く、空海、やったぞ——」  逸勢が、そこにへたり込んでいた。  その時、天の一画で、不気味な叫び声があがった。 「ぬむぅう……」  続いて空から降ってきたのは、苦痛をこらえる呻《うめ》き声であった。 「お、おまえ、おまえは……」  空海も、丹翁も、天を見あげた。  月がある。  その月に向かって、真っ直《すぐ》に縄が伸びていた。  まるで、月から落ちてくるように、縄に沿って降ってくるものがあった。  音をたてて、それが絨毯の上に落ちてきた。  人だ。  血まみれの、白龍であった。  その胸の中心に、短剣が突き刺さっていた。 「白龍さま」  麗香が、白龍に駆け寄った。  天に、不気味な声が響いた。  蝦蟇《がま》の鳴くような声。  ぐむっ、  ぐむっ、  ぐむっ、  ぐむっ、  それは、蝦蟇の鳴く声ではなかった。  それは、人の声であり、笑い声であった。  何者かが、天のどこかで笑っているのである。 「今、ゆく……」  低い、しわがれた声が、天から届いてきた。  そして、また、笑い声が響く。  ぐむっ、  ぐむっ、  ぐむっ、  ぐむっ、  その笑い声が、ゆっくりと天から近づいてくる。 「あれを!?」  玉蓮が、縄の上方を指差した。  指差されるまでもない。  皆に、それは見えていた。  月の中から、何者かが、天へ伸びた縄を伝って降りてくるのである。  ゆっくり、ゆっくりと。  点のように小さかったその姿が、だんだんと大きくなってくる。  それは、人であった。  しかも、その人は、縄を手で握って降りてくるのではなかった。  垂直に、真っ直上に伸びた縄を、歩いて降りてくるのである。  顔を真下に向け、一歩、一歩と、水平に渡された縄の上を歩くようにして、その人物は天から縄を下ってくるのであった。  老人であった。  まるで、猫のごとくに小さく縮んだ老人であった。  背が曲がり、頸《くび》が木の棒のごとくに細い。  頭は禿《は》げあがり、白髪がわずかに耳の周囲にからんでいるだけであった。  顎髯《あごひげ》の方が長い。  その白髪と、顎髯が、風の中でなびいている。  黒い、ぼろぼろの道服のごときものを身にまとっていた。  細い素足で、足の指で縄を掴みながら、月光と風の中を、その老人は縄を歩いて下ってくる。  その姿が、だんだんと大きくなり——  絨毯の上に降り立った。  小さく背が曲がり、ほとんどしゃがんでいるようにしか見えない老人であった。 「久しぶりじゃのう、丹龍……」  低い、消えそうな声で、老人は言った。  丹翁は、喉の奥で、声をつまらせた。  丹翁は、すでに、その老人が何者であるかわかっているらしい。  しかし、それを声に出せないのである。 「黄鶴《こうかく》じゃ……」  老人は言った。  歳を経た老人であった。  八十歳——  九十歳——  いや、もう、とうに百歳は越えているように思われた。 「黄鶴さま」  ようやく、丹翁がその老人の名を口にした。 「ようやっと会えたのう……」  その老人——黄鶴は言った。        (七) 「ま、まさか——」  丹翁は、舌がもつれたかのように、言葉をうまく発することができなかった。  このような丹翁を、空海も初めて見る。 「な、亡くなられたのでは——」 「亡くなっただと?」  掠《かす》れた声で、黄鶴は言った。 「いつ、このわしの屍体を見た。どこでこのわしの屍体を見たというのじゃ……」  骨に、皮を被せたような姿の老人は、数本しか残っていない、黄色い歯を剥《む》き出して嗤《わら》った。 「しかし、歳が……」 「歳じゃと?」  黄鶴が、唇を吊りあげる。 「歳が何だというのじゃ。歳も、時も、何もかも、全てを越えるのが、方術士よ。我が秘法よ」  黄鶴は、懐から、つうっと長い一本の針を取り出した。  それが、月光の中で、鈍く光る。 「では、あの秘術を?」 「おう」  黄鶴が声をあげた。 「あの時、楊玉環に施した秘術を、わしは、我とわが身に施したのさ」 「尸解《しかい》の法……」 「いかにも」  黄鶴が、うなずいた。  かつて、黄鶴自身が、楊玉環に施した法であった。  尸解|丹《たん》を飲ませ、首の後ろより針を刺し込んで、人の生理を極端に遅くする法である。 「し、しかし……」  丹翁は、言葉を詰まらせた。  何をどう問うていいのか、その言葉が出てこないようであった。 「何故、おひとりで、それができたのですか?」  丹翁の代りに問うたのは空海であった。 「ほう……?」  黄鶴は、空海を見やった。 「尸解丹を飲み、針を刺すのは、なんとかひとりでもできましょう。しかし、その後、目覚めるためには誰かがその針を抜かねばなりません」 「おまえ、尸解の法を知っておるのか」 「はい」 「名は?」 「空海と申します」 「大猴から聴いた。倭国《わこく》から来た僧とはぬしがことか……」 「はい」 「晁衡《ちょうこう》の国の男じゃな」 「不空《ふくう》様の亡くなられた年に、倭国にて生まれました」 「おう、不空か。これはなつかしい名を耳にする……」  黄鶴は、その場で、ゆるりと周囲を見回した。  荒れ果てた、華清宮《かせいきゅう》の庭であった。  月光の中で、牡丹《ぼたん》が咲き乱れている。  宴の仕度がされており、篝《かが》り火《び》も燃えている。  その周囲を囲んでいるのは、異形のもののけたちである。 「ここに、我らは集《つど》うたのじゃ。玄宗《げんそう》がいて、楊玉環がいて、晁衡がいて、高力士がいた。李白めもおった。そして、不空も……」  黄鶴の眼が、華清宮を舐《な》めるようにさまよった。 「皆が皆、腹に一物持ってはいたが……」  そこで、黄鶴は、声をつまらせた。 「……華やかであった」 「——」 「華やいでいて、皆、生きていた」 「——」 「今は、誰もおらぬ……」  黄鶴がつぶやいた時、倒れていた白龍が、低い呻き声をあげた。 「白龍……」  丹翁が、歩み寄って、 「まだ、生きている」  その頭部を抱えた。 「殺しはせぬ……」  黄鶴が、つぶやく。 「まだ、積もる話もしておらぬのじゃ。その話が済むまではなあ……」  麗香が、白龍に歩み寄って、胸に突き立っている短剣に手を掛けようとすると、 「抜くなよ」  黄鶴が言った。 「抜けば、血が溢れて、早う死ぬ。その短剣は血止めじゃ……」  黄鶴が、嗤った。  白龍が、ようやく、眼を開いた。 「黄鶴さまの言う通りぞ。いずれは助からぬ生命《いのち》、手当ては無用じゃ」  白龍が言った。  救いを求めるように、麗香が空海を見やった。  空海は、首を左右に振るでもなく、うなずくでもなく、麗香を見やり、 「白龍殿の御心《おこころ》のままに……」  そうつぶやいた。  丹翁が、白龍の頭を、自分の膝の上に乗せた。 「続けよ……」  白龍が、消えそうになる呼吸と共に言った。  空海は、あらためて、黄鶴を見やった。 「先ほど、大猴から聴いたと言われましたか」  空海が問う。 「言うた」  黄鶴が答える。 「すると、大猴は……」 「我が僕《しもべ》じゃ」 「なんと!?」  声をあげたのは、空海だけではなかった。  逸勢も、白楽天も、一緒に声をあげた。 「わしはな、この五十年、ずっと尸解の法で眠り続けてきた……」  乾いた声で言った。 「目覚めるのは、十年に一度。今度で五度目の目覚めよ」  何か、問う者があるかというように、黄鶴は、一同を見回した。  声を発する者はない。  皆、黄鶴の次の言葉を待っている。 「目覚めるのに、人を使った。わが方術をもちて、その人を操ったのさ。十年たつと、我が元へやってきて、眠っているわが首から針を引き抜くようにな……」  黄鶴は、ゆっくりと腰を落とし、そこに座した。 「酒を……」  黄鶴が言った。  玉蓮が、瑠璃《るり》の盃を黄鶴に手渡した。  細い、枯れ枝の如き指で、黄鶴がそれを持った。  玉蓮が、その盃に、葡萄酒《ぶどうしゅ》を注ぐ。  黄鶴は、鼻を近づけ、その香りを嗅いだ。 「よき、香りぞ……」  盃を持ちあげ、縁に唇をあて、黄鶴はそれを飲んだ。  皺しかない喉の中で、喉仏が二度上下した。  黄鶴は、盃を絨毯の上に置き、指を離した。 「常の時は、わしに操られていることなど、知らぬのだが、十年経つと思い出す。思い出せば、我が元へやってきて、針を抜く……」 「もしも、その十年の間に、その者が死んでしまったら?」  空海は訊いた。 「わしは、一〇〇年ほども眠り続け、そして、干からびて死ぬであろうな。そうなったらそうなった時のことよ。わしの眠る仮の墓場が崩れて埋もれてしまえばそれまでじゃ。だが、できるだけ、そうならぬよう工夫はした……」 「どのような工夫を?」 「たとえば、あの大猴の如き、丈夫な者を操った。仮の墓も、人の気がつかぬ場所にした」 「——」 「たとえば、この華清宮じゃ——」 「ここ?」 「驪山《りざん》よ」  黄鶴が、微かに嗤ったように見えた。 「玄宗めが、楊玉環が蘇《よみがえ》った時、しばらく置くために、秘密の宮《みや》をこの驪山の山中に建てた……」 「——」 「さらに、その隠し宮の地下に、石で囲んだ隠し部屋まで設けたのじゃ。それを知る者は、五十年前、もう、おらなんだでな。このわしが、わが眠りの場所として使うたのさ」  黄鶴は、また、盃を手にした。  しかし、それを飲みはしなかった。  盃を持ったまま、その赤い酒の色を眺めた。 「それに、必要なものもあったのでな」  黄鶴は言った。 「必要なもの?」 「血じゃ」 「血?」 「眠っておる間に、十年もすれば、いかに脂《あぶら》を身体に厚く塗っておこうとも、水分がこの身より出てゆく。その水分を摂《と》り、食物も摂らねばならぬのでな」 「——」 「わしを目覚めさせた者は、わが目覚めの贄《にえ》じゃ」 「それは——」 「わしは、わしを目覚めさせた者を、そこで殺して、その血を啜《すす》ったのじゃ」 「なんと!?」 「そして、一年ほどを暮らし、また次に操る者を捜し出して、また十年を眠る。それを繰り返してきたのさ」 「しかし、大猴は?」  空海は訊いた。 「何故、大猴の血を啜らなかったと言うか」 「はい」 「もうひとり、贄となる男がいたでな」 「子英!?」 「そうよ。大猴の後を尾《つ》けてきた男がいたのでな、その男を、わしが、自らが手で殺してその血を啜ったのさ……」  玉蓮が、顔を歪《ゆが》ませて、持っていた葡萄酒の瓶《びん》を手から落とした。  中の液体が零《こぼ》れ、絨毯の上に染みを広げてゆく。 「それにしても、大猴から、この華清宮にぬしらが集まっていることを耳にした時は、驚いたぞ。ようやく、その時が来たかと思うたぞ」 「その時?」 「我らが、再び集う時じゃ」 「——」 「このために、わしは、生きながらえたのじゃ。このために、わしは、死ぬのをやめ、時を越えることにしたのじゃ。ああ、ここに来てみれば、白龍も丹翁も顔が揃うているではないか——」  黄鶴は、盃を、飲まないまま、また絨毯の上にもどした。 「玄宗を殺したは、わしぞ」  黄鶴は言った。 「そして、その子の粛宗《しゅくそう》を殺したのもわしじゃ」 「高力士殿も?」  訊いたのは、空海であった。  その顔を見、 「何か知っておるのか?」  黄鶴が訊いた。 「高力士殿が、晁衡殿にあてた文《ふみ》を読みました」 「おう」  黄鶴が声をあげた。 「読んだか。あれを読んだのか」 「はい」 「なれば、知っていよう。あやつは、朗州《ろうしゅう》にて病《やまい》に倒れ、そこでその文を書いたのじゃ」 「はい。高力士殿の文に、書かれておりました」 「あやつは、わしが手を下さなんだ。わしは、あやつが死ぬまでその姿を眺めていた——」 「看取《みと》る者は?」 「月光と、わしのみよ」 「——」 「天下の高力士が、あの高力士が、この逆賊黄鶴に看取られて死んだのじゃ」 「おう……」 「わしは、あろうことか、あの憎いはずのあの男の手を、この両の手で握ってやったのじゃ……」 「——」 「あやつは、死ぬ前に、言うた……」  細い、掠れた声で、黄鶴は言った。  誰も、声を発しなかった。  黄鶴の、次の言葉を待った。 「夢の……」  そこまで言って、黄鶴は声をつまらせた。  黄鶴の眼から、ほろりと涙がこぼれていた。 「夢の如き生涯であった……と——」 「——」 「わしも、その時、死ぬるつもりであった。しかし、高力士が死んだ時、わしは生きることにしたのよ」 「何のために?」 「おお、不空の生まれかわりよ。この華清宮で、あの時玄宗に全てを話した不空の生まれかわりよ。倭国の沙門《しゃもん》よ、何故と訊くか」 「はい」 「わが、夢の始末を見届けんがためよ」 「——」 「いったい、あの時、何故、丹龍よ、白龍よ——」  黄鶴はふたりを見た。 「いったい、何故、ぬしらは我を捨てて逃げたのじゃ。丹龍よ、ぬしは幼き頃このわしが拾うて育ててやった恩を忘れたか。白龍よ、楊玉環は、どうなったのじゃ。それを訊くまでは、死ねるものか。死ねるものか。我は、あの夢の最後の生き残りぞ。それを知らずに、死ねるものか。高力士の、玄宗の、安禄山《あんろくざん》の、楊国忠《ようこくちゅう》の、晁衡の、このわれらの夢の果てを見ずにおくものか——」 「黄鶴さま……」  言ったのは、丹翁であった。  丹翁の、その眼から又、涙があふれていた。 「ごらん下され」  丹翁は、眼で、横手を示した。  月光の中に、ひとりの老婆が立っていた。  その老婆は、月の光の中に手を伸ばし、ゆるゆると指先を宙におよがせていた。  牡丹の花。  その老婆は、舞っているように見えた。  細い声で、何か唄っている。 [#ここから1字下げ]  雲想衣裳花想容 雲には衣裳を想い花には容《かんばせ》を想う  春風拂檻露華濃 春風|檻《おばしま》を払って露華《ろか》濃《こま》やかなり [#ここで字下げ終わり]  李白の、清平調詞《せいへいちょうし》の詩であった。 「な……」  黄鶴が、声をつまらせた。  その老婆を見つめ、 「ま、まさか、まさ……」  腰を浮かせた。 「楊玉環様にござります」  丹翁は言った。        (八) 「我らふたり、わたしと白龍は、楊玉環様を、お慕い申しあげておりました……」 「なに!?」 「それ故に、あの時、この華清宮より、我ら三人、逃げ出したのでござります」  丹翁の言葉を聴きながら、腰を浮かせたまま、黄鶴はゆるゆると月光の中で舞う楊玉環を見つめていた。 「あの時、不空様が何をしに来たか、我らにはすぐにわかりました。不空様が、全てを語ってしまったら、我らの生命、無事には済みませぬ。そう判断したからにござります」 「なんと——」 「黄鶴様を置いて逃げたのは、もう、楊玉環様を、あなたのもとに置いてはおけぬと考えたからでござりました。玉環様は、その半生を、あなたさまの道具として使われてまいりました。寿王《じゅおう》様と、ようやく睦《むつ》まじい暮らしができるかと思われた時も、あなた様の| 謀 《はかりごと》のため、無理矢理別れさせられ、玄宗様の許にゆくことになってしまいました……」 「——」 「あなた様は、御存知ないかと思われますが、あの時、玉環様は、死のうとなされました——」 「なに」 「自ら、お生命《いのち》を絶たれようとしたのでござります」  丹翁は言った。 「それを、我らがおとめ申しあげた……」  細い声で、白龍が言った。 「玄宗様に嫁せられてからも、玉環様が、心から自由になられた時は、一日とてござりませぬ……」 「——」 「そして安禄山の乱のおりには、あのようなむごいことに」  白龍は、言いながら涙を流していた。 「玉環様は、ついに気が狂われて、狂われて……」  白龍は、声を震わせた。 「狂うてようやく、楊玉環様の魂《たましい》は自由となられたのです。この上、まだ、玉環様を何かの道具としてお使いになるおつもりでござりましたのか——」  白龍の言葉を受けて、丹翁が口を開いた。 「これ以上、玉環様があなたの御道具となるのを見るに忍びず、我らふたりは、楊玉環様を連れて、この華清宮を離れたのでござります」 「だが、丹龍よ、ぬしは何故、あの時逃げたのじゃ」  虫の息の、白龍が言った。 「楊玉環は、このわしではなく、ぬしを想うていた。ぬしを好いていたのじゃ。それを承知であったろうに——」 「——」  丹翁は答えなかった。  苦しそうに、ゆっくりと、顔を左右に振った。 「答えずとも、わかる。ぬしは、楊玉環をこのわしに譲ったのじゃ。楊玉環をわしに譲り、わしを、結局、苦しみの底に落としたのじゃ——」 「——」 「わしは、あの時、死のうと想うていた。それを、ぬしは、わかっていたのだな」 「白龍……」 「楊玉環が、ぬしを好いていたのはわかっていた。だから、わしは、おぬしに殺されようと、そう思うていたのじゃ。それを避けて、おぬしは逃げた。そして、わしと楊玉環は、ふたりで……」  白龍が、そこまで言った時、ちびた猿のごとき老人——黄鶴が、声をかけてきた。 「待て、丹龍、白龍……」  浮いていた黄鶴の尻が、さらに持ちあがった。 「い、今、何というた。ぬしらは今、何の話をしているのじゃ……」 「お聴きになられていたでござりましょう。丹龍が、楊玉環をわたしに譲り、姿を消した故、わたしは、楊玉環と、ふたりで旅を……」 「た、旅じゃと。そんなことを訊いておるのではないわ。ぬしらふたり。白龍よ、楊玉環とぬしとは、つまり、夫婦の契《ちぎ》りを……」 「したとも……」  白龍はつぶやいた。 「狂うたようにしたわ。たとえ、そのたびに、楊玉環が、丹龍の名を呼ぼうとも、せずにはおらなんだわ」 「な、なんと——」  黄鶴の尻が、絨毯の上に落ちた。 「なんということを、なんということを……」  黄鶴が、身を震わせた。 「何のことでござりまするか」  丹翁が訊ねた。 「ふふ……」  小さく黄鶴が笑った。 「ふふ、くかかかか……」  その黄鶴の笑い声には、聴く者の体をそそけ立たせるような不気味な響きがあった。 「そうか、そういうことであったかよ……」  ふふ……  くく……  かか……  と、黄鶴が笑う。 「何が、おかしいのじゃ……」  白龍が問うた。 「おかしいさ、これを嗤《わら》わずにおられようか——」 「——」 「まあ、よいわ。よい。これも運命《さだめ》じゃろうよ」 「なに!?」 「この黄鶴、人の心の闇に潜み人の心を操って生きてきた。そのあげくが、このざまじゃ……」 「どうなされた、黄鶴さま」  丹翁が、膝立ちになる。 「運命《さだめ》と言うたろうが。父が、子を刺して殺すのも運命《さだめ》じゃ……」 「父が子を?」 「ああ、そうじゃ」  黄鶴は、腹を押さえて、自分を見つめている白龍を見やった。 「わしは、言うたであろうが。蜀《しょく》で、|玄※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《げんえん》という男の妻だった女に、子を産ませたと。それが、楊玉環じゃ——」 「——」 「このこと、高力士にも言うたわ。だが、まだ、高力士にも、ぬしらにも言うたことがないことがある。いや、高力士には、少しだけ言うたか——」 「玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の妻に、楊玉環様のあと、もうひとり、子を産ませたということでござりまするか——」  丹翁が問うた。 「そうじゃ……」  黄鶴はつぶやいた。  ぞっとするような沈黙があった。  その沈黙の中に、黄鶴の声が響いた。 「白龍よ、ぬしこそが、その子じゃ」 「な……」 「ぬしこそは、わしが、楊玉環のあとに、玄|※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《えん》の妻に産ませた子よ」 「——」 「じゃからこそ、わしは、ぬしに、我が胡の国の秘法も秘術も伝えたのじゃ。だからぬしの眼の色は、我らと同様に青みがかっておるのさ……」 「よ、楊玉環は、わが、姉……」 「いかにも」  その時——  獣のごとき声が、あがった。  それは、白龍の口から洩れていた。  白龍は、歯を軋《きし》らせ、口から血泡を吹きながら哭《な》いていた。  白龍は、首を左右に振った。  血の涙が、周囲に飛んだ。  膝を突き、手を突き、腹を押さえながら、白龍が立ちあがった。  泣いても、おさまらない。  身をよじっても、減らない。  どうしようもないものに、白龍の心と肉体が苛《さいな》まれているようであった。 「何故、何故、それを言わなかった……」  血の泡を飛ばしながら、白龍は言った。 「言えば、情が移ろう。情が移れば、玉環をあのように使うことなどできなかろうと思うたのさ……」 「し、しかし、楊玉環は、父よ、父よ、あなたの娘ではござりませぬか」  白龍が、声を振りしぼった。  短剣に手をかけ、自らそれを引き抜いた。  血が溢《あふ》れ出た。 「娘なればこそ、唐王朝の亡《ほろ》びに使おうと——」 「あなた様は、人ではありませぬ」 「いかにも、わしは人ではない。わしは、人の心の闇を啖《くろ》うて生きてきたもののけぞ。わしは、我が心の闇までも啖うて、生きてきた人外《にんがい》のものじゃ……」 「なんと、なんと……」  短剣を投げ捨て、白龍は、立ったまま、腹の傷の中に自らの右手を差し込んだ。  入らない。  左手の指を差し込み、肉を裂いて傷口をびりっと音をたてて広げた。  右手が入る。 「苦しい……」 「苦しい……」  白龍は、まだ立っている。  右手が、腹の中からずるずると何かを引き出してきた。  自らのはらわたであった。 「この痛みより、まだ痛い。この苦しみより、まだ、苦しい……」 「先にゆけい、白龍よ……」  黄鶴が、優しく声をかける。 「わしも、すぐに、後よりゆく……」  黄鶴が、立ち上がり、白龍に歩み寄った。 「白龍よ」  黄鶴が、白龍の身体を抱いた。 「待つなら、地獄ぞ」  黄鶴が、白龍の耳元で囁《ささや》く。 「承知……」  うなずいた、白龍の口が、微かに微笑したように見えた。 「れ、麗香よ……」  白龍は言った。 「もう、そなたは自由ぞ。ぬしを拾って育て、わがしもべとしてきたが、これよりそなたは自由じゃ——」 「白龍様……」  麗香は言った。  白龍が、空海をみやった。 「く、空海よ……」 「はい」  空海が白龍を見やる。 「馳走《ちそう》になった……」 「——」 「よき宴であった……」  言った白龍の顔が、仰向いた。  眼が、天を見ていた。  中天《ちゅうてん》に、月が出ている。  その月を、白龍は、見たのかどうか。  天を見あげたまま、白龍は呼吸を止め、そこにくずおれていた。 「白龍様……」  麗香が歩み寄る。  ふふ……  かか……  く、  く、  く、  黄鶴は、低い声で笑っていた。  それはもう、乾いて、笑い声には聴こえなかった。  楊玉環は、まだ、舞っていた。  そこで、何が起こっているのかを、知っているのか、いないのか。  白い指先が、月光の中に持ちあがり、月光を掻きまぜるようにして、宙を撫でる。   若非群玉山頭見   會向瑤臺月下逢  細い、消え入りそうな声で、楊玉環が歌っている。  李白の作った、清平調詞の詩だ。  空海は、楊玉環を見た。  楊玉環の眼に、涙が光っていた。  楊玉環は、哭きながら踊っていたのである。  その時、空海の心の中に、閃《ひらめ》くものがあった。 「貴妃様」  空海は言った。  空海が言ったその時には、もう、楊玉環は動いていた。  するすると、舞いながら、思いがけない速さで黄鶴に近づき、  とん、  とぶつかった。 「貴妃様!」  空海が立ちあがった時には、もう、楊玉環は、黄鶴から離れていた。  黄鶴の胸から、短刀の柄が生えていた。  先ほど、白龍が捨てた短剣であった。        (九)  黄鶴は、立っていた。  立ったまま、視線を、自分の胸から生えている短刀に向けた。  次に、その視線をあげて、楊玉環を見た。  楊玉環の顔は、月の光でもそうとわかるほど蒼白《そうはく》であった。  紅をさしてある唇が、小刻みに震えている。 「玉環、おまえ……」  黄鶴は、何かを問おうとした。  しかし、その間は黄鶴の口からは言葉にならなかった。  問うまでもなく、全てを黄鶴は呑み込んだようであった。 「そうで、あったかよ……」  低い声でつぶやいた。  再び、自分の胸から生えた短刀を見つめ、 「そうであろうよ。そうであろう……」  小さく顎を動かしてうなずいた。 「こうするしか、なかったであろうよなあ」  また、玉環を見た。 「すまなんだなあ……」  黄鶴は言った。 「わしは、おまえをわしの道具にした。人も多く殺《あや》めた。これも、その報いぞ……」  ぐらりと、黄鶴の上体が揺れた。  玉蓮が、それを支えようと駆け寄ろうとしたが、黄鶴が、 「よい」  左手をあげて、それを制した。  貴妃を見やった。 「馬嵬駅では、本当に、おまえをなんとか助けたかった。しかし、それもかなわなんだ……」  黄鶴は、数度、咳をした。  その唇から、血がこぼれ出てきた。 「許せ……」  嗄《かす》れた声で言った。  泣いていた。  黄鶴の眼から、透明な涙が溢れ出て、眼の周囲の皺を濡らし、頬を伝った。 「この父を許せ……」  すでに、その声は、聴きとれぬほど細くなっている。 「可愛そうにのう。哀れじゃのう。ぬしに、最後にしてやれることは、もう、ないのかのう……」  ぐらりと、また上体が揺れた。  黄鶴は、それを、枯れ枝の如くに細い両脚で支えた。  天の月を見あげ、 「ひとつ、あったわ……」  つぶやいた。  顔を地上にもどした。  唇の端を微かに持ちあげ、黄鶴は笑ったようであった。 「おう、玄宗殿、むかえにまいられたか……」  虚空を見つめながら言った。 「おう、おなつかしや、高力士殿。じきに、わしもそちらへゆきまするぞ……」  黄鶴の眼が、逸勢に向けられた。 「なあ、晁衡殿、獣の如き生涯ではござりましたが、これはこれで、なかなかおもしろうもござりましたなあ……」  その眼が、白楽天に向けられた。 「李白殿もそこにござったか。ぬしが、うらやましい。絢爛《けんらん》とした才を持って、この世で舞うだけ舞って、酔うたままあの世へ先にゆかれた。酔うたあげくに、湖面に映る月を手にとろうと、船上より手を伸ばし、水に落ちて死になされた……」  小さく、声をあげて笑った。 「李白殿、あれは、わざとであろう。酔仙《すいせん》殿の死に様としてふさわしい詩を、あの時自らお書きになったのでござりましょう。まことにまことにみごとな詩の結末でござったよ」  その眼が、空海を見た。 「これはこれは不空殿……」  黄鶴の唇から、次々に血が溢れ出てくる。  黄鶴は、なんとも哀切な、泣き笑いするような眼で、空海を見た。 「夢じゃ……」  消え入りそうな声でつぶやいた。 「実《げ》に、我が生涯、夢のようでござりましたよ……」  がくりと、首を後方へのけぞらせ、それをもとにもどす。 「この夢の始末じゃが、このようなところでよろしいかのう……」  黄鶴は、両手で、自分の胸から生えている短刀を握り、それを引き抜いた。  それまで、短刀の刺さっていた場所から、驚くほどの量の血が噴き出した。  黄鶴は、楊玉環を見やり、 「まさか、そなたを、父殺しにさせるわけにはゆくまいよ」  なんとも優しい眼で笑った。  両手に持っていた短刀を、喉の左側にあて、 「さらばぞ」  突いた。  突いたまま、刃を両手で右に引いた。  引き終えたところで、黄鶴は仰向けに倒れていた。  白龍の身体に、半分重なるようにして、黄鶴は息絶えていた。  獣のような声で、唸るものがあった。  楊玉環であった。  楊玉環が、慟哭《どうこく》していた。  誰も、言葉もない。  沈黙の中で、楊玉環の泣く声だけが響いた。  すでに、結界の外で蠢《うごめ》いていた犬の首や牛の首、あるいは首無しの身体たちは、いずれも動きを止めていた。  静寂の中で、楊玉環の泣く声だけが聴こえていた。  空海が、静かに楊玉環に歩み寄り、その肩に優しく手を置いた。 「正気にもどられていたのですね」 「はい……」  泣きながら、楊玉環はうなずいた。 「正気にもどったのは、十二年前、長安にもどってからです……」 「その後は狂ったふりをなさっていたのですか」 「狂うたふりをしている方が、楽であったからでござります……」  楊玉環は言った。  その時—— 「死んだ……」  低く、つぶやく者がいた。  橘逸勢であった。 「みんな死んでしまったではないか……」  よろめくように、逸勢が歩み出てきて、空海の前で立ち止まった。 「なあ、空海よ……」  逸勢は、泣き顔で空海を見た。 「なんとかならんのか」  空海の襟をつかんだ。 「死んだ者たちを、生き返らせることはできぬのか——」  空海は、静かに首を左右に振った。 「そんなことはないであろうが……」  逸勢は、空海の胸を揺すった。 「白龍を生き返らせてくれ、黄鶴を生き返らせてくれ、あの大猴を生き返らせてくれ、子英を生き返らせてくれ、なんとかしてくれ、空海よ——」 「それは、できぬ」  空海は言った。 「何を言うのだ。おまえは、凄いやつで、これまで何でもやってきたではないか。嘘をつくな」 「すまぬ、逸勢よ。おれにはそれはできぬのだ」 「仏法はどうした。おまえの言っていた密《みつ》の法はどうなのだ」  逸勢は、声を高くして叫んだ。 「何故、できぬ」 「済まぬ、逸勢。おれは、無力だ。何人《なんぴと》も、どのような法も、死者をこの世に甦《よみがえ》らせたりはできぬのだ」 「馬鹿」  逸勢が叫んだ。 「空海先生——」  玉蓮が、空海を見やった。  空海は、哀しそうな眼で玉蓮を見た。 「玉蓮姐さん……」  空海は、打ちひしがれたように、つぶやいた。  楊玉環が、一歩、二歩と、死んだ黄鶴の亡骸《なきがら》に向かって歩み、その傍《そば》に膝を突いた。  すでに、楊玉環は、泣き叫ぶことをやめていた。  楊玉環が、黄鶴と、そして白龍の死骸にすがって、再び、今度は押し殺したような声で泣き始めた。  空海は、楊玉環の傍に膝を突き、その細い、曲がった背を抱きかかえた。 「お許し下さい。わたしには何もできませんでした……」  空海は、この、痩《や》せさらばえた老女の身体を抱き締めた。 「わたしは、無力なひとりの沙門です……」  空海は泣いていた。 「このような宴をわたしが催《もよお》さねば、あるいは——」  そこまで言った空海の言葉を遮るように、楊玉環は、首を左右に振った。 「いいえ」  そう言ってから、身をよじるようにして、さらに首を振った。 「いいえ、いいえ」  楊玉環は、空海に向きなおった。 「誰を、お恨み申しあげましょう。いったい誰を恨むことができましょう」  楊玉環は言った。 「もしも、この宴なかりせば、もしも、ここへ皆さまがいらっしゃらねば、まだ、この先我らは……」  そこまで言って、あとは言葉にならなかった。 「この世のいったい、何がもどりましょう。過ぎたものの、いったい何がもどることのあるでしょう。さすればこそ、さすればこそ……」  嗚咽《おえつ》となった。  言葉にならない。  やがて、その嗚咽が、次第に静まっていった。  楊玉環は、優しく空海の腕を、自分の身体からほどいた。  ゆっくりと、楊玉環は立ちあがった。  月を見あげた。  周囲に咲き乱れる牡丹《ぼたん》の花を見やった。  天衣。  麟鳳《りんぽう》。  葛巾紫。  青竜臥池。  白玉宝。  赤雲香。  白、青、紫、黄、赤、黒、色とりどりの牡丹の花が、月光の中で揺れている。 「茘枝《ライチ》はおいしゅうござりました」  楊玉環が、静かに頭を下げた。 「なんと、よき宴であったことでござりましょう」  楊玉環の眼が、丹翁を見た。 「この世のなごりに、再びお目にかかることができて、思い残すことはござりませぬ……」  楊玉環の両手に、さっきまで黄鶴が握っていた短剣が握られていた。  楊玉環の手が動いた。  短剣の切先が、楊玉環の喉に潜り込む寸前——  丹翁の身体が動いていた。  楊玉環が持った短剣の刃を、丹翁の右手が握っていた。 「お待ち下され、玉環さま」  つうっと、新たな血が刃を滑って、楊玉環の指先まで流れてゆく。 「丹龍……」  楊玉環の手から、丹翁が短剣を奪って、そこに膝を突いた。 「玉環さま……」  丹翁は、震える声で言った。 「この丹龍、あなたさまを忘れたこと、この五十年ただのかた時もござりませぬ」  丹翁は、楊玉環を見あげた。 「お願い申しあげます。この後、わたくしとあなたさまに、どれほどの時間が残されているかはわかりませぬが、なにとぞ、なにとぞ……」  そこまで言って、丹翁は声をつまらせた。  丹翁が、顔を伏せた。  地に突いた、短剣を持った手の上に、丹翁の涙が落ちた。 「なにとぞ、なにとぞ……」  丹翁が顔をあげた。 「これより、死ぬるまでの時間、あなたさまのお傍にいさせてはいただけませぬか——」 「——」 「我が望み、今は他に何もござりませぬ。今はただ、お慕い申しあげた愛《いと》しいお方のお傍にいたいと思うのみ」 「丹龍——」  楊玉環は、崩れるようにそこに膝を突いた。  楊玉環が、丹翁の胸に顔を埋めた。  ふたりの静かな嗚咽の声が、聴こえてきた。  その時—— 「おうい……」  低い、声がした。  男の声であった。  空海、逸勢たちが声の方へ視線を向けると、犬の死骸の中から、大きな男が、ゆっくりと上半身を起こしてきた。  大猴であった。 「こいつはひでぇ」  のっそり起きあがり、喉に刺さっていた短剣を抜いて、投げ捨てた。 「こりゃあいったい、どうなっちまってんだい」  あたりを見回しながら言った。  空海を見つけ、 「空海先生——」  大猴は、喉のあたりをつるりと撫でた。  血が、わずかにその手についただけであった。 「生きてたのか」  逸勢が、喜びの声をあげた。 「いったい、何があったんです?」 「いろいろあったのだ、大猴——」  空海は言った。 「だが、それも、皆済んだ」  空海は言った。        (十) 「空海よ……」  そう言ったのは、丹翁であった。 「はい」  空海は、楊玉環を腕の中に抱いて立っている丹翁を見た。 「この後、どうするのじゃ……」  低い声であった。  周囲には、白龍が呪《しゅ》に使った無数の獣の首や胴、そして、蟲《むし》の屍骸《しがい》が積み重なっている。子英の首もある。  白龍と、黄鶴の屍体もそこにある。 「これを、片づけようとは思ってはおるまいな」 「さような時間は、ござりませぬでしょう」  空海は言った。  それを耳にした逸勢が、 「時間? 何の時間がないというのだ。空海よ」  空海に問うた。 「赤《せき》は、おそらく、今頃は長安に向かって馬を走らせているでしょう」  空海は、逸勢にともなく、誰にともなく言った。 「であろうな」 「急がねばなりませぬ」  空海は言った。 「うむ」  丹翁がうなずく。 「何だ、空海、何を言っているのだ」  逸勢が問う。 「逃げるのさ」  空海は言った。 「逃げる!?」 「ああ」  空海はうなずき、そして言った。 「逃げて、しばらく身を隠さねばならぬ」 「な!?」  空海が何を言っているのか、逸勢にはわかっていない様子であった。  逸勢だけではない。  大猴はもちろん、白楽天も、玉蓮も、空海の言葉の意味を計りかねている。  全て承知している様子であるのは、丹翁だけであった。 「まかせておけい、空海よ」  丹翁は、自信に満ちた声で言った。 「身を隠すは、我の得意じゃ——」 [#改ページ]    第三十八章 宴の始末        (一) 「まだ、見つからぬのか」  柳宗元《りゅうそうげん》は言った。 「はい」  うなずいたのは、赤《せき》であった。  柳宗元の自室である。  柳宗元は、椅子に腰を下ろし、赤からの報告を受けているところである。  柳宗元の横には、劉禹錫もいる 「もう、半月じゃ……」  柳宗元がつぶやいた通り、あれから、すでに半月あまりが過ぎようとしていた。  春は過ぎ、すでに長安には初夏の風が吹きはじめている。  半月あまり前——  赤からの報告を受けて、百人の兵と共に、柳宗元自身も、馬で華清宮《かせいきゅう》に駆けつけた。  その光景を見て、柳宗元は愕然《がくぜん》となった。  色とりどりの牡丹《ぼたん》の花の咲き乱れる中に、夥《おびただ》しい数の獣の屍体《したい》があった。  中に混じって、人の屍体もあった。  老人の死体がふたつ。  そして、子英《しえい》の首。  壊れた俑《よう》がひとつ。  だが、そこには、空海もいなければ、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》もいなかった。  白居易《はくきょい》もおらず、大猴《たいこう》も、そして玉蓮《ぎょくれん》の姿もなかった。  いったい、あそこで何があったのか。  空海たちは、どこへ行ってしまったのか。  それが、わからなかった。  長安へもどった柳宗元を待っていたのは、皇帝|順宗《じゅんそう》の容態が好転したという知らせであった。  順宗の意識がもどったというのである。  その後、この半月近くかけて、青龍寺《せいりゅうじ》の恵果《けいか》が、順宗の面倒を見た。  もう、外から呪詛《ずそ》が送られてくることはない。  順宗の周囲と、順宗自身の体内にある呪詛を取り除くだけであった。  その作業も、今は済んでいる。  今、皇帝に必要なのは、滋養のある食事と休息、そして薬師である。  青龍寺の恵果和尚はその役目を終えたといっていい。  恵果自身も、今度のことでは、その気力も体力も使い果たしている。  恵果もまた青龍寺で、その身体を休めているはずであった。  疲れている——ということでは、自分も同じだ。  華清宮の死体を全てかたづけさせ、近くの山中に穴を掘って埋めさせた。  その指揮をとったのも自分である。 「しかし、何故、空海たちは姿を隠しているのでしょう」  劉禹錫が言った。 「よい」  柳宗元は立ちあがった。  ゆっくりと窓辺に歩いてゆき、丸い窓から外を見た。  池が見えている。  その池の際に植えられた柳が、濃い緑を風に揺らしている。 「理由の見当はついている……」  窓の外を眺めながら、柳宗元はそうつぶやいていた。        (二)  夜——  柳宗元は、自室で眠っていた。  浅い眠りであった。  半分眠り、半分起きている。  庭の池で鳴く蛙《かえる》の声が聴こえている。  二種類か、あるいは三種類か——  細かく、まるで池の蝉《せみ》の如くに声をあげ続ける蛙と、そして、  ぶぅお……  ぶぅお……  と、間隔をおいて、低い声で鳴く蛙がいる。  そして——  もう一種類。  何であろうか。  これは、蛙の声であったか。  さっきから、鳴き続けている蛙。  池ではなさそうであった。  池ではないとするなら、どこか。  もっと近くだ。  家の——いや、部屋の中であろう。  それも、部屋の隅ではない。  柳宗元が眠っている寝台の近く、すぐ耳元だ。 「宗元さま……」  と、その蛙が鳴く。 「宗元さま……」  いや、蛙ではない。  人の声だ。  人の声が、柳宗元の名を呼んでいるのである。 「柳宗元さま」  眼を開いた。  枕元に、窓からの月光を背に受けて、ふたりの人間が立っていた。 「お目覚めでござりますか……」  その声が言った。  一瞬、柳宗元は高い声をあげそうになったが、それをせずにすんだのは、ふたりのたたずまいが、怖ろしいものには思えなかったからだ。  声も、優しかった。  それに、聴き覚えがある。  柳宗元は、ゆっくりと寝台の上に上半身を起こした。  ふたりを見やり、 「空海か……」  柳宗元が問うた。 「はい」  空海がうなずいた。 「そちらは?」  柳宗元が言うと、 「丹龍《たんりゅう》じゃ……」  その人影が言った。 「た、丹龍か——」  その名を、柳宗元は思い出した。  倭国《わこく》の晁衡《ちょうこう》が書いた文《ふみ》のことについては聴いている。  高力士《こうりきし》の文については、自分で眼を通しもした。  丹龍の名は、そのどちらの文の中にもあった。 「灯りを……」  丹翁の身体が動き、すぐに壁際に置かれた灯り皿に火が点《とも》された。  赤い火の光が、部屋を柔らかな色で満たした。 「く、空海、あそこで何があったのだ」  柳宗元は言った。 「これまで、いったいどうして身を隠していたのだ」 「その理由《わけ》は、柳宗元さまならおわかりでござりましょう」  空海は言った。 「う、うむ」  柳宗元はうなずいた。 「わ、わかる……」  しかし、わかるとうなずきはしたものの、全てを了解したわけではない。  姿を消した理由について、見当はつく。  だが、その細かい部分までわかっているということではない。 「自らの身を守るためであろう」  柳宗元は言った。 「はい」  空海がうなずいた。  身を隠した理由は、柳宗元が口にした通りだ。  身を守るためだ。  空海は、多くのことを知ってしまった。  その中には、知ってしまったら危険なことも含まれている。  唐王朝の秘事もさることながら、しかし、それだけならば、別に姿を隠す必要はない。  姿を隠した一番の理由は、順宗皇帝の側近中の側近である、王叔文《おうしゅくぶん》の秘密を知ってしまったからである。  王叔文は、盗まれた手紙のことを黙っていたのであり、間接的にドゥルジ尊師——白龍《はくりゅう》が順宗を呪《しゅ》にかけようとした、その手伝いをしてしまったのである。  今回の報告は、まず、柳宗元になされることになる。  柳宗元がどうするつもりかはわからないが、もしもこの事実が明るみに出れば、王叔文は宰相《さいしょう》ではいられなくなる。  問題は、この件を、王叔文に報告するかどうか。  当然ながら、立場上、報告はせねばならない。  報告した時、王叔文はどう出るか。  これを、自分のところで握り潰《つぶ》すであろう。  もしも、これが公になれば、王叔文は毒を賜《たまわ》ることになるであろう。  柳宗元は、知らぬことであれば、左遷される。  王叔文に何かあって、柳宗元に何もないということはない。  王叔文が宰相であればこそ、柳宗元は今の立場にいられるのである。王叔文と柳宗元は一心同体である。  この長安《ちょうあん》——唐の改革は、ここで頓挫《とんざ》することになる。  では、どうするか。  王叔文は、関係者をこの世から抹殺《まっさつ》することを選ぶであろう。  いくら、空海たちが、このことは他言せぬと言っても、信用されぬであろう。  逆に、空海たちが身を守りたかったら、このことを公にする以外にない。  空海たちにとって、まず、姿を隠すこと、これが先決であったのである。 「話は、色々ある……」  そう言ったのは、柳宗元であった。 「だが、その前に礼を言っておかねばなるまいな。空海よ、今度《こたび》のことでは、言葉に尽くせぬ世話になった……」  柳宗元は、空海を眺め、 「自らここへ現われたということは、全て用意ができたということだな」  訊ねた。 「はい」  空海はうなずいた。  橘逸勢をはじめとして、白楽天《はくらくてん》、玉蓮、大猴、そして、楊玉環《ようぎょくかん》は、安全な場所に身を隠している。  もし、彼らや、空海、そして丹翁の身に何かがあったら、王叔文と皇帝を呪咀していた黄鶴との関係が表沙汰《おもてざた》になる——それだけの準備を済ませてあるということだ。  麗香のみが皆と行動を共にせず、ただひとり、白龍の髪をひと握り持って、華清宮から去ってそのままだ。 「我らは、もとより、あのことを公にするつもりはござりませぬ」  空海が言った。 「であろうな」  柳宗元はうなずいた。  空海の言葉は信じられる。 「そのこと、知る者はすでにわずかでござります。ドゥルジ尊師も、今はこの世の人物ではござりませぬ。我らが口をつぐめば、このこと、他へは洩れませぬ」 「わかっている」  柳宗元は、またうなずいた。  だが——  王叔文が信ずるかどうか。 「それよりも、今、ドゥルジ尊師はこの世のものではないと言ったか」 「はい」 「死んだと?」 「華清宮にあった屍体《したい》を幾つかごらんになったと思いますが、そのうちのおひとりがドゥルジ尊師——」 「おう」 「そして、もうおひとりが……」 「誰なのだ」 「お名前は御存知でござりましょう。黄鶴《こうかく》殿でござります」 「おう、あの——」 「はい」 「空海、あそこで何があったのだ。それを、わたしに教えてくれぬか」 「今夜は、そのつもりで参りました」  空海は、うなずき、そして、語り始めた。  柳宗元に隠さねばならぬことはない。  しばらく前の夜——  あの華清宮でおこったことについて、そのひと通りを空海は語った。  長い話となった。  無言で空海の言うことを聴いていた柳宗元は、話が終ると、 「そのようなことがあったのか——」  深い溜め息と共に、うなずいた。 「で、今夜は、実は柳宗元様にお願い申しあげたきことがございまして、こちらにうかがったのです」 「それは?」 「王叔文様に、おひき合わせいただけませぬか——」  空海は言った。 「王叔文様に?」 「はい」 「それは、もちろん内密にということだろうな」 「はい」 「何のために?」 「互いの不安を取り除くためでござります」 「わかった」  柳宗元の決心は早かった。 「明日中になんとかしよう。いずれへ連絡申しあげればよろしいかな」 「では、これへ——」  そう言ったのは、それまで黙っていた丹翁であった。  懐から、何やら取り出した。  一羽の雀《すずめ》であった。  丹翁が、その雀を、柳宗元に手渡した。  柳宗元の手の上に乗っても、雀は飛びたとうとしない。 「場所と刻限が決まったら、その雀に文を縛りつけ、空に放てばよい」  丹翁が言った。 「では、これにて失礼を——」  背を向けかけた空海に、 「空海よ、案ずるな」  柳宗元が声をかけた。 「王叔文様が何と言おうと、おれがおまえを殺させぬ」  空海は、柳宗元を振り返り、 「明日、またお会いいたしましょう」  頭を下げ、また背を向けて、その部屋から出ていった。  柳宗元の両手の上に、一羽の雀が残った。        (三)  王叔文は、ちんまりと椅子に座《ざ》していた。  衣冠できちんと身を整えてはいたが、その身体と顔のやつれは隠しようがなかった。  身体の小さな男だ。  もう、七十歳になるだろうか。  白い髯《ひげ》も、白い髪も、香油でその形を整えているらしい。  ただ、その眼だけが、まだ精気を帯び、猛禽《もうきん》の眸《め》のごとき光を放っていた。  王叔文の自室であった。  その部屋にいるのは、王叔文の他には、空海、丹翁、そして、柳宗元だけであった。  他には、誰もいない。  人払いがしてあるのである。  他に、三っつ、螺鈿《らでん》紋様の入った椅子が用意されていたが、まだ、空海も、丹翁も、柳宗元もそれには腰を下ろしていない。  空海は、王叔文を見つめていた。  王叔文は、眼を逸《そ》らさず、空海の視線を受けていた。  今、互いに名のりあい、挨拶を済ませたところであった。 「全て、柳宗元から聴いた……」  思いの他よく通る声で、王叔文は言った。 「今度《こたび》のことでは、世話になった……」  王叔文の声は、淡々としていた。  感情を殺しているのか、もともとこういう話し方をするのか。 「空海殿、丹翁殿、椅子を——」  王叔文がうながした。  丹翁、空海、柳宗元の順で、用意された椅子に腰を下ろした。  空海は、王叔文を見つめている。  これまで、王叔文は、ドゥルジ尊師に怯《おび》えて暮らしていた。  ドゥルジ尊師が、ふたりの関係を口にすれば、間違いなく王叔文の生命はない。  殺せるものなら、ドゥルジ尊師を殺したかったであろう。  だが、殺すことができない。  ドゥルジ尊師の居場所もわからない。  おそろしい存在であった。  もしも、殺そうとしたことがわかれば、ドゥルジ尊師は、王叔文との関係を公にするであろう。  だが、今、そのドゥルジ尊師はこの世にない。  ただ、ドゥルジ尊師が知っていたのと同じことを知っている人物がいる。その人物が望めば、ドゥルジ尊師が王叔文に対してやろうとしたことをやることができる。  それが、空海たちであった。  ドゥルジ尊師が生きているうちは、空海にも手を出せなかった。  手を出せば、秘密を知る者を殺すことを決めたかと、ドゥルジ尊師を刺激することになりかねない。  せいぜい、できるのは、赤と子英を空海につけて、その動向を、柳宗元を通じて逐一《ちくいち》報告させることくらいである。  しかし、ドゥルジ尊師は、今、この世の人間ではない。空海たちを亡きものにすれば、秘密が外に洩れることはなくなる。  だが、空海たちは、あの現場から姿を消した。  どうすることもできない。  空海たちを殺すも何も、その前に、本人たちからあそこで何があったかを聴き出さねばならない。 「空海よ……」  ぼそりと、王叔文は言った。 「| 政 《まつりごと》の前では、人の生命など軽いものじゃ」 「はい」  空海がうなずく。 「安心せよ、空海」 「——」 「そなたらを、今さらどうこうしようとは思わぬ」 「われらも、あの文箱《ふばこ》の件やドゥルジ尊師の件を、王叔文様と結びつけて語るようなことはいたしませぬ」 「そうしてくれ。助かる」 「はい」 「赤からの報告を耳にする限り、そなたらが、何やら特別なことをたくらんでいるという様子もない」  王叔文はそう言って、小さく咳込《せきこ》んだ。 「正直に言うておけば、そなたらの口を塞《ふさ》ぐこと、考えないわけではなかった。しかし、もう、その気はない」  そう言った王叔文の心の裡《うち》を覗《のぞ》こうとでもするように、空海はこの老人の顔を眺めた。 「あるお方が、そなたたちに会いたがっておられる」 「ほう」  声をあげたのは、丹翁であった。 「そのお方が会いたがっている以上、もう、わしに手出しはできぬ」 「——」 「会う前に殺されれば、当然、それは調べられよう」 「——」 「会うてから殺されても、やはり調べられるであろう」 「はい」 「調べられれば、いずれ、わかる」 「はい」 「その調べをかわして、うまく逃げきるにはよほどの注意が必要じゃ。そのためには時間がかかる。わしには、その時間がないのだ——」 「——」 「空海よ、わかるか」 「ええ」  空海はうなずいた。 「順宗の生命あるうちに、できるだけのことをしておきたいということだな」  丹翁が、あえてその名を言わずに語っていた王叔文に対して、はっきりとその名を口にした。  一瞬、王叔文は息を止め、視線を左右に走らせたが、もとより、その部屋にその言葉を聴く者は、自分たちより他にない。 「我らの間で、そのような隠しごとはせぬでもよいか——」  はじめて、王叔文は微笑した。  苦笑であった。  苦笑でも、それは、王叔文が初めて見せた内面の感情であった。 「我らの運命は、順宗様のお生命《いのち》と共にある——」  王叔文は言った。  もしも、皇帝が死ねば、�碁打《ごう》ち�の王叔文は、次の皇帝と、その取り巻きによって、たちまち、地方へ左遷させられることになる。  場合によっては、死も、覚悟せねばならぬであろう。  それが、唐の歴代の皇帝に仕《つか》えてきた者たちの運命であった。 「それにしても、数奇なる譚《はなし》であった……」  王叔文は言った。  柳宗元から聴かされた、空海の話したことについて言っているのである。 「空海よ、順宗様が、ぬしに会いたがっておる」  王叔文は言った。 「空海よ、ぬしとは、その前に確認をしておかねばならぬ——」 「何のことについて——」 「ぬしらが、これまでどこでどうしていたか。皇帝に会う前に、それは決めておかねばならぬであろうよ」  王叔文は、微笑した。        (四)  空海が、順宗皇帝と会ったのは、五日後であった。  承天門《しょうてんもん》から、徒歩で太極宮《たいきょくきゅう》に入り、さらにふたつの門をくぐり、太極殿に入った。  安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》——晁衡《ちょうこう》は、おそらくここに入ったことはあるであろうから、空海は、倭人《わじん》としてはふたり目ということになるであろう。  絢爛《けんらん》たる大殿であった。  ユーラシア大陸の西に、ローマ帝国があるなら、東には大唐帝国の長安があった。  そして、この時、長安は、ローマよりも明らかに都市としてその規模が大きい。  この時代に、世界というものを念頭に置いて、その中心を、この地球上のどこかひとつに定めよということになったとしたら、それは、この大唐帝国の長安ということになるであろう。  その長安の中心が、太極宮であり、太極宮の中心が、今、空海が足を踏み入れた太極殿であった。  そして、その太極殿の中心が、順宗皇帝であった。  その、世界の中心たるのは、ただひとりの人物である。  この世界で、ただひとり、自らの名を�朕《ちん》�と呼んでいい人物。  空海は、その、世界の中心の前に立った。  言うなれば、人間が史上積みあげてきた多くの仕事、労役の上に、その人物は座していた。  しかし——  空海は、すでに、この世界を、宇宙という概念で捉えている。  宇宙の中心は、大日如来《だいにちにょらい》という——今日的表現をするなら、根本原理であるということを理解している。  その意味で言うなら、この宇宙の全ての場所が、中心として等価であることもわかっている。  この宇宙の全てのものは、大日如来という原理の表われのひとつであるにすぎないということもわかっている。  皇帝というものでさえ、所詮《しょせん》は、人が、人の社会の中で決めたものであるにすぎないこともわかっている。  不変のものではない。  皇帝というものでさえ、明日には別の者がそれを名のっているかもしれないのである。  だが、空海は、それを、 �空《むな》しい�  とは思っていない。  人の世の約束事、規範——そういうものに意味がないなどとは思っていない。  人の世に規範がなければ、人は生きてはゆけまい。 �密《みつ》�  という、この宝物《ほうもつ》の如き宇宙の思想も、この人の世がなければ産み出され得なかったものだ。  空海の前——  というより、上方に、皇帝は座していた。  空海の前に、階段《きざはし》があり、そこには波斯絨毯《ペルシアじゅうたん》が敷かれている。  その階段の上部に、黄金《こがね》作りの椅子があり、そこに順宗は座しているのである。  空海は、ただひとりで、その世界の中心たる人物を仰ぎ見た。  その人物は、痩せ、豪華な金糸銀糸の刺繍《ししゅう》の入った衣装の中に、埋もれているように見えた。  その人物は、歳《とし》以上に老い、衰《おとろ》え、空海を見下ろしていた。  哀れな——  空海の脳裏に、まず浮かんだのは、その思いであった。  世界という衣装を、その中心に座して纏《まと》うには、あまりにも影が薄い。  皇帝は、ただ、機能としてそこにあるだけで、あの衣装や椅子——必要なのはその外見だけで、あの中に入るのは誰の肉体でもよいのではないか。  皇帝には皇帝の、順宗には順宗の、この人の世の規範の中での役割があり、それなくしては、人の世は機能してゆかない。  自分もまた、その機能の一部であろうと、空海は、順宗を見ながらそう思った。  その機能としての役割を、ここではまず果たさねばならない。  空海は、皇帝の前——階段《きざはし》の下で、床に膝を突き、両手を突いて頭を下げ、床に額をあてた。それを、五度、繰り返した。  空海は、面《おもて》をあげ、立ちあがった。  空海の横には、王叔文が立っている。  そして、もうひとり、後ろに柳宗元がいる。  華清宮にいた者たちの中で、この場にいるのは空海だけであった。 「直答《じきとう》を許されている」  空海の耳に、王叔文が囁《ささや》いた。  はい——  と、空海は声に出さずにうなずいた。 「空海にござります」  王叔文は、順宗に向かってそう言った。 「倭国から参りました、空海にござります」  空海は言った。  空海は、下から、順宗を見上げている。  順宗は、上から、空海を見下ろしている。  ややあって—— 「異相じゃの……」  順宗は、第一声を発した。  唐語に慣れている空海にも聴きとれぬほど、はっきりしない声であった。  現代で言えば、脳梗塞《のうこうそく》で、一度順宗は倒れている。  それから生還はしたものの、しゃべる時は舌がもつれてうまく発音ができない。  倭人にしては、珍しいほど、空海の顎は発達している。  口元は、石の如くにしっかりと閉じられており、もの怖《お》じしない眼で、空海は順宗を見つめていた。  空海は、順宗の言葉に対して、口を開かなかった。  順宗の言葉が、空海に対して、返答を求めるようなものではないということがわかっていたからである。 「話は、ひと通り、王叔文から聴いた……」  順宗は言った。  空海を見つめ、何か言いたそうに口を動かしかけ、それを止めた。  右手を持ちあげ、もどかしそうにまた口を開き、 「御苦労で、あった……」  順宗は、そう言った。  そして、また、 「御苦労で、あった……」  同じことを言った。  順宗が口にした通り、王叔文から、この一件のことは、全て順宗に報告されている。  ドゥルジ尊師と王叔文の間にあったことは、もちろんその内容からははぶかれている。  ただ、丹翁と楊玉環だけは、あの場から姿を消して、今はどこにいるかわからない——そういうことになっている。  空海の前にいるのは、もどかしげな�人《ひと》�であった。  その�人�は、もう、皇帝としての機能も果たせなくなろうとしていた。  その日も、遠くはあるまいと思われた。  そのことを、順宗もまた、よくわかっているのではないか。  それまでは、自分は、機能としての役目を果たそうとしているのではないか。  少なくとも、順宗は、愚鈍な人物ではない。  順宗は、自分が皇帝として身に纏ってしまった肉体が、思うように機能しないことがもどかしいのであろうと思われた。 「よ、楊玉環には、一度、会《お》うてみたかった……」  順宗はつぶやいた。  そうであろうと、空海は思った。  誰もそう思うであろう。  しかし、今、空海自身も、丹翁と楊玉環がどこにいるのかわからない。  白楽天や、玉蓮、他の者たちが長安にもどってきたその翌日——二日前に黙ってふたりは姿を消してしまったのである。 「それにしても、希代《きたい》なるできごとであった……」  順宗は言った。 「はい」  空海は、うなずくだけである。  順宗のしゃべるにまかせている。 「朕には、あずかり知らぬ過去のことで、このような目にあった……」 「——」 「しかし、人は、そもそも、あずかり知らぬ過去のことによって、今を生かされている——この、朕が纏う布も、食べ物を焼く火にしても、その昔に、朕のあずかり知らぬ者が作り出したものであろう。それによりて、今の我らが生かされているのであれば、あずかり知らぬ過去のことで、生命を奪われることがあるにしても、それはそれで、あることであろう」  順宗は、これを、よどみなく言ったのではない。  時おり、つかえ、わからぬ所は王叔文が通訳をした。 「空海よ」  順宗は言った。 「はい」  空海がうなずく。 「人とは、いずれ、死ぬものぞ」 「はい」 「この朕も、いずれは死ぬ……」 「はい」  これにも空海はうなずいた。 「人は、この世に何かしらの役目を負うて、生まれてきたものじゃ」 「左様に存じます」 「朕は今、その皇帝という役を負うておる」 「はい」 「そちは、何の役を負うておる」 「沙門《しゃもん》空海という役を」 「では、その沙門空海が、この唐へやってきた目的はいずくにある」  順宗は、そう言って、疲れたのか、しばらく短い呼吸を繰り返してから、 「まさか、わが唐王朝の秘事に関わろうと思うて、やってきたわけではあるまい」  そう言った。 「空海よ、おまえが、この唐にやってきたのは何が目的じゃ」 「天の秘事にござります」  空海は言った。  空海は、わざと、宇宙という言い方を避けた。 「天?」 「密《みつ》にござります」 「密?」 「密を、この長安より、倭国に持ち帰るためでござります」  空海は言った。  順宗は空海を見つめ、 「どうじゃ、空海。そちはこの長安に留まるつもりはないか」  そう言った。  空海という才を、この長安に留めたい——そういう意志があったはずである。  ここで、空海は、大きな危機に立たされたと言っていい。  ある、と言えば、留まらねばならない。  皇帝と、直答で、あると言っておきながら、それを反故《ほご》にはできない。  かといって、 �ない�  とも言えない。  ある、とも、ない、とも言えず、しかし、なおその場で答えを要求されているのである。 「この空海、もとより棲《す》み家《か》はこの天地《あめつち》でござりますれば、どこに座《ざ》すかということは、些些《ささ》たることにすぎませぬ」 「ほう」  長安にいてもよい、いなくともよい——空海の言っていることはそういうことである。  しかし、だからといって、 �では、この長安にいてもよいではないか�  とは順宗は言わない。  空海の次の言葉を待っている。  空海にしても、この唐に残りたいとの思いはある。  空海にとって、日本という国は狭すぎた。  唐の、この長安の方が、空海という類《たぐい》まれな才を持った器に合っている。  空海自身も、それはわかっているのである。  しかし——  日本には、未《いま》だ、密がない。  この長安にはあるが、日本にはないのだ。 �この密をもって——�  日本国を仏国土となす——  それを、空海は、日本で約束をした。  阿弖流為《アテルイ》。  坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》。  彼らとの約定《やくじょう》を違《たが》えるわけにはゆかない。  しかも、純粋な理念を持った密を育てるには、この国は広すぎた。  新しい密を生み、育てるにはあの国こそがふさわしいのではないか。 「しかしながら——」  と空海はこの時両手を広げて順宗を見た。 「わたしにとっては同じでも、日本国にとっては違います。日本国は、このわたくしを必要としております」  ぬけぬけと、空海は言ってのけた。  尊大とも言える言い方であり、過剰すぎるほどの自信に溢れた言葉でもあった。  空海の顔には、満面の笑みが溢れている。  人をひき込まずにはおかない、微笑であった。 「さもあろう」  思わず、世界の中心にいる人物は、空海に対してそう答えていた。  順宗皇帝が、空海の言ったことを肯定したのである。  次に、順宗が何かを言う隙《すき》を、空海は与えなかった。 「ありがとう存じます」  空海は、そう言って、深々と順宗に向かって頭を下げていたのである。  これで、空海が帰るという共通の認知が、皇帝との間に成立してしまったことになる。  しかし、空海は、この会話を、それだけのもので終らせなかった。 「しかし、この空海、大唐国には二十年居るということでやってまいりました」  これは事実である。  空海は留学僧《るがくそう》として、橘逸勢は留学生として、二十年唐に留まって、それぞれ密と儒《じゅ》を学びに来ている。  これは、日本国と大唐帝国との間——つまり国家間での約束が成立している。  勝手な帰郷は許されてはいない。 「その二十年、人の半生に及ぶ歳月でござります」 「うむ」  皇帝がうなずく。 「この半生、もとより大唐国にいる間は、唐と皇帝のために、我が力の全て捧げる覚悟でござります」  空海はうまい。  日本国に帰ると言っておきながら、次は、それは二十年後のことであるとも言っているのである。  この二十年という歳月は、ある意味では唐に残ると言っているのと、ほぼ同じである。  そう言っておいて、次に空海は、 「さりながら——」  と話の方向を変えた。 「二十年後に、果たして日本国から迎えの船が来るかどうか——」  日本と唐との遥ばるとした距離を思う時、これは現実味を帯びた言葉であった。 「もとより、目的は密でござりますれば、これを修得した後は、もし二十年に満たずとも、一刻も早く日本国へ帰るのが筋《すじ》でござりまするが、まだ、密の修得もままならず、日本国からの船がいつやってくるかもわかりませぬ」 「うむ」  皇帝がうなずく。  ここで、空海は、仮定の話ながら、 �約束の二十年に満たずとも、密の修得という目的が果たせたならば、帰ってもよい�  ということについて、順宗の了承を得てしまったことになる。  公の席ではないが、宮廷史の記録係が、当然のことながら、この会話は記録することになる。 「密か——」  と順宗は言った。 「はい」  空海はうなずいた。 「密ならば、青龍寺へ行け」  順宗は言った。 「青龍寺には、まだ、行っておらぬのだ、な?」 「まだ」 「では、恵果にもまだ会っておらぬ、のだ、な——」 「はい」 「急ぐがよい、空海よ……」  順宗は、そう言った。  順宗の様子に、疲れが見えている。 「時は、待たぬぞ……」  それが、空海に対して発せられた順宗の最後の言葉であった。  空海は、その順宗の言葉を、充分に理解していた。 「急ぎます」  空海は、そう答えていた。        (五)  空海が、青龍寺へ足を運んだのは、五月の末であった。  西明寺《さいみょうじ》の僧が、何人か空海に同行している。  志明《しみょう》と談勝《だんしょう》が一緒であった。  青龍寺は、左街にある。  左街の新昌坊《しんしょうぼう》。  その周囲には、見世物小屋や、酒場などもたち並んでいる。  その雑路の中を歩いて、空海は、新緑の中、青龍寺の山門をくぐった。  頭を剃《そ》り、新しい衣を身に纏《まと》い、まるで青年が初々《ういうい》しく頬を染めるがごとき面持ちで、空海は密教の聖殿に足を踏み入れたのであった。  すでに、空海の来ることを恵果《けいか》は知らされている。  恵果もまた、子供のようにはしゃぎながら、何人もの寺僧《じそう》と共に、空海を山門まで出むかえている。  互いに、相手のことは、これまで何度も耳にしている。  どちらも、待ちに待った邂逅《かいこう》であった。  空海を見るなり、 「大好《タアハオ》、大好《タアハオ》」  恵果は、少女のように頬を紅くしてこう言った。 �大いに好《よ》し、大いに好《よ》し�  そういう意味のことである。  この出会いを、空海は、後に『御請来目録《ごしょうらいもくろく》』の中で、次のように記している。 [#ここから1字下げ]  和尚、乍《たちま》ち見て、笑《えみ》を含み、喜歓《きかん》して曰く、 「我、先《まへ》より汝の来るを待つや久し。今日相見る、大好《おおいによ》し、大好し」 [#ここで字下げ終わり] 「我が生命、まさに今|竭《つ》きなんとす」  自分の生命は、もう長くない——恵果はそう言った。  日本から来たひとりの留学僧に、そのような重大事を、あっさりと恵果は口にした。  弟子の僧たちも、そのことは知っている。  恵果の生命も、もう長くはないであろうとわかっている。  もともと、身体の具合が悪かったことに加え、順宗を呪詛から守るために、残った生命をさらに磨《す》り減らしてしまった。  だが、それを恵果が自ら口にするのは、彼らも初めて耳にしたことであった。  しかし、恵果は、悲しんでいない。  空海を見て、子供のようにはしゃいでいるばかりである。 「今、この時に、空海よ、そなたを青龍寺にむかえることができてよかった——」  この恵果の横で、吐蕃僧鳳鳴《とつばんそうほうめい》が、微笑しながら空海を見つめていた。        (六)  密教の伝承は、経典《きょうてん》や、書いたものによらない。  灌頂《かんじょう》は、師から弟子へ、直接行なわれる。  まさに大慌てに——そう言えるほど性急に、この灌頂が、恵果から空海に対して行なわれている。  密教には、胎蔵部《たいぞうぶ》、金剛部《こんごうぶ》、ふたつの系統がある。  大日経《だいにちきょう》系の密教と、|金剛頂 経《こんごうちょうぎょう》系密教のふたつであり、それぞれ、簡単には、胎蔵界、金剛界と呼ばれる二系である。  このふたつを、空海は恵果から授けられたのである。  この両部の密教は、天竺《てんじく》——インドにおいて別々に発展してきた思想である。  この両部は、あくまで別々の経路をたどって長安に入り、はじめて、この両部がひとりの人間の中に納まったのが、恵果であった。  金剛頂経系の密教を、恵果は不空《ふくう》から授けられた。  大日経系の密教は、天竺僧|善無畏《ぜんむい》の弟子|新羅人《しらぎじん》の玄超《げんちょう》から授けられている。  その数一千人と言われる恵果の弟子の中から、この両部を授かっているのは、これまで、ただひとり、義明《ぎみょう》のみであった。  その義明は、空海が入唐した当時、すでに病を得ていた。  それほど長くは生きられぬ病であり、恵果と義明が死ねばそこで金剛部、胎蔵部、両部の密教を知る者が絶えることになる。  そういう時に、空海が恵果の眼の前に現われたのである。  この時、空海がこの長安でやったことは、一種の奇跡といっていい。  空海が初めて恵果の前に立った時、空海はすでに、その両部の密教を受くるに充分な、知的能力を有していたのである。  ある意味では、単に資格者というにとどまらず、空海はすでに密教を両部ながら己れのものにしていたと考えてもよいであろう。  あとは、密教のシステムに従って、伝法《でんぽう》を行なうという儀式のみが必要であったと考えてよい。  密教を授けるには、漢、梵《ぼん》、ふたつの言語の習得が不可欠であった。  空海は、恵果の前に立った時、すでにこのふたつの言語を、完全に己れのものとしていた。  梵語——つまり、サンスクリット語のことだ。  空海は、日本にいる時、すでに漢語を、漢人以上にたくみに操った。  梵語も、日本で学んでいる。  それと、長安に来て、およそ半年で、完全に自分のものにしてしまった。  このことは、空海自身が、『秘密曼荼羅《ひみつまんだら》教付法伝』の中に書いている。  醴泉寺《れいせんじ》の般若三蔵《はんにゃさんぞう》がその師であるが、空海のことであるから、街で天竺の人間を見つければ、話しかけて言語の習得をより完全なものにしようと努めたことであろう。 [#ここから1字下げ]  漢梵《かんぼん》、差《たが》ふこと無くして悉《ことごと》く心に受く [#ここで字下げ終わり]  唐の言葉も、天竺の言葉も、差《たが》うことなく、ひとつのものとして、空海の内部に納まっている——  恵果は、空海の言語能力についてはこのように評している。  もっとも、それだけの言語能力がなければ、いくら空海に才があろうと、自分の生命があとわずかであろうと、これほど短期間で、恵果は空海に密教を授けはしなかったろう。  六月に、空海は胎蔵界の灌頂を受けた。  七月には金剛界の灌頂を受け、八月には密教界の最高の位である阿闍梨《あじゃり》の位を授かる伝法灌頂《でんぽうかんじょう》も、空海は恵果から受けたのである。        (七)  この時の逸話が、残っている。  灌頂《かんじょう》のおりに、灌頂される者は、投華《とうげ》と呼ばれる儀式をすることになる。  自らの両手を合掌するかたちで握り合わせ、両手の人差し指のみをそこから立てる。立てた二本の人差し指に、花を挿《はさ》み、床に置かれた曼陀羅《まんだら》の上にこの花を落とすのである。  この時、投華する者は眼隠しをされ、曼陀羅の置かれた灌頂|檀《だん》の中まで師によって案内される。  だから、自分の落とした花がどこに落ちるかは本人にはわからない。  投華された花は、いずれかの仏の上に落ちる。その仏が、その投華した僧の生涯の念持仏《ねんじぶつ》となるのである。  六月の金剛部の灌頂においては、空海が投華した花は、中央の大日如来の上に落ちた。  この時、空海は、自ら青龍寺の庭に咲いていた露草《つゆくさ》を摘んで、それを投華の花とした。  投華の時、 「おう」  という声があがった。  眼隠しをとってみれば、紫色の小さな花が、金剛部の大日如来の上に落ちていた。 「わしの時は、転法輪《てんぽうりん》菩薩であった——」  恵果は、空海にこのように言った。  七月の、胎蔵部の灌頂のおりにも、空海によって投華された花は、胎蔵界曼陀羅図の中央、大日如来の上に落ちた。 「不可思議、不可思議」  恵果はそう言って悦《よろこ》んだ。  これによって、空海は、金剛部、胎蔵部、両部共、念持仏は大日如来となった。        (八)  八月に受けたのが、伝法灌頂である。  灌頂——文字通り、頭の上から水を注ぎかけることだが、この伝法灌頂は、ただの灌頂ではない。  両部の灌頂を別にして、そもそも密教においては、灌頂は三種類ある。  結縁灌頂《けちえんかんじょう》。  受明灌頂《じゅみょうかんじょう》。  伝法灌頂《でんぽうかんじょう》。  結縁灌頂というのは、僧に対してのみ行なわれるものではない。望まれれば在家信者に対しても行なわれる儀式である。  師僧が、壇上にのぼらせた受ける人物の頭上から、瓶子《へいし》の中の香水を灌《そそ》ぐ。  受け手に、密教の知識など何もなくてもかまわない。  受明灌頂というのは、僧や行者、仏教の専門家のみにほどこす灌頂である。  しかし、密教の全てを伝授するわけではない。ここで伝授されるのは、あくまで一部である。  三つ目の伝法灌頂が、最も高位の灌頂である。  全ての法を相手に授けるのがこの伝法灌頂であった。  この灌頂が済んで、 「猶《なほ》、瓶を移すがごとし」  恵果は、このように空海に言った。  ひとつの瓶の中に入った水を、一方の瓶に全て移したのと同様に、空海よ、全てをおまえに伝えたよ——  そしてこの時恵果は空海に、 �遍照金剛《へんじょうこんごう》�  という号を、与えたのである。  遍照というのは、�遍《あまね》く照らす�という意であり�金剛�というのはダイヤモンドのことである。この世で最も硬いもの——その本性が永遠に不壊《ふえ》であることを意味する。  遍照金剛とはつまり、大日如来の密号であり、なんと恵果はこれを、生身の、ひとりの僧に与えてしまったのである。  空海は大日如来である——このように言ったのと等しい。  恵果の仏弟子数千人——  それをさしおいて、金剛、胎蔵、両部の灌頂に合わせて、伝法灌頂まで空海は授けられてしまったのである。  それは、これまで恵果の弟子の中ではただのひとりもいなかった。  しかも、空海は、弟子として青龍寺に入ったばかりの新参者であり、異国の人間である。  よほど、恵果は空海を気に入ったのであろうが、これは、気に入ったという言葉のみでかたづけられることではない。  空海の才能が、並はずれていたのであろう。  この東海の小国からやってきた若い僧に恵果は痴《し》れ狂った——むしろそういう表現をする方が理解し易い。  数千の門弟の中にあって、恵果は孤独であったのではないか。  誰ひとり、自分の理解者がいない。  自分のレベルにある者がいない。  そこに、東国から、光明のごとくに空海という人物がやってきた。  自分の発する言語が、どれほど高度であろうと、どれほど難解であろうと、空海はただちにそれを理解する。  さらに空海は、恵果の言葉を受けて、これまで恵果自身が思いもよらなかった思考を開示してくる。 「さすれば、それはまた、あの庭に咲きたる露草の花にもまた遍《あまね》く届くものでなければなりませぬ」 「つまり、花が悦びで踊り出さぬのは、あれがすでに涅槃《ねはん》にあるからではござりませぬ」 「はい。このわたしが、より仏法に近く、そこの蠅《はえ》が、より仏法に遠いということはありませぬ。宇宙のあらゆる存在は、すべからく真理に対して等距離にあるということでござりましょう」  空海に語るのが、心地よい。  空海の語るのが、心地よい。  まるで、仏法に戯《たわむ》れるがごとくに空海の言葉は、遊び、飛んで、おもしろい。  尚《なお》、仏法からはずれない。 「空海よ、もう十年前にそなたに会いたかった……」  感慨を込めて、恵果は言った。        (九)  伝法灌頂のおり——  ひとりの老僧が、恵果のもとを訪れた。  青龍寺の僧ではない。  長安にある玉堂寺《ぎょくどうじ》という寺の僧である。  名を、珍賀《ちんが》といった。  青龍寺の恵果が、倭国から来たばかりの空海という僧に痴れ狂っている——そのような噂が珍賀の耳にも届いたのである。  密教僧ではあるが、恵果の弟子ではない。  不空の弟子であった順暁《じゅんぎょう》という僧の弟子であった。 「恵果様が、もの狂いされておられます」  青龍寺の僧が、珍賀に泣きついたものと思われる。 「どこの者ともわからぬ人物に、わが大唐国の密を、そっくりそのまま与えてしまうおつもりのようで——」  珍賀は、恵果より歳《とし》は上だ。  兄弟弟子のようなものであり、立場上、恵果とは対等に話をすることができる。  もとより、千人に余る恵果の弟子の全てが、空海という存在を認めているわけではない。  僧とはいえ、人間である。  恵果が空海という、昨日今日、青龍寺にやってきただけの僧に入れあげているのを見ておもしろかろうはずもない。  嫉妬《しっと》もする。  珍賀は、恵果の門弟たちを代表するつもりで、恵果のもとへやってきたのである。  珍賀は、空海について、 「これ、門徒にあらず。須《すべから》く諸経を学ばしむべし」  このように恵果に言った。 「ものには順序があろう。すでに、二十年、三十年と、ぬしに仕《つか》えている門弟もあるというのに、その人間たちをさしおいて、空海とかいう男に、伝法灌頂までしてしまうのか——」  まず、見習いとして諸経を読ませることから始めればよいではないか。  密教の一祖が大日如来である。  二祖が|金剛薩※[#「土へん+垂」、第3水準1-15-51]《こんごうさった》——ヴァジュラサットヴァ。  三祖が竜猛《りゅうみょう》——ナーガルジュナ。  四祖が竜智《りゅうち》——ナーガボーディ。  五祖が金剛智《こんごうち》——ヴァジュラボーディ。  六祖が不空。  七祖が恵果。  これは主として、金剛部の系譜である。胎蔵部を不空に伝えた善無畏《ぜんむい》は、五祖の金剛智と同じ時代、長安にあって玄宗皇帝に仕えた天竺僧である。  空海に話をもどせば——  ここで伝法灌頂を空海に授けるということは、空海を八祖と認定することに他ならない。  空海が八祖ということになれば、五祖の天竺僧金剛智が唐にもたらした、日本の皇位継承で言うなら、三種の神器《じんぎ》にあたる品が、そのまま空海と共に日本国に渡ってしまうことになる。  その品は、八種ある。  仏舎利《ぶっしゃり》八十粒。  刻白檀仏菩薩金剛像等一龕。  白緤大曼荼羅尊四百四十七尊。  白緤金剛界|三摩耶《さんまや》曼荼羅百二十尊。  五宝三摩耶金剛一口。  金剛鉢子一具二口。  牙床子一口。  白螺貝一口。 「これらの品が、唐から失われてしまってよろしいのですか」  こう言う珍賀に対して、 「よいではないか」  恵果はそう言った。 「何故じゃ」 「語るまでもありませぬ」  そう言って、恵果は口をつぐんでしまった。  もしも、恵果が、何故ならばとその理由を言えば、珍賀も反論できる。  しかし、恵果がその理由を言わねば、珍賀も反論ができない。  これには、珍賀も気分を害して、玉堂寺に帰ってしまった。  しかし、すぐその翌朝に、その珍賀が、西明寺にいる空海のもとまでやってきたのである。 「貧道《ひんどう》が間違うておりました」  空海にこのように言った。  空海は、何がなんだかわからない。  昨日、珍賀が恵果のもとまで行ったことをまだ知らないのである。 「実は、昨日恵果殿のところまで出かけてゆきました」  自ら空海に昨日のことを語って、 「どうかお許し下され」  頭を下げたのである。  このくだり、空海の『御遺告《ごゆいごう》』には、次のように書かれている。 [#ここから1字下げ]  ここに於《おい》て、珍賀、夜夢に降伏《ごうぶく》せらる。暁旦、小僧のもとに来至し、三拝して過失を謝す。 [#ここで字下げ終わり]  昨夜、夢を見て考えが変わったというのである。  こんな夢だ。  眠っていると、夢の中に四天王《してんのう》が現われた。  持国天《じこくてん》。  多聞天《たもんてん》。  広目天《こうもくてん》。  増長天《ぞうちょうてん》。  四天が立って、 「起きよ」  珍賀に声をかけてくる。  起きるも何も、夢とわかっている。  夢の中の自分は起きているのである。 「ええい、起きぬか」  持国天が踏みつけてきた。 「起きよ」  多聞天が踏みつけてきた。 「起きよ」  広目天が踏みつけてきた。 「起きよ」  増長天が踏みつけてきた。  起きているではありませぬか——  そう言おうとするのだが声が出ない。 「起きよ」 「起きよ」 「起きよ」 「起きよ」  四天王に、さんざん踏みつけられ、その痛さで眼を覚ました。  気がつけば、自室の寝台の上で、夜具の中にいる。 「起きたか」  声がした。  驚いたことに、寝台の周囲に四天王が本当に立っているではないか。 「ああ、哀しい」  はらはらと、持国天が涙を流す。 「ああ、くやしい」  多聞天が床を踏む。 「おまえは何と心の狭い人間なのじゃ」  広目天が歯を軋《きし》らせる。 「おまえは恥を知らぬのか」  増長天が睨《にら》む。 「何のことでしょう。わたしが何かいたしましたか」  珍賀は訊ねた。 「ああ、何のことかわからぬとは」  増長天が言った。 「自分の心の臓を眺めて思い出せ」  いきなり、広目天が、珍賀の胸の中に手を突っ込んできた。  心臓を引きずり出された。 「見よ」  多聞天が言った。 「わからぬか」  持国天が言った。  心の臓が目の前にある。  それがひくひくと動いている。 「これを握り潰してくれようか」  広目天が、手の中の心臓を握ると、珍賀の胸が急に苦しくなった。 「どうじゃ苦しいか」 「我らも苦しい」 「苦しや」 「苦しや」  四天王が、珍賀の前で身悶《みもだ》えする。 「真に密法を授けらるべき者が、それを授けられずにいる」 「こんなに苦しきことがあろうか」 「こんなに哀しきことがあろうか」 「| 大 悲 《おおいにかなし》」  四天王が、悶えながら、拳で涙をぬぐった。 「皆、ぬしのせいじゃ」 「ぬしのせいじゃ」 「地獄へゆくか」 「ゆくか」  広目天が、手を伸ばし、珍賀の心臓を、珍賀の口の中に押し込んできた。 「これは返しておく」 「今一度、ぬしには機会をやろう」 「よくよく考えよ」 「心して決めよ」  そして——  四天王は姿を消した。  珍賀は、そこで本当に眼を覚ました。  自らの唸《うな》り声で覚醒したのである。  ああ、今のは夢であったか——  そう思った。  しかし、翌朝になって、寺の者と顔を合わせた途端、 「それは何でござりまするか」  額を指差されて、そう問われた。  慌てて鏡を見れば、なんと珍賀の額に、 �| 大 悲 《おおいにかなし》�  このように書かれていたというのである。 「これが、今朝のことでござりました」  と、珍賀は空海に言った。 「貧道が間違うておりました。貴僧こそが、密を授くるにふさわしき人物であること、今は信じております」  本気であった。 「青龍寺に、そなたが密の八祖としてふさわしくないと言う者あらば、この貧道がその者にそれが間違った考えであること、説いて聴かせましょう」  そう言って、珍賀は空海に三拝、四拝して帰っていったのである。 [#改ページ]    結《むすび》の巻 長安曼陀羅        (一)  空海が、青龍寺において、灌頂《かんじょう》を授《う》けているこの時期も、唐王朝はめまぐるしく動いていた。  空海が青龍寺で伝法灌頂を受けた八月——  病気の順宗皇帝は、| 制 《みことのり》を出した。 [#ここから1字下げ] �太子をして皇帝の位に即《つ》けしめ、朕《ちん》は太上皇と称す� [#ここで字下げ終わり]  これによって順宗は退位し、皇太子の李純《りじゅん》が憲宗《けんそう》皇帝となった。それにともない、元号が貞元《ていげん》から永貞となった。  空海|入唐《にっとう》中に、皇帝が二度、代わったことになる。  このことにより、宮廷内の人事も大きく動いた。  実質的に宮廷を支配していた王叔文《おうしゅくぶん》と|王※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《おうひ》のふたりが、左遷されたのである。  王叔文は、渝州《ゆしゅう》の司戸《しこ》に左遷され、王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》は関州《かんしゅう》の司馬《しば》となった。  いずれも、僻地《へきち》の州の属官である。  左遷されたのは、このふたりばかりではない。ふたりに近い場所で働いていた文官たちも、刺史《しし》として地方に赴くこととなった。  空海の周辺で言えば、劉禹錫《りゅううしゃく》は連州《れんしゅう》に、韓泰《かんたい》は撫州《ぶしゅう》に、そして、柳宗元《りゅうそうげん》は邵州《しょうしゅう》に飛ばされた。  刺史と言えば、地方の長官であるが、いずれも現地へ到着する前に、刺史から司馬へと降格されている。  そこそこの地位に左遷しておいて、当人たちが任地に到着する前に、さらにその役職を下げるというのは、古来より行なわれてきたやり方であり、これについては当人たちも覚悟していたことであろう。  九月——  任地に赴く前に、柳宗元が、西明寺に空海を訪ねてきた。 「お別れの御挨拶にうかがいました」  柳宗元は空海に言った。 「邵州にゆかれるとか——」  空海の言葉に、 「はい」  静かに柳宗元はうなずいた。  どのように押し隠しているのか、その声に無念の響きはない。 「まだ、道半ばではありますが、これも運命でしょう」  柳宗元——熱血の詩人は淡々として言った。 「我々のなした仕事の多くは消え去ることとなりましょうが、そのうちの幾つかは残ることでしょう」 「わたしもそう思います」  空海はうなずいた。 「ほっとしました」  柳宗元は言った。 「ほっと?」 「空海さんにそう言っていただけると、本当に我々の仕事の幾つかは残りそうな気がします」 「残りますとも」  空海は、もう一度言った。 「仕事が残る——わたしのような立場の者には、たいへん嬉《うれ》しい言葉です」 「いつ、発《た》たれるのですか」  空海は訊いた。 「三日後です」 「王叔文さんは——」 「すでに、渝州に発たれました」 「そうですか」 「くれぐれも、空海さんには礼を言っておいてくれと、そう伝言を頼まれました」 「礼を?」 「あなたのおかげで、我々には、しばらくの時間の猶予があったということです。その間に、幾つかの仕事をまとめておくこともできました」  柳宗元は、空海を見やり、 「王叔文先生も、すでに覚悟されておいででした」  そう言った。  何の覚悟かとは、空海は問わなかった。  柳宗元の言った言葉の意味がわかったからである。  唐に限らず、この国においては、政治的に失脚した者がたどる運命は、死であったからである。  まず、地方に左遷され、そこで閑職が与えられる。  次には、それほど間を置かずに、都から使者がやってきて、自ら生命を断つようにとの命を伝えるのである。  その死において飲むべき毒薬が共に届けられる。 �死刑�  というのとは違う。  あくまでも本人の自由意志によって、これを飲む。  これを、この国では、 �死を賜《たま》わる�  という。  これを拒否すれば、殺されて、病死として都に報告される。  事実、王叔文は、左遷の翌年、この�死を賜わ�っている。  一方の王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》は、同じ年に�病死�した。 「まあ、人の世とはそういうものでありましょう……」  柳宗元は言った。 「劉禹錫先生は?」  空海は訊ねた。 「連州です」  柳宗元は言った。  柳宗元の最も仲の良かった詩友である。  ふたりも、これで別れ別れになる。  柳宗元と劉禹錫——このふたりには、後日譚《ごじつたん》がある。  柳宗元は邵州の刺史に、劉禹錫は連州の刺史に左遷されたがその後、柳宗元は永州《えいしゅう》の司馬に、劉禹錫は朗州《ろうしゅう》の司馬に、さらに役職を下げられた。  それから十年後、長安で、このふたりの官位をあげようではないかという話が持ちあがった。  ふたりの左遷は、もともと王叔文左遷に連座してのものであり、あれから十年、充分にほとぼりは冷めたという判断があったのであろう。  さらに言えば、ふたりは人材として優秀であった。これを閑職においておくことはない。  こうして、ふたりは二階級の特進をして、それぞれ刺史となることになったのである。  任地もかわって、柳宗元は柳州《りゅうしゅう》に、劉禹錫は播州《はしゅう》に赴くこととなった。しかし、播州は、現在で言う雲南省と貴州《きしゅう》省の境にあって、辺境の地であった。  劉禹錫には、歳老いた母がいる。 「劉禹錫とわたしの任地をとりかえていただきたい」  柳宗元は、このように長安に申し入れた。  結局、この嘆願により、柳宗元はそのまま柳州の刺史となり、劉禹錫は、連州の刺史となったのである。  柳宗元は、その二年後、四十七歳でこの世を去った。  この柳宗元の墓誌を書いたのが劉禹錫であった。  この後、劉禹錫は長安にもどされ、七十一歳まで生きた。  長安で別れて以来、柳宗元と劉禹錫は二度と再び会うことはなかったが、ふたりの友情は生涯続いたのである。  詩人として、ふたりはこの国の民に愛された。 「今度のことも、黄鶴《こうかく》の一件が発覚してのことではありません。我々のやったことを快く思っていない連中がしたことです。仕方ありません。その者たちには彼等なりの志があり、そのためには、前の人間が近くにいてはやりにくいに決まっているでしょうから——」  しっかりした口調で、柳宗元は言った。 「あなたとお会いできたことは、幸運でした」 「幸運?」 「どこにいても、仕事はできる——それを、わたしはあなたから学びました」  柳宗元は、初めて、微笑した。 「あなたは、あなたの場所で、あなたの仕事をする。わたしは、わたしの場所でわたしの仕事をする。死ぬまで——」 「死ぬまで?」 「死ぬまで、仕事です」  きっぱりと、柳宗元は言った。 「もう、二度とお目にかかることはないと思いますが、お元気で——」  それが、柳宗元の最後の言葉であった。  柳宗元は、西明寺を辞し、三日後、邵州に向かって旅だっていった。        (二)  十二月——  恵果《けいか》は病床にあった。  空海に、己れの持てる限りを灌頂《かんじょう》し、生命を燃やし尽くしたかの如くに、恵果は病床に就《つ》いたのである。  もともと、病を得ていたのだが、空海が青龍寺にやってきてからは、弟子たちにも信じられぬくらい、恵果は元気になった。  この分では、まだまだ恵果は大丈夫ではないか——  青龍寺の僧たちの多くもそのように考えるほどになった。  しかし——  八月に伝法灌頂を済ませた後、九月に入ってから、再び恵果の病状が悪化したのである。  それでも、空海を常に自分の傍《かたわら》に置いて、恵果は、自分の相手をさせた。  仏法上の儀礼を離れた部分についても、恵果は空海にできるだけ見せておこうと考えたのであろう。  さらには、師と弟子を離れた部分での空海との交わりを、恵果は悦んだのである。  自分も空海も、共に仏法の徒であるということでは同じであると、恵果は考えていたようであった。  師弟を離れ、仏弟子として空海と共に修行をする——その悦びを、死の間際まで享受したかったのであろう。  十二月のある日——  空海は、恵果に呼ばれた。 「お呼びでございますか」  空海は、病床の恵果の前に立って言った。        (三)  夜である。  灯火が、ひとつだけ点《とも》っている。  恵果と空海と、ふたりだけであった。  寝床の中で仰向けになっている恵果の枕元に立って、空海は恵果の顔を見つめている。  恵果は、清冽な夜の大気を静かに呼吸している。  その顔が、ほんのりと微笑している。 「空海よ」  低い、静かな声で恵果は言った。 「はい」  空海もまた、静かな声でうなずいた。 「そなたに、今宵最後の教えを授けよう」 「はい」  空海はうなずく。 「金剛、胎蔵、両部の灌頂ではない。結縁灌頂、受明灌頂でもなく、伝法灌頂でもない。これより我が説くことは、それらのどれでもないが、それらのどれよりも貴重な教えじゃ——」  恵果は、空海を見あげ、 「今、わたしは教えを授けると言うたが、これよりわたしが授けようとすることは、教えずともすでにそなたが皆承知していることばかりじゃ」  そう言った。 「しかし、言うておく。それはつまり、わたし自身の口から出ずる言葉なれど、そなたがわたしに言う言葉でもある。空海よ、わたしがそなたに教えるということは、わたし自身がそなたに教えを乞うということでもある。このことの意味も、すでにそなたはわかっていよう」 「はい」  空海はうなずいた。 「空海よ、そなたは、ここで学んだものの全てを捨てねばならない。この意味がわかるな——」 「わかります。恵果様——」 「心は、深い……」 「はい」 「心の深みに下りてゆき、その底の底の底——自分もいなくなり、言葉も消え、ただ、火や、水や、土や、生命そのものが、もはや名づけられぬ元素として動いている場所がある。いや、もはやそこは、場所とすら呼べぬ場所だ。言葉で名づけられぬもの。言葉の無用の場所。火も、水も、土も、自分も、生命も、わかちがたくある場所にたどりつく。そこへゆくには、心という通路を通って降りてゆくしかない」 「はい」 「それは、言葉では教えられぬ」 「はい」 「わたしは、いや、多くの者たちが、それを汚してきた。言葉によって、知識によって、儀式によって、書によって、そして、教えによって——」 「はい」 「それら全てを捨てよ……」 「はい」 「そなたは、捨てよ」  恵果は、つぶやき、そして眼を閉じて、静かに大気を呼吸した。  再び眼を開き、 「しかし、言葉は必要じゃ。儀式も、経も、教えも、道具も必要じゃ」  恵果は言った。 「この世の者の全てが、そなたのようではない。そうではない者のために言葉は必要なのだ。言葉を捨てるために、あるいは知識を捨てるためにこそ、言葉も知識も必要なのだ」 「はい」  空海は、ただ、うなずく。  恵果の言うことは、よくわかっている。  すでに、全ての灌頂を受け終えた瞬間から、空海にとっては、あらゆる儀式も教えも必要のないものとなっている。  ただ——  日本国において、あるいはこの唐の国において、人々に密《みつ》の教えを広めるためには、言葉も儀式も必要なものだ。  人は、己れの足で、頂《いただき》まで歩んでゆかねばならない。そのための杖も、沓《くつ》も、食べ物も、衣も、まだ頂へ向かおうとする修行者のためには必要なのだ。 「片足は、聖なる場所へ、片足は俗なる場所へ——そうして、二本の足で己れという中心を支えねばならぬ……」  そう言って、恵果は眼を閉じた。 「窓を開けよ……」  恵果は眼を閉じたまま言った。  空海は、言われるままに、恵果の枕元に近い窓を開けた。  十二月の冷気が、部屋に入り込んできた。  灯火が、微《かす》かに揺れた。  恵果が、眼を開いた。  恵果からは、夜の天にかかった月が見えている。  月光が、恵果の上に差している。 「空海よ、そなたにもはや授けるべきものはない」  月を見ながら、恵果は言った。 「お身体に障《さわ》りませぬか?」  空海は、恵果に言った。 「かまわぬ。この冷たさが心地よい」  恵果の言葉は、はっきりしている。 「空海よ、そなたに出会えて、本当によかった……」 「わたくしも」  空海は言った。 「わたしは、じきに逝《ゆ》くことになるであろう。そなたに出会えぬままであれば、未練が残ったやもしれぬが、今はそれもない」  恵果の視線が、空海にもどってきた。 「死は、恐ろしゅうはない。死の間際に、多少苦しむことはあるやもしれぬが、誰もがいずれは通る道じゃ、そのくらいの我慢はできよう」  恵果の言葉を、空海はただ黙って聴いている。 「生も死も、ひとつものぞ。生まれ、生き、死ぬ——この三つそろうて初めて生きるということができあがっている。生まれることも、死ぬということも、生きるということの違うかたちの現われにすぎぬ」 「はい」 「空海よ。疾《と》く倭国へ帰るがよい。その機会あらば逃《の》がすな」  恵果の慈愛に満ちた言葉であった。  やがて、空海は、日本へ帰ることになる。  それがいつであるにしろ、恵果の伝えてきた密の教えは、空海と共に海を渡ってしまうことになる。  恵果がここで、行《ゆ》くなと言えば、その時その言葉は空海の重荷になる。  それを察して、恵果が空海に言ったのであった。  それが、空海には痛いほどわかる。 「ありがとう存じます」  眼頭に熱いものを覚えながら、空海は言った。 「よい月じゃ」  恵果は言った。        (四)  恵果は、それから三日後に逝った。  遷化《せんげ》——  高僧の死を、こう呼ぶ。  死ではなく、住む所を遷《うつ》す——という意味であった。  時に、永貞元年十二月|庚戌《こうじゅつ》——十五日のことであった。  望日《ぼうじつ》——満月の夜に世を去った。  齢《よわい》六十。  葬儀にあたって、碑が建てられた。  この碑文の撰《せん》と書を、空海が書いた。  撰——つまり空海が文章を考え、空海の書いた書が、そのまま碑に刻まれたのである。  恵果の弟子数千人——その中から空海が選ばれたのは、空海が伝法灌頂を受けていたからではない。  こういう場合、碑の文は、必ずしも弟子が書くわけではない。文章は文章の上手な者に作らせ、碑に刻む書は、書を得意とする者に書かせるということが当時のみならず、中国の歴史を通しての一般的な流れであった。  空海が選ばれたのは、空海が文章家として優れていたからであり、書家としても優れていたからである。 『性霊集《せいれいしゅう》』に、その文面が残っている。 [#ここから1字下げ]  俗の貴ぶ所の者は五常、道の重んずる所の者は三明《さんみょう》なり。惟《こ》れ忠惟れ孝、声を金版に彫る。其の徳天の如し、盍《なん》ぞ石室に蔵さざらん乎《や》。嘗試《こころみ》に之を論ぜん。 [#ここで字下げ終わり]  このような文章で始まる、千八百字からなる碑文である。  その最後は、次のように結ばれている。 [#ここから1字下げ]  生《しょう》は無辺なれば  行願《ぎょうがん》 極莫《きわまりな》し  天に麗《つ》き水に臨み  影を分つこと万億  爰《ここ》に挺生《ていせい》有り  人形《にんぎょう》にして仏識《ぶつしき》あり  |※[#「田+比」、第3水準1-86-44]《び》尼《に》と密蔵と  呑并《どんへい》して余力あり  修多《しゅた》と論と  胸臆《きょうおく》に牢籠《ろうこ》す  四分《しぶん》に法を秉《と》り  三密 加持《かぢ》す  三代に国師たりて  万類 之に依《よ》る  雨を下し雨を止むること  日ならずして即時なり  所化《しょけ》 縁尽き  怕焉《はくえん》として真に帰す  慧炬《えこ》 巳《すで》に滅《き》え  法雷 何《いづ》れの春ぞ  梁木 摧《くだ》けぬ  痛ましき哉《かな》 苦しき哉  |松※[#「潭」の「さんずい」に代えて「きへん」、397-17]《しょうか》 封閉す  何《いづ》れの劫《こう》にか更に開かん [#ここで字下げ終わり]        (五)  年が明けて、正月|丙寅《へいいん》の日——  憲宗皇帝は、父である順宗に上皇の尊号を送った。  応乾聖寿太上皇——  これがその尊号である。  その翌日、つまり正月の二日、元号が永貞から元和にかわった。  順宗の退位により、昨年の八月から永貞の元号が使用されていたのだが、今は憲宗が皇帝であり、元号をあらためるのは自然なことであった。  そしてほどなく、正月のうちに、上皇の順宗が死んだ。  むろん、突然の死ではない。  病床にあって、もう、いずれみまかるであろうと考えられていた時期の死であった。  そして——  長安が、上皇の死によって慌しいこの時期に、空海が蒔《ま》いていた種が花を咲かせたのであった。  待っていたものが来た。  倭国、日本国からの使者が、長安にやってきたのであった。        (六) 「おい、空海、聴いたか」  西明寺に駆け込んできた逸勢《はやなり》は、呼吸も整わぬうちに、空海に言った。 「日本より使者が来たぞ」  逸勢の声は、うわずっており、顔には喜悦といっていい表情が浮かんでいる。 「知っている」  空海の声は落ち着いている。 「大使は高階真人遠成《たかしなのまひととおなり》殿だ」  空海は言った。  日本からの使者が、長安に着いたのは昨日である。  常の遣唐大使のように、唐の文明を日本に持ち帰ることを目的としたものではない。  昨年正月、空海たちと共にやってきた日本の遣唐大使|藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》がまだ長安にいる時、皇帝の徳宗《とくそう》が崩《ほう》じて、皇太子の李誦が順宗新皇帝となっている。  葛野麻呂が長安にいたものの、日本国としては、まだ正式にそのくやみと祝の言葉を、順宗に対してのべていない。  高階真人は、その日本国の正式な使者として、長安にやってきたのである。  葛野麻呂が日本に帰る前、 「このまま、何もせずにおくつもりではござりませぬでしょうな」  空海は葛野麻呂に言った。  日本へ帰ったら、すぐに、そのくやみと祝のための正式な使者を送るよう、主上《おかみ》に奏上すべきであると、空海は葛野麻呂に吹き込んだのである。  この空海の蒔《ま》いた種が、思惑通りに実を結んだのである。  高階真人たちが長安に着いたのは、空海が密教の伝法灌頂を受けた直後と言っていい頃であり、これ以上はないという時期であった。  おれが謀《はか》ったことだからな——  しかし、空海はそうは口にしない。 「今日、ゆく」  空海は言った。 「どこへだ」 「鴻臚《こうろ》客館だ」  鴻臚客館は、各国からの使節が宿にする場所である。  日本からの留学生として長安にいる空海と逸勢は、使者が本国からやってきたとなれば、当然挨拶に出向かねばならない。 「急ぐ」  空海は言った。        (七)  日本からの使節一行と会うなり、逸勢は、その眼から涙を噴きこぼした。  よほどなつかしかったのであろう。  挨拶がすむと、 「噂は耳にしておる」  高階真人は空海に言った。  どのような——  とは、空海は問わなかった。 「恐縮でございます」  空海は、そう言って頭を下げただけであった。 「葛野麻呂様のお話では、空海殿がいてたいへんに助かったと——」  遣唐使船が福州《ふくしゅう》に流れついて、どうにもならなかったおり、空海の書いた文章によって、一行は陸に上れただけでなく、厚いもてなしまで受けた。  長安に入ってからも、空海の語学力や、その才によって、葛野麻呂は助けられている。  それを、朝廷で、過剰なほどに熱を込めて葛野麻呂が語る姿が眼に浮かぶ。 「それだけではない。この長安には着いたばかりだというのに、何度もおまえの噂は耳にした」  すでに、空海の名は、長安の知識人の間に知れ渡っている。 「青龍寺《せいりゅうじ》で、大|阿闍梨《あじゃり》となられたそうな」 「はい」  空海はうなずく。  東海の小国、日本からやってきた留学僧《るがくそう》の空海が、青龍寺で伝法灌頂《でんぽうかんじょう》を受け、大阿闍梨となったことは有名であり、あちこちの知識人や名士、文人たちが自分たちの集まりに空海を呼び、書や文章を書かせたのである。  空海は、そういう場所で、惜しむことなく、相手の望む以上のことを演じてみせた。 「日本から来た」  そう言うと、 「おう、あの空海和尚の——」  そう返ってくる。  高階真人の気分の悪かろうはずがない。  空海は、そのあたりの機微を知りぬいているがごとく、高階真人にはうやうやしい態度で言った。 「実は、貧道《ひんどう》、高階様に願いごとがござります」 「何だ」 「帰りたいのです」  空海は言った。  その言葉を耳にして、驚いたのは、高階真人よりも、逸勢であった。 「本当《まこと》か、空海」  逸勢は、思わず声に出して言った。 「真実《まこと》にござります」  空海が話す相手は、あくまで高階真人である。 「この空海、密《みつ》を求めてこの長安までやってまいりました」  空海は言う。 「その目的、すでに果たしました」  それには、高階真人もうなずくより他にない。  空海は、すでに伝法灌頂を受けている。  師であった恵果《けいか》亡き後、密教においては、この長安で空海は頂点にいる。  長安に入って、ほぼ一年で空海は望むものを手に入れてしまった。 「この上は、一刻も早く、日本国に帰り、この教えを広めたいと願っております」 「しかし——」  と、思わず高階真人が口にしたのも無理はない。  空海にしろ、逸勢にしろ、日本国からの正式な留学生として、長安に入っている。  本人が帰りたいと言ったからといって、勝手に帰るわけにはいかない。唐朝廷が正式に許可をしてはじめて帰ることができるのである。  さらに、日本国の朝廷に対しては、二十年の約束でこちらに来ている身分である。  勝手に早く帰ってよいものかどうか。  これを勝手に許して、後に問題があれば、高階真人も困った立場になる。問題を起こすのを役人が嫌うのは、今も昔も同じだ。  高階真人にしてみれば、新皇帝に、日本の朝廷からの祝いの言葉をのべるのが、この入唐《にっとう》の主たる目的である。  そう思ってやってきたら、当の順宗《じゅんそう》は、すでに崩御《ほうぎょ》し、新しく憲宗《けんそう》が皇帝となっている。  何しろ、高階真人が入唐した時は、まだ順宗は生きており、実際にその死を知らされたのは、洛陽《らくよう》に入った時であった。  順宗の死の三日後だ。  あわただしい中での、空海、逸勢との対面である。  突然の空海の申し出に、高階真人もとまどっている。  高階真人に、なりゆき上にしろ、最初に、 �ならぬ�  そういう言葉を言わせてはいけない。  いきがかり上、思わずそう言ってしまったにしろ、言った以上、その言葉に対して意地になるのが人間だからである。  空海も、そこは心得ている。  ここで、空海は、とどめのごとき言葉を口にした。 「実は、先の皇帝、順宗様のお許しはすでにいただいております」  まさか——  とは高階真人も言わなかった。 「本当《まこと》か」  そう訊ねた。 「はい」  自信をもって、空海はうなずいた。  むろん、これは事実である。  たっぷり時間をとってから、 「さりながら、それは正式のものではござりませぬ」  空海は言った。 「これを正式のものとするには、あらためて文書をもって、憲宗さまに、高階さまから奏上していただかねばなりません」  空海の言う通りであった。  日本国と唐との決めごとによって来ている以上、二十年の約定《やくじょう》の期間が終らぬうちに帰る場合は、日本国の大使からその旨を奏上するのが筋であった。  ううむ——  と高階真人が唸《うな》ったところへ、もう決まったことのように、 「その奏上文、わたくしが書きましょう」  空海は言った。 「空海……」  そう言ったのは、逸勢であった。  見れば、逸勢の顔は、血の気がひいて青冷《あおざ》めている。  身体も小刻みに震えていた。 「おれを、置いてゆくな……」  逸勢は、震える声で言った。 「おれを、独りにしないでくれ」  逸勢は声を大きくした。  この時、逸勢の心を掴《つか》んでいたのは恐怖であった。  この長安で、もしも空海がいなくなってしまったら——  自分は独りになってしまうではないか。  空海がいるのなら、なんとか耐えることはできよう。しかし、空海が日本に帰り、自分がこの唐の国で独りになってしまったら——  自分は、その淋しさに耐えられぬであろう。  言葉も、不十分で、まだ、儒学《じゅがく》のどの師にもついていない。  持ってきた金《かね》を使い果たすか、盗まれでもしたら、自分は飢え死にするしかない。  金がなくなろうとも、空海はすでにこの長安の宗教界では、宗門の頂に立つ人間である。  自分は、何者でもない。  銭を稼ぐすべがない。  いや、飢え死にする前に、日本が恋しくて恋しくて、自分はこがれ死にをしてしまうであろう。 「おれは、独りになったら狂い死にしてしまうだろう」  逸勢は、切羽《せっぱ》つまって言った。  逸勢は、空海から高階真人に向きなおり、 「お願いでござります」  頭を下げた。 「この橘逸勢も、日本に帰ることをお許し願いたいのです」  逸勢の眼から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。  いったん口にしたら、もう、止まらなくなった。  逸勢は、子供がだだをこねるように、 「お願い申しあげまする」 「お願い申しあげまする」  両手を突いて言った。  この誇り高い男が、空海以外の人間の前で、このような姿を見せるのは初めてのことであった。  あの、東海の小国。  その中のさらに小さな京。  その京でもさらにさらに小さな宮廷という世界。  逸勢自身が蔑《さげす》んでいたあの世界へ、逸勢は今、恥も外聞もなく、帰りたがっていた。 「お願いでござります」  逸勢は言った。        (八)  この時、空海の書いた、皇帝への奏上文が『性霊集』に残されている。  題は「本国の使《つかひ》に与へて共に帰らんと請ふ啓」 [#ここから1字下げ]  留住《るじゅう》学問の僧空海|啓《まう》す。空海、器|楚材《そざい》に乏しく、聡|五行《ごかう》を謝せり。謬《あやま》って求撥《ぐはち》を濫《みだ》りがはしうして海を渉《わた》つて来《きた》れり。草履《ざうり》を著《つ》けて城中を歴《ふ》るに、幸《さいはひ》に中天竺国《じゅうてんぢくこく》の般若三蔵《はんにゃさんざう》、及び内供奉恵果大阿闍梨《ないくぶけいくわだいあじゃり》に遇《あ》ひたてまつつて、膝歩接足《しつほせっそく》して彼《か》の甘露《かんろ》を仰ぐ。  遂《つひ》に乃《すなは》ち大悲胎蔵《だいひたいざう》・金剛界大部《こんがうかいだいぶ》の大曼荼羅《だいまんだら》に入つて五部瑜伽《ごぶゆび》の灌頂《くわんぢゃう》の法に沐《ぼく》す。|※[#「冫+(餮−殄)」、第4水準2-92-45]《さん》を忘れて読《とく》に耽り、仮寐《かび》して大悲胎蔵・『金剛頂《こんがうちゃう》』等を書写す。已《すで》に指南を蒙《かうむ》つて之《こ》の文義《ぶんぎ》を記す。兼ねて胎蔵大曼荼羅|一鋪《いつふ》、金剛界|九会《くゑ》大曼荼羅一鋪を図し〈并《なら》びに七幅、丈五尺〉、并びに新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢《せんそうを》へなんとす。  此《こ》の法は則ち仏の心、国の鎮《しづめ》なり。氛《ふん》を攘《はら》ひ祉《さいはひ》を招くの摩尼《まに》、凡《ぼん》を脱《まぬか》れ聖に入るの墟径《きょけい》なり。是の故に十年の功、之《これ》を四運に兼ね、三密《さんみつ》の印、之を一志《いっし》に貫く。此の明珠《めいしゅ》を兼ねて之を天命に答《たふ》せん。嚮使《たとひ》久しく他郷に客たりとも、領皇華《くびくわうくわ》に引かん。白駒《はくく》過ぎ易《やす》く、黄髪|何《いかん》がせん。今、陋願《ろうぐわん》に任《た》へず。奉啓不宣《ほうけいふせん》。謹んで啓《まう》す。 [#ここで字下げ終わり]  空海は、たちまちにして、これを書きあげている。  短い文面ながら、充分にその意は尽くされているといっていい。 「十年の功、之を四運に兼ね」  というのは、空海の自信であろう。 「四運」とはすなわち四季のことであり、つまり一年のことである。  普通であれば十年かかるところを、自分は一年でやってしまったと、空海は臆面もなく書いている。 「白駒過ぎ易く、黄髪何がせん」  歳月は白馬の通り過ぎるのにも似て、青年の黒髪もたちまち黄ばんで老人となってしまう——  これは、単なる修辞を越えて、空海の実感であったことであろう。        (九)  逸勢が、憔悴《しょうすい》しきった顔で空海の許を訪れたのは、空海が奏上文を書きあげてから、三日後のことであった。 「書けぬのだ」  逸勢は言った。  奏上文が書けない。  何をどう書いてよいかわからない。 「昨日、鴻臚客館でおまえの書いたものを読ませてもらったが、みごとなものだ。しかし、おれは、どう書いてよいかわからぬのだよ」  やつれた溜め息と共に、逸勢は言った。  空海には、帰るべき理由がある。  すでに、留学の目的は果たしている。  逸勢はそうではない。  これは、空海の求めた仏教と、逸勢の求めた儒教との違いというものも考えに入れねばならない。  仏教というものは、体系であり、儀式であり、灌頂という法を譲った証しとなる作法もあるが、儒教にはそういったものがない。  もしも、この奏上文でしくじれば、次はない。  空海は、高階真人遠成と共に帰ってしまう。  次の遣唐使船がいつになるかはわかっていない。  すでに、逸勢が日本を発つ頃から、 「遣唐使船廃止」  の声はあった。  国費が嵩《かさ》むばかりであり、唐の文物なら、わざわざ出向かずとも、その頃にはかなり日本にやってくるようになっていた、大陸の交易船から手に入れればそれですむ。 「次は、いつになるかわからぬ」  遠成は、逸勢にそう言った。  事実、次の遣唐使船は、この時より三十二年後の承和五年(八三八年)のことであり、空海で言えば、この時に帰らなかったら、日本の土を踏めなかった。  逸勢は、結局、一行も書けずに、空海の許へやってきたのである。 「空海よ、頼む」  逸勢は頭を下げた。 「おまえが書いてくれ」  顔がやつれ、双眸《そうぼう》が光っている。  この時代、代筆ということは、慣習として自然に行なわれていた。  文字を読めたり書けたりするというのは、今日ほど一般的ではない。読めても書けぬ者はいたし、書けても、それは幾つかの文字だけというのが多数であった。文字を操り、文章を作るということができるというのは、特殊な技能であったのである。  しかし、逸勢は、日本が留学生として唐へ送り出したほどの人物であり、書の才も文才もあった。唐では、�橘秀才《きつしゅうさい》�と人から呼ばれることもあったのである。  その逸勢が、空海に奏上文の代筆を頼むというのは、よくよくのことであったろう。 「これまで、おまえが書いたことで、何ごとか成らぬことはなかった。福州の時もそうであった」  空海、逸勢の乗った遣唐使船が、嵐にあい、ようやく福州の地にたどりついた時のことを逸勢は言っているのである。 「葛野麻呂が、何度書いても駄目であったのが、おまえが書いたらあっという間に話がついてしまったではないか」  空海の書く文字、文章には、人を動かすそういった呪力があると逸勢は思っている。 「頼む」  逸勢は、懇願した。 「よいのか」 「よいとも」  しばらく考えてから、空海は言った。 「これは、非常に難しい。しかし、なんとか法はあろう」 「あるか」 「うむ」  うなずいて、空海は思案げに腕を組んだ。 「二度は出せぬ。一度で通すつもりなら、この奏上文、おまえにはおもしろくないものになる」 「かまわぬ」  逸勢は、きっぱりと言った。 「ならば書くが、おれの奏上文とおまえの奏上文が同じ手というわけにもゆくまいから、おれの書いたものを、おまえが書き写すことになろう」 「だろうな」 「その時、おれを恨むな。これからおれが書くことは、方便だからな」 「何を書かれようと恨みはせぬが、これから書いてくれるのか」 「書く。早い方がよかろう」  そう言って、空海は逸勢の奏上文を、その場で書き始めたのである。  これも、「橘学生、本国の使《つかひ》に与ふるが為の啓」という題で、『性霊集』に残されている。 [#ここから1字下げ]  留住《るじゅう》の学生逸勢啓《がくしゃうはやなりまう》す。逸勢、驥子《きし》の名無うして青衿《せいきん》の後《しりへ》に預かれり。理、須《すべから》く天文地理、雪の光に諳《そら》んじ、金声玉振《きんせいぎょくしん》、鉛素《えんそ》に縟《まだら》かんず。然《しか》れども今、山川|両郷《りゃうきゃう》の舌を隔てて、未だ槐林《くわいりん》に遊ぶに遑《いとま》あらず。且《しばら》く習ふ所を温《たづ》ね、兼ねて琴書《きんしょ》を学ぶ。日月荏苒《じつげつじつぜん》として資生都《しせいすべ》て尽きぬ。此《こ》の国の給ふ所の衣糧《いらう》、僅《わづ》かに以て命《めい》を続《つな》ぐ。束脩《そくしう》、読書の用に足らず。若使専《たとひもは》ら微生《びせい》が信を守るとも、豈《あに》廿年の期《ご》を待たんや。只|螻命《ろうめい》を壑《たに》に転ずるのみに非《あら》ず、誠に則《すなは》ち国家の一の瑕《きず》なり。今、所学《しょがく》の者を見るに、大道にあらずと雖《いへど》も、頗《すこぶ》る天を動かし、神を感ずる能有り。舜帝撫《しゅんていぶ》して以《もっ》て四海を安んじ、言偃拍《げんえんう》つて一国を治む。彼《か》の遺風を尚《たふと》んで、耽研《たんけん》、功|畢《をは》んぬ。一芸《いちげい》是れ立つ、五車《ごしゃ》通し難し。此の焦尾《せうび》を抱いて之《これ》を天に奏せんと思欲《おも》ふ。今、小願に任《た》へず。奉啓|陳情《ちんせい》す。不宣《ふせん》。謹んで啓《まう》す。 [#ここで字下げ終わり] 「山川両郷の舌を隔てて、未だ槐林に遊ぶ遑《いとま》あらず」  日本と唐と間は遥かに山川を隔て、自分は言葉が通じない——  このように空海である逸勢は書く。  さらに、 「資生都《しせいすべ》て尽きぬ」  資金を使い果たしてしまった。  この唐の国から給《もら》っている衣糧《いろう》でわずかに生命をつないでいるばかりである。 「只|螻命《ろうめい》を壑《たに》に転ずるのみに非ず——」 「螻《ろう》」というのはケラのことである。  空海は、逸勢に、自身のことを虫の螻《ケラ》に喩《たと》えさせているのである。  我が螻《ケラ》のごとき命を壑底《たにそこ》に捨てるだけではなく、これはまことに日本国の大きな瑕《きず》ではないか。  儒学の方はまだ成らずとも、音楽については多少のことは学ぶことができた。これも、大いに天を動かし神を感じさせる力のあるものである。自分は、この妙音を日本へ伝えたいという思いで今は一杯である。  どうか、日本へ帰ることを許していただきたい。  というのが、大意である。  空海が、その場で書きあげたものを読み、逸勢は、なんとも情けない顔つきをした。 「逸勢よ……」  空海が、言いかけた言葉を遮るように、 「よいのだ、空海」  逸勢は言った。 「この通りではないか……」  逸勢は、無理に微笑してみせた。  その文章を作るにあたって、空海自身が設定した想《そう》が、書くことによって次の想を生み、その想がさらに自走してしまう。  筆が滑る——そういうことになるかもしれない。  しかし、逸勢の感情をぬきにして、文章のみで言うなら、これはみごとに完成されたものであり、他に手の入れようのないものであるということも、逸勢にはわかっている。  逸勢は、空海の書いた自分の[#「自分の」に傍点]奏上文を手にしたまま、 「しかし、ひとつだけ言わせてもらいたいことがある」  低い声でつぶやいた。 「空海よ、おまえは、こういうことに才がありすぎるのがいかん」        (十)  ほどなく、空海は憲宗皇帝に拝謁《はいえつ》している。  場所は、宮廷の謁見の間である。  逸勢、遠成が共にいる。  かたちの上では、日本国からの使者である遠成がふたりを連れてきたというものであるが、憲宗の方から、空海を連れてくるように要請があったのである。 「そなたが空海か」  玉座から憲宗が言った。 「はい」  空海は、常の声でうなずいた。  逸勢と遠成は、緊張のため、空海の左右で身体を小刻みに震わせている。 「そなたのことは、聴き及んでいる」  順宗よりはよく通る声であった。  むろん、憲宗には病はない。  空海と逸勢の帰国願いの返事は、まだ受けてはいない。  常でいえば、それを受けてからの拝謁ということになるのだが、この時はまだ、その知らせは届いていなかった。 「残念であった」  憲宗は言った。  何が残念であるかを、憲宗は言わなかった。 「書が、巧みだそうだな」  憲宗は、興味深げに、この異国の沙門《しゃもん》を眺めている。  すでに、長安——つまり、唐の密教界では空海は最高位にある。  そのことを、憲宗も知っている。 「恵果|阿闍梨《あじゃり》の碑文も書いたそうだな」 「はい」  これには、空海はうなずく。 「そなたの書いた奏上文を読んだ」  憲宗はまだ、空海を値踏みするように見つめている。 「なかなかのものであった」  そして、憲宗は、後に�五筆《ごひつ》和尚�の名で知られるようになる空海伝説を、ここで作ったのである。        (十一) 「そなたに頼みがある」  憲宗は言った。 「なんでござりましょう」 「書を所望したい」 「書を?」 「うむ」  憲宗はうなずき、側近の者に眼で合図をした。  あらかじめ、だんどりが決められていたのであろう。  側近の者が近づいてきて、 「こちらへ」  空海たちをうながした。  すでに、憲宗は立ちあがって歩き出している。  空海たちは、うながされるまま、その後に続いて歩いてゆく。  石の床を踏んでゆくと、やがて、先行する憲宗たちは、ある一室に入って行った。  空海、逸勢、遠成が遅れて入ってゆく。  三間《さんげん》四方の部屋であった。  正面は、白壁であり、二本の柱によって、一間ずつ、三面の壁に仕切られていた。  向かって右側の二面は、まだ新しいが、左側の一面は、かなり古そうであった。その、古い壁の一面に、文字が書かれている。文字が書かれているのはその古い一面だけで、右側の新しい二面の壁は、何も書かれてはいない。  その壁の前に、玉座が用意されており、憲宗はそこに腰を下ろした。 「見よ」  憲宗は言った。  空海は、前に歩み出て、古い壁の前に立った。  憲宗と、それを取りまく三十人余りの側近たちが、値踏みするかのような眼で空海を眺めている。  おまえに、これがわかるか——  そういう視線が空海を包んでいる。 [#ここから1字下げ]  対酒当歌 酒に対してはまさに歌うべし  人生幾何 人生いくばくぞ  譬如朝露 譬《たと》うれば朝露のごとし  去日苦多 去りし日のみはなはだ多し  慨当以慷 慨《なげ》いてはまさに慷《いか》るべく  幽思難忘 幽思忘れがたし  何以解憂 何をもって憂《うれ》いを解かん  惟有杜康 ただ杜康《さけ》あるのみ [#ここで字下げ終わり]  ゆったりとした書であった。  自由に筆が動き、思うままに遊んで、しかし破綻《はたん》がない。  みごとな書であった。 「曹操《そうそう》様の詩と見ましたが——」  そう言って、空海は、言いかけた言葉を呑《の》み込むように口を閉じた。  側近たちの間から、低い、おう、という溜め息が洩れた。  ——空海、いかほどの者か。  そういう眼で眺めていた側近たちも、空海がその詩の作者を言いあてたことに対して、少なからず驚いているらしい。  日本国からやってきた僧が、どうしてこのようなことまで知っているのか。  確かに、それは、六〇〇年近く前、魏《ぎ》を興した曹操の作である「短歌行」であった。  曹操は、「横槊《おうさく》の詩人」とも呼ばれた人物である。詩想が浮かべば、戦場でも槊《ほこ》を横たえ、悠々とその場で詩を書いたと伝えられている。 『魏書』にも、 「軍を御すること三十余年、手に書を捨てず、昼は則ち武策を講じ、夜は則ち経伝を思う、高きに登れば必ず賦《ふ》し、新詩を造るに及びては、之に管絃を被せ、背楽章を成す」  とある。  曹操の作ったこの詩そのものにはまだ先があるのだが、ここでは�惟有杜康�で止めている。  空海が、何か言いよどんだのを見て、 「どうした」  憲宗が問う。 「ひとつ、わからぬことがござりまする故、その理由を考えておりました」 「何をだ。申せ」 「それは、何故、ここに王羲之《おうぎし》様の書があるのかということでござります」  空海が言うと、側近たちの間から、今度は明らかな驚きと讚嘆《さんたん》の声が湧きあがった。 「空海よ、何故、これが王羲之の書とわかった?」  憲宗が問う。  側近たちが驚いたのも、憲宗が思わず問うたのも、無理はない。  王羲之は、この時より四〇〇年以上も昔の人物であり、生まれた場所も、長安から遠く離れた琅邪臨沂《ろうやりんぎ》であった。  東晋《とうしん》の書家である。  空海入唐時も、それから今日まで数えても、大陸、日本を合わせた中で最も名の知られた書家であると言っていい。  しかし、現代に、その真跡《しんせき》は残っていない。  唐王朝を興した太宗《たいそう》が、この王羲之の書を酷愛して、王羲之七世の孫にあたる僧|智永《ちえい》に伝えられていたこの真跡を手に入れた。  これが有名な「蘭亭序《らんていじょ》」である。  永和九年三月三日|上巳《じょうし》の日——  山陰県に赴任していた王羲之の許に、多くの文人|墨客《ぼっかく》が集まって、曲水の宴《うたげ》を催した。この時集まった場所が名勝蘭亭である。  そのおり、集まった者たちがそれぞれ詩を書き、これを一巻としてその最初に王羲之自らが筆を取って�序�を書いた。  これが「蘭亭序」である。  この「蘭亭序」、太宗が崩御したおり、その遺命によって昭陵《しょうりょう》に殉葬《じゅんそう》せしめられ、そのままになってしまっている。  碑から取ったものや、その手を模写したものが残ってはいるが、めったなことではその真筆を見ることなどできない。  空海が、いったい、いつ、どこで王羲之の手を見たのか。 「わが国に王羲之の『喪乱帖《そうらんじょう》』というものが、お国より伝わっております」  空海は言った。 「王羲之の尺牘《せきどく》五通を合わせて一巻としたものでござりますが、真筆ではござりませぬ」 「ほう」 「双鉤填墨《そうこうてんぼく》にござります」  双鉤填墨というのは、真筆の上に下が透けて見える薄紙を乗せ、下の字の輪郭を、細い筆でなぞり、あらたにその輪郭線の中を、真筆の濃淡に合わせて墨を塗り入れるという、主に書の複製に使われる技法のことである。  この尺牘の第一行目に、「喪乱」の文字があることから『喪乱帖』の名で呼ばれるようになったものだ。 「それを見ていたので、わかったと申すか」 「はい」  もう、空海の受け答えには淀《よど》みがない。 「確かに、これは王羲之の真跡である。もともとは東晋の都、建康《けんこう》の宮殿の壁に書かれていたものじゃ」  憲宗が言う。 「時の皇帝が山陰県より王羲之を呼びよせ、書かせたものだという話ぞ」  憲宗が言う。 「晋が亡《ほろ》んだ後は、北魏《ほくぎ》の孝文帝《こうぶんてい》が、この書を欲しがって、壁ごと三面に分けて切り取り、運ばせて、洛陽の宮殿の壁として使うていたそうな」  それを、 「我が大唐国の太宗様の時、洛陽よりこれを運ばせて、太極殿《たいきょくでん》のこの場所に移させたのじゃ」  その時から数えても、すでに二〇〇年近くが過ぎようとしている。初めてこの壁に、王羲之が書を書いてからは、四〇〇年以上が過ぎている。  よく、これまで残っていたものだ。  気の遠くなるような歴史の深さであり、厚みであった。  逸勢は、声もない。  空海のみが、常と変わりない表情でそこに立っている。 「もともとは、三面に書かれていたのだが、古くなり、剥落《はくらく》して、二面は書がもうその体《てい》をなさなくなって、玄宗様のおり、修理《しゅり》されて、このように白いだけの壁となってしまった」  玄宗から数えても、すでに五十年—— 「安禄山《あんろくざん》めも、この王羲之の書には、手を出さなかったようじゃ。おかげでこの通り残っている……」 「——」 「しかし、白壁のままおくというのももったいないので、これまでにも、何度か、誰ぞに新しく書を書かせようとしたのだが——」  いざ、この壁の前に立つと、尻ごみして、誰もひと文字も書くことができなかったのだという。  何しろ、横にあるのが、あの王羲之の書である。その横に、自分の書いた書が並ぶことになる。おそろしくなり、手が震えて筆さえ持てなくなってしまった者もいるという。  それも無理はない話だ。  以来五十年あまり、二面の壁が白いまま残っている。 「どうじゃ空海——」  憲宗は言った。 「そなた、この壁に何ぞ書いてみぬか」  ひくり、  と、逸勢が喉仏《のどぼとけ》を動かして、息を呑み込んだ。 「所望とおおせになられたのは、このことでござりましたか——」 「いかにも」  答えた憲宗を、空海は見やった。  憲宗の真意を量ろうとした。  おれを試そうとしているのか——  空海が、尻ごみして、どうやって断わるか、それを見物して楽しもうというのか。  しかし、そのような考えが浮かんだのも、ほんの一瞬のことであった。  肉の中を流れる血が、止めようもなくその温度をあげてゆくのが、空海にはわかった。  なんという機会であろうか。  あの王羲之の書の横に、自分の書いた書が並ぶのだ。  心の臓が、脈打ち、知らず空海の顔が赤くなっている。  憲宗が、何を試そうとしているのかは、もうどうでもよくなっていた。これだけ、人のいるところで、憲宗自らが口にしたことだ。空海が書くといえば、もう、誰も、憲宗自身にも止めることはできない。 「悦《よろこ》んでつかまつりましょう」  空海は、満面に笑みを浮かべてうなずいていた。  もともと大唐帝国の皇帝が、所望したことである。拒否などできるものではない。かといって、つまらぬ字をもしも書いてしまったら——  そういう思考は、すでに空海にはない。 「もともと、こちらの二面には、何が書かれていたのでござりましょう」  空海は訊ねた。 「それは、わかっている」  憲宗はうなずいた。  記録は当然残っている。 「しかし、それは言うまい。同じものを書く必要はない」 「承知いたしました」  空海がうなずくと、 「これへ、用意がござります」  側近の者が言った。  見れば、部屋の隅に文机《ふづくえ》が置かれていて、そこに、筆の用意も、墨の用意も、硯《すずり》の用意もあった。硯も大きいもので、水の用意もたっぷりとある。  筆は、様々の太さのものが五本用意されていたが、いずれも大きく太めのものであった。 「墨を擦《す》る間に、何を書くか考えるがよい」  憲宗は言った。        (十二)  空海は、右側の壁の前にいる。  壁の近くに、たっぷりと墨の満たされた硯が載った文机が置かれている。  空海は、筆の一本を右手に持って、それに悠々と墨を含ませている。  緊張した風は見られない。  ——この男、自分が何をしようとしているのか本当にわかっているのか。  憲宗の側近たちのそういう視線が空海を見つめている。  ——唐における王羲之という人物の価値を、この男は真に理解できているのか。  ——何故、このように落ち着いていられるのか。  唐の、歴代の錚々《そうそう》たる書家たちが、いずれもこの壁の前で尻ごみし、一文字も書けなかったのを誰もが知っている。  重く墨を含んだ筆を持って、空海は壁の前に立った。  ひと呼吸の間を置いて、 「では」  空海はそう言った。  言った時には、もう、手が動きはじめていた。  流れるように、手が動く。  休まない。  空海の手にした筆の先から、次々にこの世に文字が生まれ出てくる。  疾《はや》い。  魔術を見るようであった。  壁面を前にして、空海の肉体が舞を舞っているようにも見えた。  空海は、たちまちにして、そこに一編の詩を書きあげていた。 [#ここから1字下げ]  力抜山兮気蓋世  時不利兮騅不逝  騅不逝兮可奈何  虞兮虞兮奈若何  力は山を抜き 気は世を蓋《おお》う  時利あらず 騅逝《すいゆ》かず  騅逝かずいかんすべき  虞《ぐ》や虞や 若《なんじ》をいかんせん [#ここで字下げ終わり]  空海が、これを書きあげた時、驚愕《きょうがく》の溜め息が湧きあがった。  戦国時代、漢の劉邦《りゅうほう》と覇《は》を争った、楚《そ》の項羽《こうう》が作った詩であった。  最後の戦《いくさ》の前——つまり、�四面楚歌�するのを聴いた項羽が、自分の死を覚悟して、妻の虞美人《ぐびじん》に舞を舞わせた。その時にこの詩が作られたのである。  騅《すい》というのは、項羽の愛馬である。  この後、項羽は虞美人を己が剣で殺し、戦場に騅と共に向かってゆく。  左側の壁に、曹操の詩があることから、それと対《つい》になるのを意識して、これもまた乱世の英雄である項羽の詩を、空海が書いたのである。  その余韻が醒めやらぬうちに、空海は、右手にさらに四本の筆を取った。  最初から持っていた筆を合わせて、五本の筆が空海の手に握られた。  その五本の筆をそろえ、硯に溜まった墨を含ませる。  残った墨の半分以上が、空海が握った五本の筆の中に含まれた。  中央の壁の前に立ち、 「では」  言うなり空海は身をかがめた。 「おう……」  という低い声が、それを眺めていた人間たちの唇から洩れた。  橘逸勢も、思わず側近たちと一緒に声をあげていた。  空海が、最初に筆を置いたのは、壁面の一番下方であったからである。  太い、黒々とした墨の線が、下から上へ立ちあがってゆく。  下から上へ——  このような筆法など、唐にも日本にもない。  空海は、何をやろうとしているのか。  最後には、伸びあがるようにして、頭よりも上まで筆を壁面に疾《はし》らせてから、次にまた空海はしゃがみ、今、一本の太い線を書いたばかりのその右横——やはり下方に筆を置き、右から左へ、一本の横棒をひいた。       |   ━━━━  壁面に、このような二本の線がひかれたことになる。  下から上へと最初の線を書くということがないように、右から左へ、横に線をひくというのも、書の筆法にはない。  しかも、筆を置く、ひく、止める、跳ねる——そのような、皆の知る筆の動きを、空海はしなかった。  次にまた空海は、今度は横棒をはさんだ右側に、また一本の線を書いた。  下から上へ。  線は、右へ揺れ、左へ揺れ、思いもよらぬ太さに変化をしたが、下から上へ向かう一本の線ということでは、始めに書かれた線と同じだ。   ━━━━       |   ━━━━  空海の手が動く。  次々と、不思議な線が壁面に描かれてゆく。  そして、線が増えてゆくに従って、そこに字の体をなしたものが出現しはじめた。  空海が筆を止めた時、 「むうう……」  呻《うめ》き声の如き、讚嘆の声が、憲宗の唇から洩れた。  壁面に出現したのは、ただ一文字、    樹[#文字大]  という字であった。  まだ終りではなかった。  最後に空海は、五本の筆を置き、硯を右手に持って、いきなり、残った墨の全てを、ざぶりと壁に向かって勢いよく注ぎかけた。  どよめきがあがった。  最後に空海が注いだ墨が、 「ヽ(点)」  となって、中央の壁面に、巨大な、    樹[#文字大]  の一文字が完成されていたからである。  最後に空海が注いだ墨は、周囲の壁面に跳ね、一部は垂れ、それだけを見ればとても「ヽ」とは見えぬものなのに、全体としてみれば、みごとにそこに「樹」の文字ができあがっている。  篆書《てんしょ》でもない。  隷書《れいしょ》でもない。  金文《きんぶん》でも草書でもない。  しかし、それはまぎれもない「樹」であり、どのような法で書かれたものより�樹�であるように見えた。  下から上へ、巨大なる樹が天に向かって伸び、枝を伸ばしている。  雄渾《ゆうこん》にして、充実しきった文字。  歪《いび》つだが、その歪《ゆが》みが力を持ち、堂々たる大樹の風格がその文字にはあった。 「みごとじゃ……」  獣が唸るような声をあげて、憲宗は言った。 「恐縮にござります」  まだ、硯を手に持ったまま、空海は言った。 「その樹は、曹植《そうしょく》の�高樹�であろう」  憲宗が言う。 「仰《おお》せの通りにござります」  空海が、頭を下げる。  曹植というのは、曹操の子の名である。  同じく、曹操の子である曹丕《そうひ》と並び、曹操、曹丕、曹植で「三曹」と呼ばれたほどの、卓越した詩人であった。  その曹植に、   高樹多悲風  で始まる詩がある。  高樹悲風多《こうじゅひふうおお》し—— �高い巨大なる樹には、悲風が多く吹く�  そういう意である。  それをふまえて、空海が壁面に樹の文字を書いたのである。  左側の壁面の曹操の詩に対して、他の二面につながりを持たせたのであった。 「空海よ、そなたを帰すのが惜しゅうなった」  憲宗が言った。  ふいの発言であった。  驚嘆の笑みを浮かべていた逸勢の表情が、一瞬、こわばった。  いったん、言葉を止めてから、 「さりながら——」  憲宗はそう続けた。 「先の、わが唐王朝をねろうた呪法《ずほう》の一件では、そなたの功、量り知れぬものがある。ここでそなたの願いを聴き届けぬのなら、我らはそなたの恩に対して仇で報いることとなろう」  憲宗は、言いながら空海を見つめている。 「帰るがよい。そなたの願い、聴き届けよう——」  憲宗は言った。 「身に余る御高配、感謝の言葉もござりませぬ」  空海の言葉を待ってから、 「あれを」  側近の者に、憲宗は声をかけた。  すぐに、側近のひとりが、銀の盆を手に持ってやってきた。  盆の上に、数珠《じゅず》が載っていた。  その数珠を、憲宗自ら手に取り、 「阿闍梨《あじゃり》殿、これへ」  空海を呼んだ。  空海が、憲宗の前に立つと、 「菩提樹の実で作らせた念珠《ねんじゅ》じゃ。これをそなたにしんぜよう」  ここは、空海の『御遺告』では、次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  仁、これを以て朕《ちん》が代となし、永く忘るることなかれ。朕、初めに謂《い》ひき、公《こう》を留《とど》めてまさに師とせんと。而《しか》るに今延べて東に還《かへ》らんとす、惟《こ》れ道理なり。後紀《こうき》を待たんと欲せば、朕が年既に半ばを越えたり。願はくは一期《いちご》の後、必ず仏会《ぶつゑ》に逢はんことを。 [#ここで字下げ終わり]  空海が、辞《じ》するおり、 「空海よ」  憲宗が、空海の面《おもて》をあげさせ、 「これより、五筆和尚を名のるがよい」  このように言った。  こうして、空海に�五筆和尚�の名が冠せらるることとなったのである。  これを記す『今昔《こんじゃく》物語集』や『高野大師御広伝』によれば、この時空海は、両手両足に四本の筆を持ち、口に一本の筆を咥《くわ》え、五本の筆で同時に壁に文字を書いたことになっている。  もとより、伝説の域を出ない話であるが、五筆和尚の名が、唐の国に残っていたのは事実であったらしい。  記録が残っている。  空海の時より四十数年後、後に天台座主《てんだいざす》となり、智証《ちしょう》大師とおくり名されることとなる僧|円珍《えんちん》が、入唐《にっとう》して長安に入った。この円珍が、青龍寺を訪れたおり、恵灌という僧が、 「五筆和尚は御健勝でござりますか」  このように問うてきたという。 「五筆和尚なれば、先年亡くなられました」  円珍がこう答えると、恵灌ははらはらと涙を流し、 「異芸、未だ曾《かつ》て倫《たぐい》あらず」  こう言ってなげいたという。  ともあれ——  空海と逸勢は、こうして帰国を許されたのであった。        (十三)  三月——  大地には、春の息吹が満ちていた。  馬を降り、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》水《すい》の堤の上に、空海は逸勢と共に立っている。  眼の前に、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》水の流れがある。  右から左へ。  この流れは、その先で、しばらく前に渡った|※[#「さんずい+顏のへん」の「彡」に代えて「生」、第4水準2-79-11]《さん》水《すい》と合流し、渭水《いすい》へと流れ込む。渭水はさらに流れて、いずれ黄河《こうが》へ注ぐことになる。  長安の春明門《しゅんめいもん》を今朝に出て、田園の中を馬で移動した。  桃李は花を開き、風の中に花の香が匂う。  野にも、樹々にも、緑が萌《も》えている。  堤の上から、対岸を見れば、その向こうに遥か緑の沃野《よくや》が烟《けぶ》っている。  堤に植えられた柳の緑が、風に揺れている。  |※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》橋《きょう》のたもと——  すでに高階真人遠成は、ことり、ことりと馬の蹄《ひづめ》で橋板を鳴らしながら渡り始めている。  空海と逸勢は、堤の上に立って、長安で知己《ちき》となった人々と、別れの挨拶を交わしている。  道は一本道。  行く先はわかっている。  遅れることの心配はない。  百人に余る人々の顔が、そこにあった。 「空海先生、お元気で——」  大猴《たいこう》が、眼をうるませて言った。  その横に、マハメットの顔がある。  トリスナイ、トゥルスングリ、グリテケン——マハメットの娘たちもそこにいる。  大猴は、絨毯屋のマハメットの所で、今は働いている。  空海と知り合った、西明寺《さいみょうじ》の僧たち。  そして、義明《ぎみょう》、義操《ぎそう》を始めとする青龍寺で法縁を結んだ僧たちもそこに顔をそろえていた。  吐蕃《とつばん》の僧、鳳鳴《ほうめい》の顔もあった。  彼らは、堤に生えた楊柳《ようりゅう》の枝を折り、それで輪を作り、空海と逸勢に与えた。  楊柳の輪は、両手に溢れている。  長安城から出てゆく、親しい旅人に、これを送るのがこの都のならわしであった。  すでに、遠方へと左遷された柳宗元の顔はそこにない。  赤《せき》の顔がある。  風が吹く。  柳が揺れる。  高い空を、雲が動いている。 [#ここから1字下げ]  空に随ふ 白霧忽ちに岑《みね》に帰る  一生一別、再び見《まみ》え難し [#ここで字下げ終わり]  空海が、義操に送った詩の一節である。  ここで別れれば、もう二度と顔を見ることはない。  誰もがそれをわかっている。  そういう別れであった。  もう、先行した遠成たちは、橋の半ばを過ぎていた。 「来ませんねえ」  そう言ったのは、胡玉楼《こぎょくろう》の玉蓮《ぎょくれん》である。  気になることがあるのか、長安の方角を、心配そうな眼で眺めている。 「今日、空海さんがお帰りになるというのはご存知のはずなんですけど——」  玉蓮が気にしているのは、白楽天《はくらくてん》のことであった。  空海に縁があって、ここに顔を出しそうな人物で、まだ来ていないのは白楽天のみであった。 「白楽天先生が、用意をしとけとおっしゃるから、こうしてこんなものまで持ってきたっていうのに、御本人が、まだおいでにならないなんて——」  そう言って、長安の方角を眺めた玉蓮の眼が、ふいに輝いた。 「いらっしゃいました」  玉蓮は言った。  見れば、長安からの田園の中の道を、馬を急がせてやってくる者がいた。 「確かに白楽天先生ですね」 「はい」  空海がうなずいた。  堤の上で、馬を停めると、転げ落ちるようにして、白楽天が馬から降りてきた。 「よかった。間にあったようですね」  白楽天の頬の肉は落ち、髪は乱れていた。  しかし、その眼にも、口元にも、抑えようのない喜びの表情がこぼれ落ちそうになっている。 「遅くなりました。清書するのに、今朝までかかってしまいましたが」  白楽天は言った。 「清書?」  空海が訊ねる。 「できたのです。ようやくできあがったのですよ」 「何がです?」 「『長恨歌《ちょうごんか》』が」  白楽天は、声を大きくして言った。 「ついに完成されたのですか」 「ええ。これをぜひ、空海さんに御披露したくてね。あなたのおかげです」  白楽天の息がはずんでいるのは、馬を急がせてきたためばかりではない。 「これを、ぜひ、お聴き願いたい」  白楽天は、顔を紅潮させて言った。 「ぜひ」  空海は言った。  白楽天は、懐から、巻いた紙片を取り出し、それを手に持った。 「いつでもよございますよ」  すでに、玉蓮は、月琴《げっきん》を手にして、白楽天の横に立っている。  風が吹いている。  柳が揺れている。  雲が高い空を流れてゆく。  ほろり、  と、玉蓮が弦《いと》を鳴らした。  白楽天が、風の中で、できあがったばかりの『長恨歌』を吟じはじめた。 [#ここから1字下げ]   長恨歌       長恨歌《ちょうごんか》  漢皇重[#レ]色思[#二]傾国[#一]   漢皇《かんこう》 色を重んじて 傾国《けいこく》を思う  御宇多年求不[#レ]得   御宇《ぎょう》 多年 求むれども得ず  楊家有[#レ]女初長成   楊家《ようか》に女《むすめ》有り 初めて長成す  養在[#二]深閨[#一]人未[#レ]識   養われて深閨《しんけい》に在り 人 未だ識《し》らず  天生麗質難[#二]自棄[#一]   天生の麗質《れいしつ》 自ら棄《す》て難く  一朝選在[#二]君王側[#一]   一朝 選ばれて 君王の側《かたわら》に在り  迴[#レ]眸一笑百媚生   眸《ひとみ》を迴《めぐ》らして 一たび笑えば 百媚《ひゃくび》生じ  六宮粉黛無[#二]顔色[#一]   六宮《りくきゅう》の粉黛《ふんたい》 顔色無し  春寒賜[#レ]浴華清池   春寒くして 浴を賜う 華清池《かせいち》  温泉水滑洗[#二]凝脂[#一]   温泉 水|滑《なめ》らかにして 凝脂を洗う  侍児扶起嬌無[#レ]力   侍児扶《じじたす》け起こせば 嬌《きょう》として力無し  始是新承[#二]恩沢[#一]時   始めて是《こ》れ 新たに恩沢《おんたく》を承くる時  雲鬢花顔金歩揺   雲鬢《うんびん》 花顔《かがん》 金の歩揺《ほよう》  芙蓉帳暖度[#二]春宵[#一]   芙蓉《ふよう》の帳暖《とばりあたた》かにして 春宵《しゅんしょう》を度《わた》る  春宵苦[#レ]短日高起   春宵 短きに苦しんで 日高《ひたこ》うして起く  従[#レ]此君王不[#二]早朝[#一]   此従《これよ》り 君王 早朝せず  承[#レ]歓侍[#レ]宴無[#二]閑暇[#一]   歓《たのしみ》を承け 宴に侍りて 閑暇《かんか》無く  春従[#二]春遊[#一]夜専[#レ]夜   春は春の遊びに従い 夜は夜を専《もっぱ》らにす  後宮佳麗三千人   後宮の佳麗《かれい》 三千人  三千寵愛在[#二]一身[#一]   三千の寵愛《ちょうあい》 一身に在《あ》り  金屋粧成嬌侍[#レ]夜   金屋《きんおく》 粧《よそお》い成《な》って 嬌《きょう》として夜に侍し  玉楼宴罷酔和[#レ]春   玉楼 宴|罷《や》んで 酔うて春に和す  姉妹弟兄皆列[#レ]土   姉妹 弟兄 皆 土《ど》に列し  可[#レ]憐光彩生[#二]門戸[#一]   憐《あわれ》れむ可《べ》し 光彩 門戸に生ず  遂令[#二]天下父母心   遂に 天下の父母の心をして  不[#レ]重[#レ]生[#レ]男重[#一レ]生[#レ]女   男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ  驪宮高処入[#二]青雲[#一]   驪宮《りきゅう》 高き処《ところ》 青雲に入り  仙楽風飄処処聞   仙楽《せんがく》 風に飄《ひるがえ》りて 処処《しょしょ》に聞こゆ  緩歌慢舞凝[#二]糸竹[#一]   緩歌《かんか》 慢舞《まんぶ》 糸竹《しちく》を凝《こ》らし  尽日君王看不[#レ]足   尽日《じんじつ》 君王 看《み》れども足らず  漁陽※[#「鼓/婢のつくり」、第4水準2-94-67]鼓動[#レ]地来   漁陽《ぎょよう》の|※[#「鼓/婢のつくり」、第4水準2-94-67]《へい》鼓《こ》 地を動《どよ》もして来たり  驚破霓裳羽衣曲   驚破《けいは》す 霓裳羽衣《げいしょううい》の曲  九重城闕煙塵生   九重《きゅうちょう》の城闕《じょうけつ》 煙塵《えんじん》生じ  千乗万騎西南行   千乗 万騎 西南に行く  翠華揺揺行復止   翠華《すいか》 揺揺として 行きて復《ま》た止まり  西出[#二]都門[#一]百余里   西のかた 都門を出ずること 百余里  六軍不[#レ]発無[#二]奈何[#一]   六軍《りくぐん》発せず 奈何《いかん》ともする無く  宛転蛾眉馬前死   宛転《えんてん》たる蛾眉《がび》 馬前に死す  花鈿委[#レ]地無[#二]人収[#一]   花鈿《かでん》 地に委《す》てられて 人の収むる無し  翠翹金雀玉掻頭   翠翹《すいぎょう》 金雀《きんじゃく》 玉掻頭《ぎょくそうとう》  君王掩[#レ]面救不[#レ]得   君王 面を掩《おお》いて 救い得ず  回看血涙相和流   回り看て 血涙 相和《あいわ》して流る  黄埃散漫風蕭索   黄埃《こうあい》 散漫として 風蕭索《かぜしょうさく》たり  雲桟※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1-90-16]紆登[#二]剣閣[#一]   雲桟《うんさん》 |※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1-90-16]《えい》紆《う》して 剣閣に登る  峨嵋山下少[#二]人行[#一]   峨嵋山下《がびさんか》 人行少《じんこうまれ》なり  旌旗無[#レ]光日色薄   旌旗《せいき》 光無く 日色薄し  蜀江水碧蜀山青   蜀江 水|碧《みどり》にして 蜀山青し  聖主朝朝暮暮情   聖主 朝朝暮暮の情  行宮見[#レ]月傷心色   行宮《あんぐう》 月を見ては 傷心の色  夜雨聞[#レ]鈴腸断声   夜雨 鈴を聞けば 腸断の声  天旋日転迴[#二]竜馭[#一]   天|旋《めぐ》り 日|転《めぐ》りて 竜馭《りゅうぎょ》を迴らし  到[#レ]此躊躇不[#レ]能[#レ]去   此《ここ》に到り 躊躇《ちゅうちょ》して 去ること能《あた》わず  馬嵬坡下泥土中   馬嵬坡《ばかいは》の下《もと》 泥土《でいど》の中《うち》  不[#レ]見[#二]玉顔[#一]空死処   玉顔《ぎょくがん》を見ず 空しく 死せし処《ところ》  君臣相顧尽霑[#レ]衣   君臣 相顧《あいかえり》みて 尽《ことごと》く衣を霑《うるお》し  東望[#二]都門[#一]信[#レ]馬帰   東のかた 都門を望み 馬に信《まか》せて帰る  帰来池苑皆依[#レ]旧   帰り来たれば 池苑《ちえん》 皆旧《みなきゅう》に依《よ》る  太液芙蓉未央柳   太液《たいえき》の芙蓉《ふよう》 未央《びおう》の柳  芙蓉如[#レ]面柳如[#レ]眉   芙蓉は面《かお》の如く 柳は眉の如し  対[#レ]此如何不[#二]涙垂[#一]   此《これ》に対して 如何《いかん》ぞ 涙垂れざらん  春風桃李花開日   春風《しゅんぷう》 桃李《とうり》 花開く日  秋雨梧桐葉落時   秋雨《しゅうう》 梧桐《ごとう》 葉落つる時  西宮南苑多[#二]秋草[#一]   西宮《せいきゅう》 南苑《なんえん》 秋草《しゅんそう》多く  落葉満[#レ]階紅不[#レ]掃   落葉 階に満ちて 紅掃《くれないはら》わず  梨園弟子白髪新   梨園《りえん》の弟子《ていし》 白髪新たに  椒房阿監青娥老   椒房《しょうぼう》の阿監《あかん》 青娥《せいが》老いたり  夕殿蛍飛思悄然   夕殿《せきでん》に 蛍飛んで 思い悄然たり  孤燈挑尽未[#レ]成[#レ]眠   孤燈《ことう》 挑《かが》げ尽くして 未だ眠りを成さず  遅遅鐘鼓初長夜   遅遅たる鐘鼓《しょうこ》 初めて長き夜  耿耿星河欲[#レ]曙天   耿耿《こうこう》たる星河 曙《あ》けなんと欲するの天  鴛鴦瓦冷霜華重   鴛鴦《えんおう》の瓦冷《かわらひ》ややかにして 霜華《そうか》重く  翡翠衾寒誰与共   翡翠《ひすい》の衾《しとね》寒くして 誰と共にせん  悠悠生死別経[#レ]年   悠悠たる生死 別れて年を経るも  魂魄不[#二]曾来入[#一レ]夢   魂魄《こんぱく》 曾《かつ》て来たりて夢にだも入らず  臨※[#「功のへん+卩」、446-16]道士鴻都客   |臨※[#「功のへん+卩」、446-16]《りんきょう》の道士 鴻都《こうと》の客  能以[#二]精誠[#一]致[#二]魂魄[#一]   能《よ》く精誠を以て 魂魄《こんぱく》を致す  為[#レ]感[#二]君王展転思[#一]   君王が展転《てんてん》の思いに感ずるが為に  遂教[#二]方士慇勤覓[#一]   遂に方士をして慇勤《いんぎん》に覓《もと》めしむ  排[#レ]空馭[#レ]気奔如[#レ]電   空を拝し 気を馭《ぎょ》して 奔《はし》ること電《いなずま》の如く  昇[#レ]天入[#レ]地求[#レ]之遍   天に昇り 地に入りて 之《これ》を求むること遍《あまね》し  上窮[#二]碧落[#一]下黄泉   上《かみ》は碧落《へきらく》を窮《きわ》め 下《しも》は黄泉《こうせん》を  両処茫茫皆不[#レ]見   両処 茫茫《ぼうぼう》として 皆見えず  忽聞海上有[#二]仙山[#一]   忽《たちま》ち聞く 海上に仙山《せんざん》有り  山在[#二]虚無縹緲間[#一]   山は 虚無 縹緲《ひょうびょう》の間に在りと  楼閣玲瓏五雲起   楼閣 玲瓏《れいろう》として 五雲《ごうん》起こり  其中綽約多[#二]仙子[#一]   其《そ》の中に綽約《しゃくやく》として 仙子《せんし》多し  中有[#二]一人[#一]字太真   中に一人有り 字《あざな》は太真《たいしん》  雪膚花貌参差是   雪膚《せっぷ》 花貌《かぼう》 参差《しんし》として是れならん  金闕西廂叩[#二]玉※[#「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68][#一]   金闕《きんけつ》の西廂《せいしょう》 |玉※[#「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68]《ぎょくけい》を叩き  転教[#三]小玉報[#二]双成[#一]   転じて小玉をして双成《そうせい》に報ぜしむ  聞道漢家天子使   聞道《きくなら》く 漢家の天子の使いなりと  久華帳裏夢魂驚   九華帳裏《きゅうかちょうり》 夢魂《むこん》驚く  攬[#レ]衣推[#レ]枕起徘徊   衣を攬《と》り 枕を推《お》し 起ちて徘徊《はいかい》し  珠箔銀屏※[#「二点しんにょう+麗」、第4水準2-90-4]※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52]開   珠箔《しゅはく》 銀屏《ぎんぺい》 |※[#「二点しんにょう+麗」、第4水準2-90-4]《り》|※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52]《い》として開く  雲鬢半垂新睡覚   雲鬢《うんびん》 半ば垂れて 新たに睡《ねむ》りより覚め  花冠不[#レ]整下[#レ]堂来   花冠《かかん》 整えず 堂を下り来たる  風吹[#二]仙袂[#一]飄※[#「搖のつくり+風」、第4水準2-92-37]挙   風は仙袂《せんぺい》を吹いて |飄※[#「搖のつくり+風」、第4水準2-92-37]《ひょうひょう》として挙がり  猶似[#二]霓裳羽衣舞[#一]   猶《な》お 霓裳羽衣《げいしょううい》の舞に似たり  玉容寂寞涙闌干   玉容《ぎょくよう》 寂寞《せきばく》 涙闌干《なみだらんかん》  梨花一枝春帯[#レ]雨   梨花一枝 春 雨を帯びたり  含[#レ]情凝[#レ]睇謝[#二]君王[#一]   情を含み 睇《ひとみ》を凝《こ》らして 君王に謝す  一別音容両渺茫   一別 音容《おんよう》は両《ふた》つながら渺茫《びょうぼう》  昭陽殿裏恩愛絶   昭陽殿裏《しょうようでんり》 恩愛絶え  蓬莱宮中日月長   蓬莱《ほうらい》宮中 日月《じつげつ》長し  迴[#レ]頭下望[#二]人寰[#一]処   頭《こうべ》を迴《めぐ》らして 下《しも》のかた人寰《じんかん》を望む処  不[#レ]見[#二]長安[#一]見[#二]塵霧[#一]   長安を見ず 塵霧《じんむ》を見る  唯将[#二]旧物[#一]表[#二]深情[#一]   唯《た》だ旧物を将《も》て 深情を表さんと  鈿合金釵寄将去   鈿合《でんごう》 金釵《きんさ》 寄せ将《も》て去らしむ  釵留[#二]一股[#一]合一扇   釵《さ》は一股《いっこ》を留《とど》め 合は一扇を  釵擘[#二]黄金[#一]合分[#レ]鈿   釵は黄金を擘《さ》き 合は鈿《でん》を分かつ  但令[#三]心似[#二]金鈿堅[#一]   但《た》だ心をして 金鈿《きんでん》の堅きに似しむれば  天上人間会相見   天上 人間《じんかん》 会《かなら》ず相見《あいみ》ん  臨[#レ]別慇勤重寄[#レ]詞   別れに臨んで 慇勤《いんぎん》に 重ねて詞《ことば》を寄す  詞中有[#レ]誓両心知   詞《ことば》の中に誓い有り 両心《りょうしん》のみ知る  七月七日長生殿   七月七日 長生殿《ちょうせいでん》  夜半無[#レ]人私語時   夜半人無く 私語《しご》の時  在[#レ]天願作[#二]比翼鳥[#一]   天に在りては 願わくは比翼《ひよく》の鳥と作《な》り  在[#レ]地願為[#二]連理枝[#一]   地に在りては 願わくは連理《れんり》の枝と為《な》らん  天長地久有[#レ]時尽   天長地久《てんちょうちきゅう》 時有りて尽きんも  此恨綿綿無[#二]尽期[#一]   此の恨《うら》み 綿綿《めんめん》として 尽きる期《とき》無し [#ここで字下げ終わり]  月琴の音と白楽天の声が風に乗り、河の上を渡ってゆく。  それを、さらに遠くの空へ、風が運んでゆく。  白楽天の眼から、ひと筋、ふた筋、涙がこぼれ、頬を伝っている。  風が吹く。  柳が揺れる。  桃花が匂っている。  人がいる。  空海がいる。  逸勢がいる。  玉蓮がいる。  白楽天がいる。  鳳鳴がいる。  義操がいる。  マハメットがいる。  トリスナイがいる。  トゥルスングリがいる。  グリテケンがいる。  大猴が笑っている。  河が流れている。  風が吹いている。  空がある。  虫が飛んでいる。  陽が差している。  人がいる。  樹々が匂っている。  風が匂っている。  空がある。  雲がゆく。  人がゆく。  いずれの距離も等価である。  宇宙が匂っている。  人が、体内に満ちてくる。  宇宙が、満ちてくる。  風が吹く。 「ああ……」  空海は、白楽天の声を聴きながら、小さく呻くようにつぶやいた。 「たまらぬ……」  風が吹く。  雲がゆく。  桃花が匂う。  風が吹く。  何もかもが爛漫《らんまん》の——  たまらぬ曼陀羅《まんだら》の春であった。 [#改ページ]    転章 風止まず        (一)  空海と逸勢は、洛陽《らくよう》の人混みの中を歩いている。  長安を発《た》って、洛陽に着いたのは、昨日の夕刻であった。  この洛陽では、三日ほど滞在し、旅の疲れをとってから、また日本に向かって出立することになっている。  二年前——  長安へ入る前に、この洛陽には訪れている。  思えば、空海はこの地で丹翁と出会い、瓜と偽った犬の首を抱えさせられることとなったのだ。  四月——  市は賑《にぎ》わっていた。  そこで、空海は、なつかしいものを見つけた。 「ほう、茘枝か」  南方から運ばれてきた茘枝が、もう、店で売られていたのである。  空海は、幾つか買い求め、それを懐に入れて歩いている。  行く手に、洛水《らくすい》に掛かった天津橋《てんしんきょう》が見えている。 「おい、空海よ」  逸勢が、声をかける。 「何だ、逸勢」 「初めてあの天津橋を見た時は、心ときめいたものだが、今眺めるこの天津橋は、妙になつかしいものだな」  日本に帰ることになって、逸勢は逸勢なりに感傷的になっているようであった。 「これも、もう、二度と拝むことができぬと思えば、残念な気もするのだ」 「では、残るか、逸勢」 「馬鹿なことを言うな。帰ることができるからこそ言うた言葉ぞ」  逸勢が、慌ててそう言った。  橋板を鳴らして、対岸に渡る。  そこに、人だかりがあった。  橋のほとりの河原に、人が集まっている。 「行ってみよう」  時間は、充分にある。  人だかりの中に入って覗くと、川岸にひとりの老人が立っている。  人だかりは、その老人を囲んでいる。  老人は、一本の杖を右手に握っていた。 「さあ、名を書きまするぞ、名を書きまするぞ」  老人が、集まった人間たちに、声をかける。 「近頃、よろしくないことばかり起こっているお方を、祓《はら》ってしんぜよう。いや、このわしが祓うのではない。祓うのは東海龍王《とうかいりゅうおう》じゃ。わしが役目は、そなたらの名を書いて、東海龍王に届けることじゃ」 「ならば、頼もうか」  ひとりの男が前に出てきた。  男が名を告げると、老人が手に持った杖の先で、岸に近い川面にその名を書く。 「見ろ、空海——」  それを眺めていた逸勢が、空海の耳元で、驚きの声を洩らした。  普通は、書くそばから水面に書かれた文字は消えてゆくのに、その老人が書いた文字は消えなかったのである。  消えぬまま、水面を、書かれた男の名前が流れてゆく。  そしてそのまま、洛水を下って文字は見えなくなった。 「さあ、どうじゃ。今の名は、洛水を下り、黄河を下って海に注ぎ、東海龍王のもとまで流れてゆく。そこで龍王殿が、悪しき障《さわり》を祓《はろ》うて下されるのじゃ」  老人が言う。  一同が、驚きの声をあげるのを、老人は、澄ました顔で聴いている。  名を書いてもらった男は、懐から小銭を出して、老人に渡した。  老人は、そうやって、名を書いてやった人間から、何がしかの銭をもらって、ここで商《あきな》いをしているらしい。  何人かの人間の名を、同様に書いた後で、老人が、 「そこなお方——」  声をかけてきた。  その眼が、空海を見つめている。 「どうじゃ、そなたもひとつ、いかがかな」  逸勢が、空海の背を突いて、 「おい、空海よ、おまえのことらしいぞ」  そう言った。 「呼ばれては、仕方あるまいよ」  空海が前に出てゆく。  その後方から、逸勢がついてゆく。  前に出て来た空海に向かって、 「僧か。なれば、わしが書くまでもあるまい。自身で書かれよ」  老人が、空海に持っていた杖を手渡してきた。  空海は杖を受け取り、 「自身の名を書くは、恥ずかしゅうござりまする故、別の文字を書かせていただきましょう」  そう言った。 「ほう、何という文字を?」 「龍でござります」  空海は、手に持った杖の先で、水面に龍という文字を書いた。  やはり、その文字も消えずに流れてゆく。  人々の間から、讚嘆の声があがった。  空海が、ぽん、と手を叩いた。  と——  流れてゆく龍の文字が、水面で身をよじった。  見る間に、その龍の文字が水面から上に頭を持ちあげはじめた。 「おう」 「おう」  見物人が声をあげる。 「龍が、昇ろうとしている」  見物人がどよめいた。  龍の文字が水面から宙に浮きあがった。 「なるほど」  老人は、そう言って空海の手から杖を受け取り、 「ではこのわしも、何かひとつ書かねばなるまい——」  老人は、杖を持って、水面に、さらさらと鳳という文字を書いた。  その文字が流れてゆき、龍の文字を追うように水面を離れ、天に向かって舞いあがってゆく。 「なんと」 「あれを見よ」  大騒ぎとなった。  天に向かって登ってゆく龍の文字に、あとから鳳の文字が追いついて、青い空の中ほどで、もつれ合うように水のしぶきをあげた。  そのしぶきが、陽光を浴びて、きらきらと光っている。  やがて——  それが消えた時、いつの間にか、河原から、老人の姿も、僧とその連れの姿も消えていた。        (二)  洛陽の街の中を、空海と逸勢は、杖を持ったあの老人と共に歩いている。  老人は、おかしそうに、喉《のど》の奥で、くつくつと低い笑い声をあげている。 「お久しゅうござります、丹翁さま」  空海が言った。 「久しぶりじゃ」  まだ、楽しそうに笑みを浮かべながら丹翁が言った。  それまで、空海と逸勢が知っていた丹翁とは、別人のように人相が変わっていた。  邪気が欠片《かけら》もない柔和な顔になっている。  すでに、逸勢は丹翁と知らされているが、すぐにはわからなかった。 「しかし、空海よ、いつわかったのだ」  逸勢が訊《き》く。 「見た時に、すぐさ」  空海が答える。 「待っていたのさ、空海」  丹翁が言う。 「青龍寺の大|阿闍梨《あじゃり》が、日本へ帰るという話は聴きおよんでいたのだがな。長安よりも、ここで、こうして会う方がよかろうと思うてな」 「はい」 「あそこで会えねば、今夜にでも飯店の方にゆくつもりであった」  前回、長安へ入る前に、空海たち一行が宿をとったところである。 「ところで、丹翁さまには、御礼を申しあげねばなりません。その礼を言えずに唐を去るのが、わたしの心残りでした」  空海は言った。 「礼? 何の礼じゃ」 「青龍寺の一件でござります。珍賀《ちんが》様の夢を操られましたね」 「おう、あのことか。なあに、ぬしのことだから、いずれは何とかするであろうとは思うたのだが、余計なことをした」 「いいえ。あの時、丹翁様がお働き下されなければ、今は、こうして、帰ることなどできずに、まだ長安にいたやもしれませぬ」 「役に立ったのなら、嬉しい限りじゃ」  丹翁は言った。 「ところで、楊玉環《ようぎょくかん》様は?」  空海が訊ねた。  すると、それまで冗舌であった丹翁が、ふいに口を閉ざした。  無言のまま、洛陽の人混みの中を、三人は歩いてゆく。  丹翁の眼から、ひと節、涙がこぼれていた。  天を見あげ、 「死んだわい……」  ぼそりと言った。 「お亡くなりになられたのですか」 「うむ」  丹翁が立ち止まり、下を向いた。 「わが腕の中で、眠るように逝《い》った……」  土の上に、涙が染《し》みをつけた。 「一年に満たぬ間であったが、わが生涯、これほど幸せな日々はなかった」  また、丹翁は、天を見あげた。 「礼を言う。空海よ、ぬしのおかげじゃ。ぬしがおらなんだら、このような日々を持つことはかなわなんだであろう」  丹翁は、頬を伝う涙をぬぐわなかった。 「しかし、よいところでお会いできました。お知らせしたいことがあったのです」  空海は言った。 「何じゃ」 「いえ、口で言うより、ごらんに入れた方がよいでしょう。これを——」  空海は、懐から、巻いた紙片を取り出した。 「お読み下さい」 「これは?」 「白楽天が、作ったものです」  空海から受け取ったその紙片を開き、丹翁はそれを読みはじめた。 『長恨歌』。  白楽天が、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》橋《きょう》のたもとで、玉蓮の月琴と共に吟じたものだ。  その後、別れ際に、 「ぜひ、これを——」  白楽天が空海に渡したものであった。  眼で、それを読んでゆく丹翁の白い髪を、微風が揺らしている。  読み終え、 「みごとなものだ」  丹翁は言った。 「李白殿とは、また違った才だが、いずれ名をなさずにはおられぬだろう」 「はい」  空海はうなずき、 「それを、お持ち下さい」 「よいのか」 「わたしは、すでに皆、諳《そら》んじておりますれば——」 「もろうておこう」  丹翁が、それを懐に入れた。  その懐に入った手が出てきた時、今の巻き紙とは別の、紙に包んだものを握っていた。 「これは?」 「楊玉環が髪じゃ……」  丹翁は言った。 「これを、ぬしの国へ——あの晁衡《ちょうこう》の国へ持って行って埋めてくれ。先ほど、頼みたいことがあると言うたは、このことさ。もともと、われら、晁衡殿と共に、ゆくつもりであった地じゃ。わが髪も、中に混ぜてある」  空海は、それを両手に取り、 「お預かりいたします」  懐に収めた。  それを確かめてから、 「では、ゆく——」  丹翁は言った。 「もう、ゆかれるのですか」 「うむ」 「今夜は、共に酒《ささ》でもと思うたのですが——」 「やめておこう。二度もまた、涙は見せられぬでな」 「どちらへ」 「風のままさ」  丹翁の涙が、もう、乾いている。 「わが生涯、すでに思い残すことはない。風のままに、いずれの地へでも流れてゆくさ」 「——」 「吹きようによっては、そなたの国までゆくやもしれぬ」 「いつでも」  空海は言った。 「ところで、丹翁様、楊玉環さまの墓所《ぼしょ》はどちらでござりますか」 「終南山《しゅうなんざん》の近くの村じゃ。わししか知らぬ——」 「では、お願い申しあげたきことがひとつ——」 「何じゃ」 「わたくしからのたむけとして、楊玉環さまの墓所に、そなえていただきたいものが——」 「ほう」 「華清池《かせいち》で、拾うてきた石にござります」 「石?」 「はい。あのことのしるしとして、持ち帰るつもりでござりましたが、楊玉環さまの墓所にたむけていただけるなら、それがよろしかろうと思います」 「石は?」 「これにござります」  空海は、懐に右手を入れ、そこから小石をひとつ、取り出した。 「これを、ぜひ——」 「わかった」  丹翁は、その石を受け取り、自分の懐に収めた。 「今の詩と共に、楊玉環にたむけよう」  空海と丹翁は、立ったまま、見つめあった。 「そのうちに、倭国《わこく》の方に風が吹くこともありましょうか——」 「いずれは、あるやも知れぬなあ」  丹翁は言った。 「ゆく」  丹翁は、背を向けていた。  人混みの中を、丹翁が歩いてゆく。  その姿が遠くなる。  立ったまま、空海と逸勢が見つめているうちに、やがて、人の渦にまぎれ、丹翁の姿は見えなくなった。 「行ってしまわれたな」  逸勢は言った。 「うむ」  空海がうなずいた。 「しかし、おまえ、よくあのようなものを持っていたな」 「あのようなもの?」 「華清池で拾うてきたという石さ」 「あれか」 「そうさ。おまえもそのような可愛いことをするのだな」  言われた空海は、 「ふふ」  と、小さく笑った。 「何がおかしいのだ、空海」 「いや、丹翁さまのことを想像したのさ」 「丹翁さまのこと?」 「うむ」 「何のことだ」 「今晩教えてやろう」 「今、教えろ」 「いや、今晩だ」  空海は言った。 「あれを見たら、急にまた風向きも変わるかもしれぬということさ」 「何のことだ」 「逸勢よ。今夜は、ひょっとすると、四天王に踏みつけられるような怖い夢を見るかもしれぬ。気をつけよ——」  空海は、歩き出していた。  歩きながら、空海は、楽しそうに笑っていた。        (三)  洛水のほとりを歩いていた丹翁は、ふいに、懐の感触に、妙なものがあることに気がついていた。  何か、さきほどまでと違う感触のものがある。 「はて——」  歩きながら、丹翁は、懐に手を入れた。  丸いものがある。  さきほど、空海が渡してよこした石であった。  それを取り出した。 「これは!?」  丹翁の右手の中にあったもの。  それは、石ではなかった。  それは、ひとつの茘枝であった。  楊玉環が、好んだ果実である。  丹翁は、そこに立ち止まっていた。  穴のあくほど、手の中の茘枝を丹翁は見つめていた。 �これを、楊玉環様の墓所にたむけて下さりませぬか� 「犬の首の、仕返しをされたかよ……」  丹翁はつぶやいた。  ふいに、丹翁は笑い始めた。  周囲を歩く者が、驚いて脇へ逃《の》くほどの大きな声であった。  なんという男だ。  空海め。  このような真似を、このおれにするとは。  丹翁は笑った。  おもしろい——  空海よ。  おまえは、おもしろい。  丹翁は、洛陽の人混みの中で、ただひとり、いつまでも笑い続けていた。 [#地から1字上げ]『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』完 [#地から5字上げ]二〇〇四年 四月十二日 [#地から3字上げ]小田原にて [#地付き]夢枕 獏 [#改ページ]    あとがき  ああ、なんというど傑作を書いてしまったのだろう。  いや、もう、たまりません。  ごめんなさい。  どうぞ御勘弁。  自画自讚、させていただきたい。  どうだ。  ついに書いちゃった。  凄い話だぞ。  物語に力がある。  物語の根元的な場所からこんこんと溢《あふ》れ出てくる力だ。  読めば、どすんどすんと地響きをたてて、物語が向こうから迫ってくる。  なんと嬉しく、なんと心ときめく地響きであろうか。  こんな話を読みたかった。  それを書いてしまった。  なんということをしてしまったのか。  それにしても時間がかかった。  この『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の第一回目が掲載されたのは『SFアドベンチャー』の一九八八年二月号である。  つまり、一行目が書き出されたのが、一九八七年の十二月である。  終ったのが、今年二〇〇四年に発行された『問題小説』の六月号である。  足かけで十八年。  中身で言えば、十七年かかってしまったことになる。  かかってよかった。  多くの事情で四回も連載誌がかわったが、続けてよかった。  あきらめないでよかった。  途中からは、この物語を最初から読んでいるのは、もう、ぼくとその時その時の担当編集者のただふたりだけであろうと思いながら書き続けてきた。  この地上でただふたりのみ。  書き出した頃は、中国ものを書いている作家など、周囲にもほとんどいなかった。  今はもう、中国ものと言えば、書店に溢れ、完全に小説の一ジャンルとなってしまっている。  感慨無量。  暗闇に石を投げ込むような十七年であった。  読者の反応がわからないからである。  あたりまえだ。  雑誌を何誌も渡り歩き、転々としながら連載されている小説を、十七年間も追っかけて読んでくれる読者はいないであろう。  だからといって、書くのをやめるわけにはいかない。  ただただ、ひたすら自分のパトスを維持して書き続けてゆくのみである。  途中、何度か誘惑もあった。 「書きあがった分だけでも本にしませんか」  そう言われた。  しかし、今、本にしたら、続きが出るのは何年も後になってしまう。書きあがるまで本にはしないと決めた。 「あと二〇〇枚で終りますから」  あと二〇〇枚、あと二〇〇枚と言い続けて十年——一〇〇〇枚以上をさらに書いてしまったのである。  ぼくの恐怖は、この物語を完成しないまま、どこかで事故か何かで死んでしまうことであった。  おれが死んじゃったら、誰がこの続きを書くの——  誰も書かない。  誰も書けない。  この『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』のみではなく、この地上の物語の多くはそういうものだ。  辛抱してよかった。  書きあげた時のカタルシスは、何ものにもかえがたい。  これがあるから、十七年だろうと二〇年だろうと耐えられるのである。 『陰陽師』の一行目を書いたのが、一九八六年だから、そのほぼ一年後にこの物語はスタートしたことになる。  告白しておけば、書きはじめた時は、二〜三年で書きあがると思っていたのである。  まず、主人公が決まった。  前から書きたかった空海の話である。  空海が、唐の長安で妖怪と闘う——密教のおもしろさを知りかけた頃であり、見切り発車であるが、なんとかなるとの自信はあった。  しかし、本当は、一行目を書いた時には楊貴妃が出てくることになるとは考えてもいなかったのである。  連載を重ねながら、 「こりゃあ、楊貴妃だなあ」 「ここは、李白だなあ」  などと、手さぐりと勘で、十七年、毎回少しずつ物語を創っていったのである。  作者だってわかってないんだから、たぶん、読者だって、一巻目を読んだだけでは結末の想像はつかないのではないか。  また、そこがかえって、おもしろいのではないか。  こういうやり方は、間違いなくあるのではないかと思う。  書きあげてしまったら、安心してしまって、勝手なことを書いてる。  もう、すでに次の『大江戸恐龍伝』をぐいぐいと書いている最中であり、中断していた九十九乱蔵の『宿神』にもようやくとりかかることのできる状況になってきたのである。  嬉しい。 『最終小説』だって、始めてしまうのである。  待っていろよ『明治大帝の密使』。  どんどんいくぞ『水戸黄門伝奇行』。 『悪太郎』。 『大江戸釣客伝』。  新しい物語を次々に書き出す予定であり、今、そのことにも力こぶが入っているのである。  四巻目に、何行か空海の東北時代のことを書いておりますが、これは『新・魔獣狩り』八巻目の空海の台詞を受けてのことです。  役小角、空海の日本編、果心居士、いずれ必ず書きます。  まだまだ書くものは山のようにあって、たぶん残りの一生書き続けても全部は書き終わらないと思います。  ああ、なんということだ。書きたい物語を全部書けずに死んじゃうのか、このおれは。  けれども。  だから——  一生書きます。  これだけは約束したい。  棺桶に両足突っ込むまで書きます。  というわけで、もう一度書いておきたい。  この物語は、本当に、これまで誰も書いたことがないようなど傑作であります。 [#地から5字上げ]二〇〇四年 八月十五日 [#地から3字上げ]小田原にて [#地付き]夢枕 獏  ●夢枕獏公式HP蓬莱宮アドレス http://www.digiadv.co.jp/baku/ [#改ページ]    参考文献  以下の本を資料といたしました。  ただ、あまりに資料が多く、一部の本、パンフや雑誌などは載せてありません。  その他にも、資料としてコピーはとったものの、もはや元本のタイトルも著者も忘れ果ててしまっているものもたくさんあります。  十七年、やはり長いです。  お気づきのことあれば、お知らせ下さい。  何度か、長安(西安)にも取材に行き、青龍寺や華清宮、楊貴妃の墓所にも行ってきました。  そこで手に入れた本を、日本語に翻訳して下さった方もいます。  多くの方に御礼申しあげます。  ぼくひとりではとても、ここまで長期の連載を乗りきることはできなかったでしょう。  ありがとうございました。 『弘法大師 空海全集 全八巻』筑摩書房 『密教辞典』佐和隆研編 法蔵館 『史記㈿ 権力の構造』司馬遷 徳間書店 『シルクロードの幻術』森豊 六興出版 『ゾロアスター経 神々への讃歌』岡田明憲 平河出版社 『空海の風景 上・下』司馬遼太郎 中央公論社 『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』定方晟 講談社現代新書 『密教 インドから日本への伝承』松長有慶 中公文庫 『沙門空海』渡辺照宏・宮坂宥勝 ちくま学芸文庫 『空海と錬金術 金属史観による考察』佐藤任 東京書籍 『長安・洛陽物語』松浦友久・植木久行 集英社 『空海求法伝 曼陀羅の人 上・下』陳舜臣 TBSブリタニカ 『生命の海〈空海〉』宮坂宥勝・梅原猛 角川書店 『私度僧 空海』宮崎忍勝 河出書房新社 『中国の詩人10 諷諭詩人 白楽天』太田次男 集英社 『長恨歌と楊貴妃』近藤春雄 明治書院 『空海の夢』松岡正剛 春秋社 『空海』稲垣真美 徳間書店 『鑑賞 中国の古典16 李白』筧久美子 角川書店 『鑑賞 中国の古典18 白楽天』西村富美子 角川書店 『鑑賞 中国の古典19 唐詩三百首』深澤一幸 角川書店 『長安の月 寧楽の月 仲麻呂帰らず』松田鐵也 時事通信社 『密教の秘密の扉を開く』佐藤任 出帆新社 『秘密経典 理趣経』八田幸雄 平河出版社 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